最終話

 数時間後の夜、千里と滝石は七節署の捜査本部にいた。犯人の死亡という悲惨な終結に、ふたりとも言葉を交わさず、黙って席に腰掛けている。その捜査本部内は比較的閑散としていた。どうやら岸幡の自宅の家宅捜索令状が下りたらしく、捜査員の多くはそこに向かっていたため、会議室には数人の捜査員しかいなかった。


 岸幡が所持していたスマートフォン二台とタブレットを解析したところ、スマートフォンの一台とタブレットから、自身が開発したと思しきハッキングツール。それを使って、南雲のスマートフォンをハッキングしていた痕跡。それに加え、動画の投稿や配信、メールの送信を行っていた記録が発見された。千里の考えは当たっていたのだ。もう一台のスマートフォンに未送信のメールがひとつ現存していたが、厳重にロックがかけられており、開くのには時間がかかるという。そして、動画サイトにあったはずの岸幡のアカウントページは、いつの間にか削除されていた。担当した堀切によると、削除が行われたのが数分前。運営会社がしたのではなく、どうやら本人が一定の時間が経つとそうなるようにプログラムしてあったらしい。


 外では激しい雨が降り出した。その雨音が署内にも漏れ聞こえてくる。

「管理官、いつ来たんだよ。知ってりゃ玄関まで迎えに行ったのに」

そう言いながら、高円寺が諸星と共にふたりの後ろを通った。それが耳に入った滝石が振り向き、声をかける。

「係長、管理官が来てるんですか?」

滝石の問いに諸星が答える。

「ええ。署長に挨拶しにいらしたそうです。事件解決の報告も兼ねて」

「俺もさっき管理官に挨拶してきた。珍しく褒めてくれたよ」

高円寺が自慢げに言った。

「緋波さん」

滝石が視線を千里に向ける。怒気を含んだ表情の千里は席を立ち、会議室を出て行く。滝石も追いかけた。そんなふたりを、高円寺と諸星は怪訝な面持ちで見送った。


 署長室を辞した綿矢は廊下を歩いていた。前後には部下である捜査一課の刑事が、SPさながらに付き添っている。

「綿矢!」

そのさらに後ろから、千里が叫びに近い声を飛ばした。綿矢が振り向くと、千里と滝石が足早に迫って来る。猛烈な勢いで距離を狭める千里に対し、綿矢を守るかのように部下のふたりが遮った。

「なんだ!お前たちは!」

部下のひとりが声を上げた。綿矢は穏やかにその刑事に言った。

「いいんだ。きみたちは外で待っていなさい」

「しかし・・・」

解せない部下を綿矢は促す。

「これは命令だ。行ってくれ」

管理官の綿矢には逆らえないと、部下は諦めたように応じた。

「わかりました。車を回しておきます」

部下のふたりは玄関口へと向かっていった。千里はずっと綿矢を睨みつけている。綿矢はサングラス越しに千里を見て切り出した。

「なにか、話でもあるのかな」

千里は怒った口調で訊いた。

「SATに岸幡を撃たせたのは、あんたでしょ」

少し間を置き、綿矢は答えた。

「そうだ。彼はきみたちを道連れに焼身自殺を図ろうとしていたんだろう。それを防ぐために私が命じた」

「ライターを渡そうとしただけ。あいつは投降しようとしてた」

「きみの腕を摑んで引き寄せようとしていたと聞いている」

綿矢のもっともらしい理屈に、千里は苛立ちを抑えられない。

「嘘。あんたは岸幡が邪魔になって殺したのよ」

千里はそう言うと、綿矢の考えている意図について話し出した。

「十年前の事件、あんたは自分が逮捕した奴が冤罪だと知って動揺した。真犯人の柴谷が植物状態になって、一旦は安心したんでしょうけど、岸幡の存在が浮上してきた。しかもあいつは、自身で当時の事件を調べてた。そのときのあんたの頭の中、焦りで相当混乱してたと思うわ。岸幡が死のうとしているのを聞いても、不安は払拭されなかった。今になって誤認逮捕の事実が明らかになれば、処分は受けなくても昇進は取り消し。どっかの地方に左遷される。外部に公表されたら、もっと都合が悪い。煽りを食って警察を辞めなきゃいけなくなるかもしれない。あんたのこれまでのキャリアは崩壊する。だから、私たちがあいつに接触してるのを口実に、せめて証人である岸幡を消すことにした」

