隙間光

夏生 夕

第1話

この職業をしていると、一生のうちに何十回・何百回と同じ質問を投げかけられる。

私はそれを本当には考えたことが無い。


一体、何のために書いているのか。


筆が再び止まって久しい。時計は午前2時過ぎを指している。

キーボードを打つ音は完全に途絶え、たまに走り去る車の走行音と、絶え間なく進む秒針の硬い音だけが空間に響いている。頭に響いてくる。


なんのために。

それが無いから、こうして過去何度も書き進められなくなってきたのだろうか。ではそれを見つけなければ今後も同じ苦しみを味わうのか。そう思うと呻き声が漏れた。半日ぶりの発声で、実際ははっきりとした形も無い吐息が暗闇に掠れひろがっただけだ。

不意にスマホの画面が光った。こんな時間に何かと見ればアラーム機能だった。


『外へ。』


予定ではなく呪文である。

最低限の単語しか表示されていないが思い出した。昨日、担当編集者と打ち合わせした際、半ば強制的にカレンダー登録されてしまったのだった。

こんな真夜中に起きているとすれば当然それは執筆のためで、筆がノり没入しているのならばこの通知に気付くことは無い。つまりこれを目にしたとすれば、いつもの負のスパイラルの只中だろうと。散歩でもして頭を冷やせというお達しだった。

予想は的中し、順調に煮詰まっています。見事さすがの見立てといったところか。

窓に目線をやると外は当然ながら深い闇で、パソコンの青光に照らされる分だけの俺が映っている。部屋に延長してきた夜の中に自分が既にいるみたいに見えた。

隔てているのはこのガラス一枚だけなのだ。

そう考えれば動くのも億劫ではない。はずだ。

手近に積まれた本を脇にどかし、ぐっ、と右腕を伸ばす。見えない畳を手当たり次第にさすると、毛羽立った布に指先が程なく触れた。

つい先日この部屋を整頓したばかりだ。目的のカーディガンがこうしてすぐに見つからなければ、出掛けようと醒めかけていた気力が再び失われていたことだろう。


扉を開けると秋の夜特有の匂いが吹き込んだ。草木のように柔らかく、それでいて鋭い冷たさがある。大きく吸って肺を満たすと、瞬きのたびに視界が開けていくのを感じる。

鍵を掛ける音が思いのほか響き肩を縮こまらせ、反射的に隣部屋の扉を見つめた。出てくる気配があるはずも無かったが必要以上に忍び足になる。こういう古びた構造の廊下や階段はどれだけ注意を払って歩いても、むしろ軋んで音が立ってしまう。知らず呼吸も浅くなった。

最後の一段を踏み、詰まらせていた息をやっと吐く。11月と言えど夏日まで観測されるほど気温が下がらなかったこの頃では、深夜でさえまだ息は白くない。

足は自然といつもの散歩コースへ向いた。


等間隔に立った街灯だけが煌々と活動している。その元を歩く者はおらず、商店街のざわめきも聞こえない。正真正銘ひとりである。

状況は自宅にいた5分前とそう変わらなくとも、頬に当たる風がそのまま私を通り抜け、ゆっくりと濁りを押し流していくような感覚に安堵した。

しかし普段から足踏み続き故に知っている。この爽快感と充足感は長く続かない。

下手をすると数分後には淀んだ無力感が帰ってくる。これもまた空気の入れ換え作業だと言われれば繰り返すしかないが。

もっと、目的意識や使命感があれば迷いなく筆を進められるのだろうか。


なんのために、か。

振り出しに戻ったところで、さっきまでとは比べ物にならない強さの風が吹いた。小さく体が震えるほど突発的に体温を奪われ、カーディガンの前を深く閉め腕を組む。これが無かったら無抵抗で秋風に打たれていた。

体が資本、という基本的な文言とともに、体調管理について何かと注意を払ってくれる編集者に詰められずに済みそうだ。彼女の眼鏡とその真上に頻出する眉間の皺が思い出された。自然と苦笑いが零れたが、滞りがちな私の思考や環境をまさに今のように、循環させるきっかけをくれるのは大方この担当編集の君である。

それに、この防寒着があの部屋からスムーズに発見されるに至ったのは、友人と呼んでいいのか、隣人のおかげだ。本と煩悩にまみれた部屋から私を助け出し、文字通り部屋の空気を入れ換えてくれた彼らの他にも、私はあまりに多くに支えられている。


