嵐の夜の侵入者

教会から帰り、寝る時間になっても、エリーザベトの気持ちは俯いたままだった。

アプフェルの胴に腕と脚を絡み付かせ、フカフカの毛皮に顔を埋めて、エリーザベトはベッドに横たわっていた。

そんなアプフェルを労って撫でながら、マルガレーテがエリーザベトを励ます。


「明日はきっとうまくいくわ。

お友だちがきっとできる」


祖母からの励ましの言葉に、エリーザベトは不甲斐なさと、明日も繰り返される重荷に、ますます胸を沈み込ませた。

しかし今日はそれだけではなかった。


「それに帰ってからはお祝いよ。

アプフェルが家に来て、一周年のお祝い」


マルガレーテに名前を呼ばれて、アプフェルが上目遣いに彼女を見る。

そんなアプフェルに呼応するように、エリーザベトも目を覗かせる。

孫娘と飼い犬の様子が微笑ましく、マルガレーテは乾いた皺の刻まれた目元を綻ばせた。


「嵐の晩に忍び込んで、暖炉の前で震えてた。

赤い眼をした不思議な子犬。

一年前のこと、覚えてる?」


「うん。

アプフェル、びしょ濡れで暖炉の前にいた」


「家中の窓と扉を閉め切っていたのにね」


2人の脳裏に共通の光景が浮かんだ。

しょぼくれた顔でくしゃみをする侵入者が、雨上がりの朝霧すら吹き飛ばすほどの騒ぎを家に招いたときの光景が。

この侵入者は、赤い眼が林檎のようだとの理由から、4歳の女の子に頬擦りされながら林檎アプフェルと名付けられたのだ。


「この話をすると、英国ここの人はこう言うの。

アプフェルはワイルドハントの黒犬だって」


「ワイルドハントってなあに?

