アアモンドパイロット号最後の日

栄三五

アアモンドパイロット号最後の日

『内から3番目アアモンドパイロット第2障害手前へ来ました』


 2月、冬の帯広競馬場に場内実況が響き渡る。

 を一番手、稲垣が騎乗している馬を二番手として何頭かの馬が第1障害を越え、第2障害手前に差し掛かった。


 ここ帯広競馬場の1ハロンの直線コースには二つ障害がある。

 一つ目が、スタート地点から35メートル先にある高さ1メートルの坂。

 二つ目が今、稲垣たちの目の前立ちはだかる高さ1.6メートルの坂だ。

 荷をくのが得意なばんえい馬といえど、鉄のそりに騎手を乗せてこれらの坂を超えることは容易ではなく、坂の前で脚を溜めてから駆け上がることになる。


 一足早く坂の前で脚を止めたヤツに並ぶように稲垣も馬を止める。後続が追い着き、各馬が横並びになった。

 当然、早く坂に到着した馬ほど息を入れる時間が長いため、余裕をもって好きなタイミングで仕掛けることができる。

 今回は稲垣の馬も充分にスタミナを回復させている。仕掛けるタイミングさえ間違えなければ勝機はある。


 今だ!


 先手を打って仕掛けるために手綱を振り上げた瞬間、腰の内側から針で刺されたような衝撃が走り、振り下ろすタイミングが一瞬ずれた。


 稲垣の騎乗馬が合図に合わせて坂を登り始める。橇がガタガタと揺れると、その上に乗っている稲垣に振動が伝わり、背骨に直接電気を流したような衝撃が走る。稲垣は痛みで視界いっぱいに閃光が弾けるのを感じながら、拷問の様な時間が終わることを祈るしかなかった。


 稲垣がその地獄から解放された時、レースは既に終わっていた。

 1着はアアモンドパイロット。2着は稲垣の騎乗している馬だ。


 勝てなかったのだから本来喜ぶべきことではないが、正直ホッと胸を撫で下ろした。

 第2障害以降、稲垣は馬にほとんど何の指示もできなかった。それでも順位を落とさなかったのは馬の高い自力のおかげだ。


「ケンさん、どうした?」


 ザクザクと雪を踏んで、調教師の松崎が駆け寄ってきた。


「なして仕掛けどころ逃したべ?」


 お見通しの様だった。仕掛けるタイミングがズレなければ1着を狙えただろう。頭をかいて弁解する。


「腰がな……鎮痛剤は飲んどったんやけど」


 数年前腰をおかしくしてから、稲垣は腰痛に悩まされるようになった。医者にかかると、治るたぐいのものではなく痛みを緩和しつつ付き合っていくしかない、と言われた。

 年々痛みがひどくなり、ここ1年程は鎮痛剤なしでは身動きが取れないほどに悪化している。

 しかし、レースの最中にここまでの痛みを感じたのは初めてだった。

 この痛みがこれからも続くとなるとレースに集中するどころではない。


 今期は続けなければ。何が何でも。だが、そのあとは……。

 ここ1年ずっと頭の片隅にあった引退の2文字がはっきりと浮かび上がる。


 今後のことを考え、暗い気持ちになった稲垣の目前で、ヤツが何レースぶりかの1着を誇示するかのようにいなないた。


    ◇


 その日のレースを終え、競馬場を出ると雪が降っていた。風が強く、吹雪の様になっている。夕飯は手近で済まそうと、競馬場近くの豚丼屋に入ると見知った顔がいた。

 アアモンドパイロットの調教師の菊池だ。

 手を挙げて応じ、カウンターの隣の席へ座る。


「雪わや酷かったべ」

「ああ、かなわんわ」


 菊池は隣の席で既に豚丼に手を付けている。

 5年程前に腰痛を理由に引退するまでは菊池も騎手を務めており、稲垣とも鎬を削った仲だ。


「見とったぞ、腰大丈夫か?」

「鎮痛剤飲み直したから大丈夫や」


 答えながら店員に声をかけ、いつもの豚丼と豚汁を注文する。

 菊池がどんぶりから零れ落ちそうな豚バラ肉を箸で持ち上げてかぶり付く。


「これからどうすんべさ?」

「……何がや」

「騎手、まだ続けんべさ?」


 帯広競馬場に出入りする騎手や調教師の数はそう多くない。全員が顔見知りで、各々会えば世間話もする。稲垣の進退についても幾人かに話しており、菊池も事情を知る一人だ。引退を考えた理由が同じこともあって、殊に菊池にはよく相談していた。

