憂鬱な教会

夜の間にせっかく落ち着いた空気が、朝8時にはもう既に煤で忙しなくなっている。

そんな朝の喧騒の中、一家は教会へ向かおうと玄関を出た。

祖父母が仕事中に教会へ、エリーザベトを預けるためだ。

しかしいつもいつも、玄関先でひと悶着がある。

エリーザベトが教会に行くのを愚図るのだ。

今日も今日とて蹲って首を振って、しゃくりあげている。


「今日こそお友だちをつくれるわ。

勇気を出して」


マルガレーテが励ましても、勇気なんて出てこない。

だからヘルマンの


「教会は嫌かい?」


という問いかけに、一も二もなくエリーザベトはコクリと頷いた。

だがそんな彼女にヘルマンも慣れたものだ。


「わかったわかった。

じゃあ今日も特別に、秘密兵器を連れていこう。


アプフェル、出番だよ。

エリーザベトを勇気づけておやり」


ヘルマンが一度閉めた家の玄関を開けて中に声をかけると、チャッチャッチャッチャッ!

と軽快に床を引っ掻く音がする。

大きなハムのような舌を出した黒い犬が、奥からやって来た。

この子がアプフェルだ。

アプフェルは鼻水を垂らして泣きじゃくるエリーザベトの頬っぺたを、笑いながら嘗め回す。

鼻水まできれいに嘗められてようやく少し、おチビさんの気持ちが上向いたらしい。

鼻をスンスンすすりながら、アプフェルの赤い首輪周辺の毛を掴んで歩き始めた。


「なあ、マルガレーテ。

嫌がるこの子を、無理やり教会に連れて行かなくても」


ヘルマンがためらいながらマルガレーテに尋ねる。

子守を雇えばいいのではないかと、ヘルマンは思ってしまうのだ。


「ゲーテのファウストのように魔法でも使えたら、そうでしょうね。

でも祖国ドイツを追われて、頼れるものは自分たちだけ。

だからこそ良き隣人が、すぐにでも必要なのよ」


祖父母が暗い顔をしながら歩いているのを、エリーザベトは見上げる。

彼らが暗い顔をしているのは自分に友だちができないせいであることくらい、エリーザベトはわかっていた。

だから彼女は今日も、決意を新たに振り絞る。


「おじいさま、おばあさま。

死んだおかあさまはどうやってお友だちをつくっていたの?

アプフェルみたいな素敵なお友だち」


アプフェルが自分が呼ばれたと思ったのか、嬉しそうにエリーザベトを見つめた。

本当はそんなことやりたくないエリーザベトは、アプフェルの胴に歩きながら縋りより、マルガレーテに叱られる。


「こら、危ないですよ。

あなたも、アプフェルも」


「だって、お友だちつくれない」


「あなたはわんぱく過ぎるの。

まずサッカーよりお人形遊びに興味を持ってみて」


「つまんない」


たっぷりした口髭を口角で上向かせながら、ヘルマンがアドバイスをする。


「つまらないと思うから、つまらないんだよ。

何事もとにかくやってみなさい。

木登りも女の子はしないから気をつけて」


つまんない。

そんなエリーザベトの小さな呟きを、街頭で張り上げられた大声がかき消した。


「労働者よ、手を取れ!

我々は失業から身を守るために、一丸とならなければならない!」


「また社会主義者……」


マルガレーテが苦悩が刻まれた皺をますます深くした。

街頭の演説人は決して社会主義者ではなかったが、しかしマルガレーテには同じだった。

他者の貧困を何とかしようとする、それ自体が彼女にとっては社会主義で、耳にするのも嫌な言葉だった。


「また物乞いが増えたからな。

立ちんぼの求職者の数も異常だよ」


ヘルマンがマルガレーテの肩を抱き、同じ表情をする。


「ここは英国ですよ。

私たちだって仕事が見つかったのに、英国人で仕事をしないのは、選り好みしているからでしょうに」


マルガレーテに、物乞いが両手を伸ばして慈悲を乞う。

マルガレーテだけでなく、ヘルマンまでもが物乞いに一瞥もくれず通り過ぎた。

エリーザベトは祖父母を見て、息が詰まるような気持ちになった。

どうしてそう思うのかはわからなかったが、嫌だった。

そんな彼女の心境を敏感に察したアプフェルは、じっと一途に見つめながら歩いていたが、つま先ばかり見ているエリーザベトは気がつかない。

そうこうしているうちに教会についてしまった彼女は、アプフェルと共に教会の広場で静かに子供たちの群れを見つめていた。

縄跳びをしている女の子に、おままごとをしている女の子、それからお絵描きをしている女の子もいた。

しかし彼女の眼は缶蹴り遊びをしている男の子に、車輪回しをしている男の子、それからなにより、サッカーをしている男の子にばかり向けられていた。

だが祖父母の朝の言葉が頭を過り、彼女はおままごとをしている少女たちのところへ視線を向けた。

どのように声をかけたらいいのだろう……。

友だちのなり方が分からず、エリーザベトはただ無言で彼女らに近寄った。

その不器用な接近は少女たちに不快感を与えただけだった。


「きもちわるっ」


「いこ」


少女たちの無遠慮な表情と言葉に、エリーザベトは目をきつく瞑り、涙をこらえた。


「泣かない……、泣かない……」


彼女は涙がひくまで自身に言い聞かせながら、ただ立ち尽くすしかなかった。

そんな彼女の靴の先に、お腹がかかるように、アプフェルが伏せる。

涙がひいたエリーザベトは、次にサッカーをしている男の子たちのほうへ向かった。

男の子に声をかけたことが彼女はなかったため、彼らならもしかしたらと思ったのだ。


「サッカーで、あっ……遊んで!」


手に汗を握りながら、少しの希望を胸に彼女は声をかけた。

揃って怪訝な顔をした少年たちは、顔を見合わせる。

その反応は冷たかった。


「チービの女なんて、嫌なコッタ!」


「だいたいスカートでサッカーなんてできるもんか」


少年の一人がエリーザベトの群青の瞳に合わせた、群青のワンピースを見てあげつらう。


「できるわ。

木登りもした」


エリーザベトは木登りをしたときに破いてしまった、ワンピースの裾のことをなぜか思い出しながら、必死に言い募る。


「ウソツキ」


「スカートで木登りなんてできるもんか」


「行こうぜ」


「待ってよ!」


エリーザベトが背中を向けた少年の服を掴む。


「しつけえぞ!」


と一人の男の子が彼女を突き飛ばした。

見過ごせなかったアプフェルが割って入る。

少年たちを威嚇し、低い姿勢で唸った。

身体の右側を少年たちに向け、左側でエリーザベトをかばいながら、彼らに警告する。


「大ウソツキ」


「犬に泣きついて犬になってろ、犬女!」


だがそんなアプフェルごと、少年たちは笑い飛ばして去っていく。

エリーザベトが、アプフェルにしがみついて泣いていたからだ。

少年たちが十分離れたと判断したアプフェルは、横に寝転がって、愛しいエリーザベトに向かって鼻を鳴らした。


「犬女でいいもん。

アプフェルがいればいい」


やがて、教会の鐘が響き渡り、子供たちの遊びの時間が終わるときが来た。

それでもエリーザベトは、アプフェルの上から退かず、シスターが呼びに来るまでしがみつき続けていた。

今日も友だちを作ることはできなかった。

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