しかし薄情なようだが、そうして私を囲む「他のために」突き動かされているかと言えば一概にそうではない。

大切な人たちに報いたい気持ちはある。が、私はそもそも誰かに見せるつもりもなく文章を書いていたのが始まりだった。


物心ついた頃には、言葉を話して想いを伝えることが苦手だった。

気付いたときには、物語を想像して遊び、内に籠るようになっていた。

そのうち物語を知ることも創ることも好きになっていた。

世界の誰も、自分だって知らない世界が、手のひらや頭の中に存在することが面白くて仕方なかった。どんどん内向的になっていく私を両親は持て余したようだが、内の世界が輝けば外の世界は影となり、自分だけの世界を止めることは出来なかった。

そうして始めた物語は幕を下ろせることもあれば中途半端に閉ざしてしまうこともあった。

それでよかったんだ、あの頃は。

無意識に溢れ出る自分の「何か」を繋ぎ止めるのにただ必死だったあの頃は。


間違いなく自分のためだけに書いていた。


こと社会生活に当てはめた途端それは通用するはずが無いことは重々承知している。

私の作品は発したそばから私だけのものではなくなり、作り手がいて売り手がいて、目に見えないほどの手を介して更に金銭が発生している。簡単には投げ出しては済まないし、何より私自身がそれを許せなくなった。蝕むような義務感だけは親譲りのようだ。

いつから、無事に終わらせるために書くようになってしまったのだろう。

いっそ止められたらと何度も考え、物語から逃げたこともあった。そのたび思い知らされるのは、自分には書くことしか出来ず、またそんな窮地の最中でさえ、止め処無く言葉の波は押し寄せ過ぎ行くという新たな苦悩だった。

勝手に浮かんでしまうのだから仕方無い。

結局また筆を執る。言葉によって溺れ窒息させられ、深みから掬い上げられる。その繰り返し。

途方の無さに膝から力が抜け、土塀に手をつきなんとか堪えた。こんな思いを繰り返し味わうのに何故書き続けるのか。暗い視界を秋の匂いが横切った。さっきまでの柔らかさは感じられない。


その風が、ひどい歌声を連れてきた。

絶妙な外れ調子に上機嫌が滲んでいる。姿は見えないが男性は強かに酔っているらしい。でなければ寝静まったこの空間をあそこまで無遠慮に打ち砕くことなどできまい。先輩のように心臓がもこもこ毛で覆われていたら分からないが。

呂律の回らない歌詞をやっと聞き取れば私の生まれる前にヒットした昭和歌謡だ。確か真夏の歌だったはず。

誰に聞かせるつもりも無い選曲と上がりきらない音程に思わず口許が緩む。歌いたいから歌っているだけ、という点で彼の歌声は私の言葉より純粋だ。

不覚にも羨ましくさえ思えてきた。

なんのためにとか以前に、こうありたい。抜け出せない沼からふと這い上がれそうな気持ちになる一瞬を書き出したい。

出来ればもう少し静かに優しく。


書きたいことはたくさんある。それを思うように表出できないのは私の力不足だ。

力なら、鍛えればいい。

先輩いわく、言葉は筋肉なのだという。まぁた変な事を言い出したと思ってその時は聞いていたが、酔った先輩の話しぶりには妙な説得力があった。

確かに頭にあるイメージを高い解像度で表現するためには、言葉を適切に選び取り組み合わせなければ望む形で生み出せない。

泳ぐための筋肉は走るためのものとは違うし、ボールを投げるためのものともまた違う。走るも投げるも必要なトレーニングかもしれないが、泳ぐための筋肉は泳ぐことでしか鍛えられないだろう。泳ぐために、ひたすら泳ぐ。


では私も今は、書くために書き続けよう。


これ以上足踏みしている場合じゃない。

夢中で筆を走らせる毎に私は私自身を知ることが出来る。言葉が積もる度にその深さは増していき、自信を得ることもあれば無くすこともある。私にとって、私が私を認める唯一の手段である書くこととは、生きることと同義なのだろう。

何に向かっているのか分からなくとも、結局はその答えにも書くことでしか辿り着けないのなら、手も足も止めるわけにはいかない。


たっぷり地区を一周して帰ってきたが、考えれば考えるだけ答えはまとまらなかった。この時間帯に賭けた私が間違っていた。

溜め息の重みを足に載せて階段を踏むと、大きく軋んだ。また肩が縮む。

冷静でいられなくなっていた頬に、柔らかさを取り戻した風が触れた。振り返っても街灯が変わらず並んでいるだけの静寂だ。

夜明けはまだ遠い。

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