 菊池からは、自身が腰痛を押して騎手を続けた結果、病状が悪化したこともあって早めの引退を勧められていた。


 だから、菊池が嫌みで聞いているわけではないことはよく分かった。

 稲垣は今年50歳になった。帯広競馬場の現役の騎手の中では最年長だ。腰の痛みに限らず、体力の衰えも身に染みて実感している。


 続けたい気持ちは、ある。

 誇りといえるほど立派なものではない。ただ、自分はまだ騎手でいられるはずだ、というしがみつく様な気持ちが、心の底でずっと厚みをもったままなのだ。

 しかし、そんな気持ちも先程の刺すような痛みを思い出すと弱々しくしぼんでゆく。そのせいで、勝ちを逃すかもしれないと思うと尚更だった。

 答えあぐねているところに、菊池が別の話を振った。


「パイロンな、次のばんえい記念で引退さすことになったべや」

「えっ」


 間の抜けた返事が出てしまった。

 パイロンとはの、アアモンドパイロットの愛称だ。ヤツは牧場に置いてあるパイロンを大層気に入っているそうで、見つけると菊池や厩務員の制止も聞かず小突いたり、周囲をグルグル回って馬房に戻りたがらないらしく、当人(馬)の名前と相まって地元の人間の間であだ名がパイロンになった。

 話しているうちに店員が豚丼と豚汁を持ってきたが、驚愕で飯に手を付けるどころではない。


「なんでや?」

「元々、そういう話は出てたべさ。アイツももう14歳だべ。やる気はあるんだが体力も落ちとるでな。さすがに全盛期に比べたら成績も落ちてるべ? 無理させて怪我でもさせる前に、ここらで最後にすっかって話してたんだべ」


 テーブルに置かれた豚汁の匂いに食欲を唆られたのか菊池も追加で豚汁を注文した。どんぶりの豚バラの最後の一枚を口に放り込んで、菊池は続けた。


「あれだけ成績を出してるし功労馬として牧場でゆっくり過ごしてもらって、働きたがったら農場を手伝ってもらうくらいでいいべさ」


 ばんえい競馬では騎手は鉄の橇に乗り、馬はそれを曳いて1ハロンを走る。

 レースの種類にもよるが橇は最低でも500kgの重量になり、体への負担は大きい。たまに農耕馬として鋤や作物を曳くくらいであれば、脚への負担は今より格段に減るだろう。


 引退、引退……。今しがた聞いた言葉を咀嚼する。

 突然の話で驚きはしたが、ばんえい馬が大抵10歳頃に引退することを考えれば、引退の話が出るのは当然ではある。だが、それにしても急だ。


 追加で頼んだ豚汁が届いた。菊池が一啜りして「うん、美味うまい」と呟くと、豚汁が入った椀を置いて切り出した。

 

「……ケンさん、うちで働かんか?」

「篠さんとこで?」


 思いもよらない申し出だった。

 菊池が働いている牧場の牧場主は篠田といい、稲垣とも面識がある。比較的年代が近いこともあって、3人で飲みに行ったこともある関係だった。


「今度ベテランの厩務員きゅうむいんが一人、歳で辞めんべさ。求人でも出すかって話してたけんどケンさんの事情を聞いたら、知り合いだしうちに来てくれたらやりやすい、言うてたべ」


 騎手から厩務員や調教師になる例もあるだろうが、まさかその選択肢が自分に突き付けられるとは思ってもみなかった。

 菊池は豚汁を煽って飲み干し、箸を置くと「まあ、まだ急ぐ話じゃないべ。考えといてくれ」と言って席を立った。


 1人になったカウンターで、稲垣は湯気の立ち昇る椀を見つめていた。


    ◇


 家に帰り、電気と暖房をつける。

 仏壇に手を合わせてから、居間で冷蔵庫から出した缶ビールとつまみを開けた。


 妻が急逝してから帯広郊外の家を引き払い、市内のアパートに移ってもう2年になる。最初は慣れなかった一人暮らしにもすっかり馴染んだ。


 ビールに口をつけ、テレビをつけてチャンネルを回すものの、気を紛らわしてくれそうな番組はない。

 諦めて、テレビ台の下にあるDVDを取り出してプレーヤーに突っ込んだ。


 テレビに映ったのは、8年前のレース。

 数少ない、稲垣がアアモンドパイロットを下した重賞レースの映像だ。

 