おばあさま」


「疫病に、戦争。

あらゆる災いを呼ぶ、黒い軍団。

地獄から来た狩人。


それがワイルドハントよ」


「難しいわ」


「黒い空飛ぶ馬に乗った黒いおじさんたちが、虫歯をプレゼントしにくるのよ」


クスクス笑う祖母を見て、エリーザベトは最初から難しい言葉を使わなければいいのにと釈然としない気持ちに襲われた。


「ワイルドハントが虫歯の代わりにアプフェルをプレゼントしてくれたって言われたの?」


「そうよ。

ドイツではワイルドハントが黒い犬をくれるなんて聞いたことないから、きっと英国だけの話ね」


マルガレーテは自身が小さな頃から寝物語で聞いていた話に、違いがあった驚きと共に口にする。


「英国では嵐の晩に黒犬を暖炉の前に置いていくんですって。

黒犬を大事にすれば黄金を、粗末にしたら不幸を与えるそうだよ」


「どうしてそんなことを?」


犬を置いていく。

アプフェルをよその家に置いていくなんて考えたこともなかったエリーザベトは、思わず祖母に尋ねた。

物知りな彼女ならなんでも知っていると思ったからだ。


「わからない。

だから考えてごらん」


しかしマルガレーテは楽しそうに難問を投げた。

エリーザベトはこういうときの祖母は、答えがあるのをはぐらかしているときだとわかっていた。

たっぷり考えるまで答えを明かしてくれないこともわかっていた。

だからエリーザベトは困りきった顔でたっぷり考えた。

しかしなにを考えても、アプフェルをよその家にあげるのに納得のいく答えなど出てこない。

チラリと祖母を見て白旗をあげると、祖母はアプフェルを愛おしそうに撫でながら口を開いた。


「おばあさまはこう思う。

ワイルドハントは犬をあげたんじゃない」


まさかの答えにエリーザベトが目と口を開ける。


「ワイルドハントは犬をずっとずっと探してたの。

迷子になった犬を諦めずにずっとね。

だから大事にしていたら黄金をくれるのではないかしら」


犬はプレゼントではなく迷子だった。

マルガレーテの答えはエリーザベトの心にストンと落ちた。


「それならいい人だわ」


エリーザベトは一気にワイルドハントが好きになった。

しかし祖母はどうかしら、と少し疑問を口にする。


「身内しか大事にしない連中は怖いわよ。

もしワイルドハントの犬だったらどうする?」


「そんなの決まってる」


エリーザベトがアプフェルにキスをする。


「アプフェルに出会わせてくれたお礼をしてから、黄金よりこの子をくださいってお願いをする」



雨に打たれながら、黒い空翔ける馬に乗った男が、天高く掲げた斧を振り下ろす。

すると不思議なことに空から雷が落ちる。

男の風貌は真っ黒の髪に真っ黒の髭、毛むくじゃらの真っ黒の服に真っ黒の兜と、とにかく黒かった。

男と馬は雷を頼りに進んでいるようだった。

男がもう一度斧を頭上に掲げて振り下ろす。



真夜中にエリーザベトは雷の音で眼を覚ました。

いつも横で一緒に寝ているアプフェルがいない。

またか。

彼女は部屋の南に付けられている窓に眼を向けた。

アプフェルがいた。

彼女はアプフェルの側に座った。


「また雷を見ているの?

雷が好き?

違うよね」


アプフェルは一心不乱に窓の外を見つめていた。

アプフェルには雨が激しく降る嵐の日ほど、雷を見つめる習性があった。

怖がっているのかと初めは心配をして窓から遠ざけたりなどしたが、強く嫌がって窓の側に戻るのを見て以来、エリーザベトはなるべく一緒に雷を見るようになった。

少し不思議ないつもの光景だった。

しかし今は胸騒ぎがした。


「なにかを待ってる?

もしかして」


夜寝る前のマルガレーテとの話が蘇る。


「ワイルドハント?」


そのとき甲高い嫌な音が玄関からして、2人はドアに顔を向ける。

あとになってその嫌な音は、ドアチェーンが壊された音だとエリーザベトは知った。


ギシ、ギシ、ギシ……。


床を軋ませ、誰かが家の中にやってくる。

エリーザベトは咄嗟にアプフェルを抱きしめた。

寒くもないのに身体が震えるとき、心臓が嫌に暴れるとき、いつもそうしているからだ。

対するアプフェルは震えることもなく立ち上がり、低く唸りながらエリーザベトをドアから隠す。


ギシ、ギシ、ギシ……。


アプフェルの許容範囲を超えて、侵入者は家の奥深くまで入ってきた。

普段は大人しいアプフェルが激しく吠える。

すると、それまで探るようなリズムだったのがまっすぐ歩きだす。

エリーザベトの部屋まで、侵入者がまっすぐ。

ドアが開く。


「見つけたぞ、黒犬」


現れた真っ黒な大男が、低い声でアプフェルを睨みつけた。

真っ黒な髭に真っ黒な髪、毛むくじゃらの真っ黒な服に、右手に大きなハンマーを持った男だった。

彼に睨まれたとたん、アプフェルは吠えるのを止め、代わりに全身が激しく震えだした。

そしてエリーザベトの足に温かな感触が広がる。

アプフェルのおしっこだった。

あのアプフェルが恐怖している。

自分をいつも守ってくれる、勇敢なアプフェルが。

エリーザベトの喉が詰まり、大きな涙の粒が床に次々と落ちる。

その音に気付いた大男が、エリーザベトに目を向け、見開いた。

エリーザベトの泣き声を聞いていたのは、大男だけではない。

アプフェルもまた耳をエリーザベトのほうに向けていた。

恐怖を振り払い、アプフェルが立ち上がる。

エリーザベトを守らなければと立ち上がる。



そして部屋の空気が一変した。

夜の墓場のような臭いがあたりに漂う。

赤黒い光の輪がアプフェルの周りに浮かび上がり、彼女の赤い眼が怪しく光を帯びた。


「主人を守っているつもりか。

普通の犬のように」


気がついた男が深い怒りを込めて、アプフェルに向かってハンマーを構える。

ハンマーに彫られた紋様が、青白く光った。


「生きているだけで人を不幸にするお前が、人を守りたいと思ったのなら」


アプフェルが高速な鎌のように、男の次の言葉を待たずに喉笛に噛みつこうとする。

重い鈍い音と共に、アプフェルの頭骨が嫌な音を立てて砕けていた。

男がハンマーを振り下ろしたのだ。

痙攣を起こしたアプフェルの首根っこを男がひっつかみ、部屋の外に引きずっていく。

エリーザベトはその光景に、すべての感覚が一瞬で奪われるような衝撃を受けた。


骨の砕ける音。

振り下ろされるハンマー。

痙攣して、どろりと濁った苦悶の表情のアプフェル。


エリーザベトの身体がクラリと傾いだ次の瞬間、彼女の意識は暗い底に落ちていった。

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