息子を生んだ時、アカリは卒業まで1年を残す学生だった。本当は息子が生まれて1年は育児に専念しようと思っていた。でも、母親が「この子は私が見るから、アカリは早く大学を卒業してしまいなさい。そしてこの子の将来のためにもいい仕事を見つけるのが先決よ。」、と言ってくれた時、それが最善と納得した。両親にとっては初めて一緒に暮らす孫で、二人とも息子を溺愛していたし、不慣れな自分よりお母さんに預けた方が息子も幸せだろうとさえ思った。だから、息子が3カ月になった春に大学に戻り、予定通り修士課程を修了した。


卒業後アカリはすぐに働き始めたから、社会人になってからも日中は、小さな息子の世話は母親に任せていた。まだ若かったし、仕事の後に学生時代の友人らと集まって夜預ける事もあったけれど、もちろん毎日ではないし、遅くなってもできるだけ外泊はしない様にしていた。アカリにしてみれば許容範囲内の節度ある交友関係だと思っていた。だって、自分とよく似た境遇の知り合いなどは子供と一月ひとつき以上合わない子だっていたのだから。でも息子が3歳位の頃だっただろうか、ある夜帰宅すると、ベッドが変に乱れていた。両親と同居するアパートは3部屋で、1部屋は両親、もう一部屋はアカリと息子、そしてもう一部屋は台所と食卓だった。居間にとれる空間はなかったから、日中はベッドがソファー替わりとなる。だから、それほど几帳面な方ではないけれど、朝起きると掛布団を伸ばして広げその上に外出着のままでも座れる様にベッドカバーを掛けるのが習慣になっていたから、その乱れ様は尋常ではなかった。だから、翌朝息子に「昨日帰ってきたら、ママのベッドがクシャクシャだったけど、何でか知っている?」と聞くと、息子は小声で、「おばあちゃん。」、と言った。何事かと思い母親に尋ねると「あの子が昨日夜寝る前に、お前のベッドをあの小さい手で何度も引っ張っては撫で、撫でては引っ張って、ってやってたのよ。だから、いつも遊んでばかりでお前のベッドを整えた事もないママのためにそんな事しなくてもいい、って私が言ったのよ!」、と何時いつになく感情的になった。普段は寛容で穏やかな母親の激しい言動に、本音が見えた様でショックを受けた。アカリはそれまで信じて疑わなかった母親の無条件の愛がみるみるうちに溝に変わるのを感じた。母親のアカリへの愛情はいつのまにか孫への愛情へと置き換わっていた。母親にとってもうアカリの幸せが一番ではなくなったのだ、と思った。息が詰まって涙が溢れそうになるのを堪えた。


それからは、息子の身の回りの世話はできる限り自分がし、友達と会う時も息子を一緒に連れだす様にした。出かける時にちょっとオメカシすると、息子は雑誌の表紙のモデルを指さして目を輝かせて「ママみたいだ」と言ったりした。昔っから見かけにはコンプレックスがあって、自分が綺麗だと思った事はなかったけれど、小さな息子の言葉にこそ真実があるような気がして嬉しかった。友達は皆息子に良くしてくれたし、息子もグズッたりする事もなく手の掛からない良い子だった。ただ、写真好きの友人が撮ってくれる息子の写真に笑顔はなかった。


そんな息子を横目にアカリは言った。

「この子、ちょっと変わってるのよ。こないだも友達がキリンのおもちゃをくれたんだけど、ちっとも喜ばないのよ。ありがとう、は言うのよ。礼儀は正しいの。でも、何て言うのかしら、子供らしい天真爛漫さ、って言うの?あれがないのよね。いつも真面目な顔して、何か考え事してるみたいな…?まぁ、私も本を読める様になったら人形は飾り物になっちゃった口だから、この親ありて、なんだけどね。もしかすると、ずば抜けて頭のいい子で、もう色々悩む事があるのかしら…。ねぇ、どう思う?」

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