 ゲートに収まる10頭の馬の中に、ヤツとキタノドライブの姿があった。


 稲垣には長く騎手を務めた馬がいた。

 キタノドライブという馬名で、騎手のやりたいことをよく汲み取る賢い馬だった。そのため、細かく緩急をつける稲垣とは殊更に相性が良かった。それこそ馬が合った、というやつだろう。

 6年前に引退するまで一緒に戦い続け、多くの戦績を残した。稲垣にとってもキタノドライブに騎乗した9年間は充実した時間だった。

 

 それでも、ヤツと一緒に出走したレースでは全くと言っていいほど勝たせてやれなかった。

 重賞ともなるとこの一度だけだ。


 キタノドライブに限らず、ヤツの全盛期に走った馬は皆同じだ。

 主だった重賞レースはほとんどヤツが制しており、対抗できる馬などキタノドライブくらいだった。


 画面の向こうでは、若かりし頃の自分が1着でゴールし、ガッツポーズを決めている。

 稲垣にとっては、ただ一度の栄光だった。


 両手を上げ、凱旋するように進む画面の稲垣の後ろで、2着でゴールインしたヤツが首を上げ、いなないた。


 ヤツは勝った後にいななく癖があり、その勝利を誇示するような仕草も当時から腹立たしかった。

 1着になった時の仕草の様な気がしていたが映像を見るに違うらしい。


 思い出に浸るつもりだったのに嫌なものを見た。

 ヤケクソ気味に缶ビールを煽ったが、中身が残っていなかった。

 締めきって暖房をきかせた居間を出る。台所のフローリングの氷の様な冷たさを足に感じながら冷蔵庫を開けると、缶ビールを切らしていたことを思い出した。


 幸い、稲垣が住んでいるアパートは目の前にコンビニがある。今日は風が強い。ジャンパーを羽織って部屋を出て、身を守るように体を丸めてコンビニへ向かった。


 缶ビールとつまみを買って、入店してきた若いカップルと入れ違いに、そそくさとコンビニを出た。


 温かい店内から外に出た瞬間、風が強く吹き上がり、地面に積もった雪が紙吹雪の様に舞い上がる。反射的に目を瞑った。風が止んだのを感じて目を開けると、道路の向かいの電灯のついていないアパートの自室が目に入った。


 妻は2年前に急病でこの世を去った。


 守るべき子供は一人前になり、手元を離れた。

 隣を歩いてくれるひともいない。

 共にコースを駆け抜けた戦友も、もういない。


 そして今、稲垣は騎手ですらなくなろうとしている。

 稲垣は、この帯広の大地にただ一人だ。

 もはや背負うすらない。


 一人だということが、こんなにも所在のないものだとは想像だにしていなかった。


 身を切るような冷たい風が雪を纏って轟々と吹きつける。

 自分には本当にもう何もないということが寒さと一緒に骨を軋ませた。


    ◇


 ばんえい記念当日、稲垣はスタンドの最前列にいた。

 3月になり連日大雪が降り続いていたが、その日は久々の晴天になり、晴れ間から雪がちらちら降る程度だ。

 スタンドには地元の人間だけでなく、観光客も数多い。もしかすると、アアモンドパイロットの引退を聞きつけてやってきた層もいるのかもしれない。


 ばんえい記念では、そりの重量は最重量の1000kgになる。

 そのため、ばんえい記念は帯広競馬場で行われるレースの中でも最も過酷で長い1ハロンであり、途中でリタイアが出ることもある。


 全頭がゲートに入り、ファンファーレが鳴った。

 出走する10頭の内、外から2番目にヤツがいた。最後のレースだというのにいつもと変わらない様子だ。

 

 レース前に気が昂る馬もいるのだが、ヤツに限ってはそんなところを見たことがない。

 重賞でも、調整で出たレースでも、いつも変わらず呑気そうにしている。先程もゲートに入る前、コースの脇に固められた雪の塊に興味を示していた。


 合図の後、ゲートが開き、各馬が一斉に飛び出した。


 各馬が第1障害の坂を勢いよく駆け上る。ここまではいい。

 しかし、ほとんどの馬が勢いのまま進む中、その内の1頭が坂の頂点で動かなくなった。


 アアモンドパイロットだ。


 かつてないことだった。昨年までなら、息を入れる必要もなく第1障害は難なく越えていたはずだ。数秒後、坂を駆け下りて先を行く馬を追いかけるものの、現状最下位になってしまった。


