桜と金木犀
椿叶
桜と金木犀
相沢さんは秋になると金木犀の香りがする。
長い髪をハーフアップにするのが、いつもの彼女の髪の結び方だ。結ばずに垂れている部分は、彼女がわたしのデスクを覗き込む度に近づくから、シャンプーの香りはわたしが嗅ごうとしなくても分かってしまう。春は桜で、夏はせっけん、秋は金木犀、冬は柚子。四季に合わせてそれぞれの季節らしい香りを漂わせている。
相沢さんは美人だ。薄い瞼からは長い睫毛が伸びていて、瞬きをするたびにその存在を認識させてくる。鮮やかな赤色のリップはこの職場では派手な部類に入るのだけれど、よく似合っているから誰も文句は言わなかった。
「田中さん、今日お昼何にする」
彼女がどうしてわたしに優しくしてくれるのかが、よく分からなかった。美人は美人とつるむものだろう。どうして同じ部署や関連部署の美人を避けて、わたしとつるもうとするのかが理解できなかった。優しくしてくれているのに後ろめたいと思いながらも、彼女のことを苦手に思っていた。だけど彼女の親切を振り払ってしまえば孤立するのはわたしだ。だから表面上は彼女と仲良くしていた。
どうしてわたしなの。そんなことを聞くのは馬鹿のすることだと思う。どうせ職場での付き合いだ。友人になるわけでもない。昼休みの時間に友達のふりをしていれば、仕事はうまく回る。きちんと仕事をして、きちんと給料がもらえたら、それで良い。だけど、彼女の髪から金木犀の香りがすると、どうしても心がざわつく。わたしの使っているボディーソープが、春の暮れに値引きされていたものだと知られたら嫌だからだ。もしそれが知られたら、きっと惨めになる。だから金木犀が近づくと、いつもわたしは呼吸を止めたくなった。
「俺、相沢を家まで送ったんだけどさ」
飲み会の翌日のことだった。わたしは途中で帰ったけれど、相沢さんがその時すでにかなり酔っていたのは覚えていた。だけどその後のことは知らない。わたしが聞いているとも知らずに同僚の男たちは相沢さんの様子をまくしたてている。
「あいつの部屋、すっげえ汚ねえの」
「え、入ったの」
「送り狼じゃん、やったの?」
「しねえよあんな部屋で。やる気失せたわ」
どうやら泥酔した相沢さんを家まで送った同僚は、当然のように彼女を襲うつもりだったらしい。しかし彼の話題は相沢さんの部屋の汚さが中心だった。
「相沢ちゃんの部屋絶対綺麗だと思ってた。観葉植物とかありそう」
「いんや、ごみ屋敷一歩手前。かろうじてゴミ捨てだけはできてるっぽかったけど、全部散らかしっぱなし」
ほら、これが証拠。スマホの写真を見せたのか、他の同僚の驚いたような声が聞こえた。
「相沢を狙うのはやめとけ」
「俺も彼女にするなら部屋が綺麗な人が良い」
「だろ」
わたしにもその写真を見せてほしい。そう言いたかったのを我慢して、彼らの横を通り過ぎる。ぎょっとした様子の同僚たちを無視して、私は相沢さんが出勤するのを待った。
「あはは遅刻ぎりぎりだあ」
普段なら余裕をもって出勤してくる相沢さんも、今日は時間ぎりぎりだった。二日酔いなのか顔色が悪い。
「昨日誰か送ってくれたのかな、目が醒めたら家だったよ」
「送ってくれたんじゃない?」
「部屋汚いから、見られてたら嫌だなあ。玄関前で置いて行ってくれたかな」
「そうだといいね」
思い返せば彼女は、時折自分の部屋が汚いとこぼしていた。どうせ読んだ本が置きっぱなしとか、その程度の汚さだと思っていたから気にも留めていなかったけれど、嘘ではないらしかった。
「飲み会、次から気をつけなよ」
「そうする」
相沢さんも、結局のところ私も変わらないのだ。下手をすればわたしより下だ。相沢さんは、だめな人だ。そう思ったら突然相沢さんが愛おしく思えて、金木犀の香りすら好きになった。
桜と金木犀 椿叶 @kanaukanaudream
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