 年嵩の馬程重量のあるソリを運ぶのにうまく立ち回るが、一方で年齢を重ねれば体力は落ちる。菊池の言っていた通り、ここ1年で急激に体力が落ちているのだ。


 その後も、ヤツは立ち止まり、息を入れつつ第2障害へ向かう。次なる坂へ辿り着いた時には、既に先行している馬が仕掛け始めているところで、他の馬は第2障害を登り始めていた。


 ヤツは一人取り残され、坂の前で長く息を入れている。

 もう体力が底をついているのは火を見るより明らかだった。

 かろうじて立ち、休み休み進むことで何とか走りきろうとしている。


 これは、無理だ。


 ここまで前方と離されればもう巻き返しはできない。

 なにより、ヤツのこれまでのレースと明らかに異なる様子がそう思わせた。

 にも関わらず、ヤツは俯き、息を入れ、目の前に立ちはだかる坂を駆け上がろうとしている。


 一瞬、走ることを止めないヤツの姿に騎手という仕事にしがみつく自分を重ねかけたが、違うと思った。

 出走前も、ここ一ヶ月の他のレースも何も変わったところはなかった。おそらく走ることが好きで、同じことを続けているだけなのだろう。だから、着順など関係なく、ゴールすれば満足したようにいななく。


 一歩一歩が亀の様に遅い。

 その一歩ごとに息を入れ、じわりじわりと進んでいく。

 何度もそれ繰り返し、ようやく坂を登りきった。

 もう先頭を走る馬はゴールしている。後続も着々とゴールに近づいている。走り続けたところで順位に影響はない。

 ヤツが坂を駆け下り始めた。そんな事情は関係ないといわんばかりに。


 キタノドライブがいなくなってからもコースで走り続けているヤツが憎たらしくてしょうがなかった。


 坂を下りきったヤツがまた立ち止まった。長めに立ち止まり、また歩き出す。


 分かってるのか?

 ゴールしたら、お前は競走馬ですらなくなるんだ。

 お前の栄光は過去のものになって、いずれはただの記録になる。

 それなのに、なぜ歩みを止めない?


 コースにただ1頭残され、それでも脚を止めない。

 まるで、走りたいという衝動に突き動かされるかのように。

 それが自分の宿命だとでもいうかのように、進み続ける。


 アアモンドパイロットは僅かずつ進んでいる。他の馬は既に全頭ゴールした。

 もはや、ゴールしようとリタイアしようと変わらないのだ。

 しかし、さらに一歩踏み出したところで、馬体がガクリと下がり、膝をつきそうになる。


 思わず、あっ、と声が出た。


 憎い仇敵のはずだった。

 ヤツのせいで何度勝鞍を逃したことか。

 ヤツのせいでキタノドライブの最後のレースでトロフィーを贈ってやれなかった。


 なのに、その姿を見て、どうしてか涙がこみ上げるのを抑えることができない。

 どうしてか、声を張り上げて応援したくてたまらない。


「頑張れ!パイロン!頑張れーー!」


 とうとう我慢できずに、立ち上がって声を張り上げた。

 稲垣の声を皮切りに、次々にスタンドからも声援が沸き起こる。


 その声が届いたわけでもあるまいに、膝を折りかけたアアモンドパイロットの体がググっと持ち上がる。ゴールまであと10歩程のところまできた。

 脚を止めることなく、ゆっくりと、一歩一歩、噛みしめるように進んでゆく。


 諦めずに前進を続ける姿を見て、稲垣はまだ自分にも残されたものがあることに気づいた。

 隣を歩いてくれる人がいなくなっても、共に進む戦友がいなくなっても、ずっと自分たちの前を走り続けたライバルがいることに。


 ゴールまで、あと5歩、4歩……。馬体は既にゴールラインを超えている。後は橇の後端が超えればゴールだ。


 アアモンドパイロットは進み続ける。

 1着でなくとも、掲示板外でも、競走馬でなくなっても、たぶんこれまでと変わらず走り続けるのだ。

 そうであれば、騎手でなくなった自分が先に歩みを止める訳にはいかない。

 道が違えど、終生のライバルがこれからも膝を屈さずに歩き続ける限りは。



 目に涙が滲んだ。腰の痛みのせいに違いない。

 肩を震わせ、脱力して座り込むと、涙でぼやける視界の向こうでアアモンドパイロットがいなないた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アアモンドパイロット号最後の日 栄三五 @Satona369

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