綿矢は微笑を浮かべて言葉を返す。

「きみは想像力豊かだね」

「想像じゃない。あんたは現実にそう考えてた」

強い眼差しを向ける千里に、綿矢は問いかけた。

「ならばきみは、私に殺意があったと証明できるのか?」

千里は唇を噛んだ。確信はある。しかし、それを裏付ける確証がなかったのだ。

「黙っているところを見ると、証明はできないと解釈していいのかな」

やや蔑みの表情を綿矢が呈した。

「失礼するよ。私は本庁へ戻らねばならん」

綿矢はそう言って玄関口へと歩き始めた。千里と滝石がその後をついて行く。

「岸幡が死んでも椎名がいる。あいつが証言するわよ」

千里は屈せずに述べた。

「犯罪に加担した刑事の言うことなど、誰も信じはしない」

綿矢の尊大な発言に、千里は抗った。

「柴谷は自供してる」

「きみが聞いただけだ」

「関与を示す証拠がある。それがあれば・・・」

そこで綿矢が、意味深な言葉を発した。

「きみが言う証拠は存在しない」

「え?」

千里が眉を寄せる。

「調べてみなさい」

自信に満ちた綿矢の様子を見て、千里はふと悟った。

「あんた・・、まさか・・・」

綿矢は証拠を消し去っている。自分が不利となる証拠を。千里の胸中で、怒りが充満していく。

「恥ずかしくないの?そんなに出世が大事?」

声を張る千里に、背を向けた綿矢は黙している。

「許せない・・・」

呟いた千里は、ロビーの中央まで来たところで綿矢の腕を摑み、強引に振り向かせた。千里と綿矢、滝石の三人が立ち止まる。千里の視線が綿矢に重なり、その手を離す。

「綿矢。あんたの汚い仮面、いつか剥いでやる」

千里は眼光鋭く明言した。綿矢は身体を横向きにしたまま、両手を後ろに組んだ。そして、千里の激怒が滲んだ顔に目を留め、不敵に微笑んだ。

「やれるものならやってみなさい。いくらきみでも、私を奈落の底に落とすのは難しいだろうがね」

そのときだった。ひとりのスーツを着た男が、綿矢の身体に正面からぶつかった。うつむいていた男が顔を上げ、綿矢を睨む。以前、綿矢に許しを請うた捜査一課の刑事、麻木であった。その顔は青白く、やつれている。綿矢の表情が歪んだ。突然なことに、なにが起きたのかわからなかった千里と滝石であったが、麻木が後ろに引いたとき、それがわかった。麻木の震えた両手には、包丁が握られていた。刃だけでなく、柄の部分まで赤黒く染まっている。綿矢は腹の内臓を深くえぐられたのだ。血まみれの包丁を目にした女の制服警官が悲鳴を上げた。それに呼応するように、その場は騒然となった。千里にもたれ、綿矢が仰向けに倒れる。千里はしゃがみ込み、綿矢を抱きかかえた。滝石が周辺に向け、大声で叫ぶ。

「誰か!救急車!」

男の制服警官ふたりに取り押さえられた麻木が、床に突っ伏したまま怒鳴り出す。

「妻が、冴子が死んだ!お前のせいで死んだんだ!お前が待ってくれなかったから!」

完全な言いがかりだった。しかし、今の麻木では理解できないであろう。綿矢は意識が薄れていくなかで、千里をじっと見つめながら打ち明ける。

「いつか・・、こんな死に方をするのではと・・、思っていた・・。予想より・・、早かったがな・・・」

綿矢の口から逆流した血が噴き出す。

「しゃべるな!黙ってろ!」

千里の忠告も聞かず、綿矢は消え入りそうな声で口を開く。

「きみの腕の中で死ねて・・、本望だよ・・・」

その言葉を最後に、綿矢は虚ろな目で息を引き取った。あまりにも不意な死だった。千里の耳には、響き渡る喧騒が聞こえない。なにも聞こえない。静寂のみが支配していた。


 翌日、大手マスコミ各社と警視庁記者クラブに、岸幡からのメールが届いた。そこには、七節町で起きた一連の事件は自分の犯行であること、十年前の榎本芽衣殺害事件の犯人は柴谷であること、当時の警察がいかに粗い捜査をしていたかなど、詳細な告白が打ち込まれていた。それは警視庁や東京地検にも届いていた。調べによると、そのメールは岸幡が所持していた端末に残されていた未送信のメールであった。指定した時間に自動的に送られるよう設定してあり、入力されたのは昨日の正午前、つまり、千里と滝石が岸幡のもとへ向かっているときだった。当然マスコミは、真偽を確かめようと騒ぎ立てた。地検からもプレッシャーをかけられた警視庁の上層部は、十年前の事件を改めて捜査する旨、発表した。千里が要望する前であった。だが、形だけかもしれない。千里は記者クラブの知り合いの記者数人に、自分もそうするうえで、実際にその姿勢があるのか、捜査に取り組んでいるのかどうか、様子を見ていてほしいと申し入れた。


 晴天の下、七節署の屋上に千里と滝石は立っていた。ふたりとも、遠くに建ち並んだビル群を眺めている。

「死ねば状況が変わるって、こういう意味だったんでしょうか」

岸幡の言葉を想起し、滝石が言った。

「生きてるよりも、死んだほうがセンセーショナルになるとでも思ったんでしょうね」

千里は冷淡な口調で返事をした。しばらくの沈黙のあと、滝石が急に話題を変じた。

「緋波さんはこれからどうするんです?今度こそ、本格的に職場復帰ですか?」

その唐突な質問に、千里は窮することなく答えた。

「仕事は続ける。けど、一課は辞める」

やや驚いた滝石が千里を見る。

「辞めちゃうんですか?」

千里は微笑を浮かべて述べた。

「ずっと刑事畑だったからね。もっと静かな部署に行ってみたくなったの」

二、三度うなずいた滝石は再度、景色に目を遣った。千里は呟くように語を継いだ。

「結局、綿矢のしたことは無意味だった。ってことか・・・」

千里はその場を離れ、昨日の雨で濡れたコンクリートの地面を歩きながら去っていく。滝石は振り向き、その背中をまっすぐ見ていた。


 捜査の末、押収した証拠類から、岸幡亨が事件の犯人と断定された。それにより、被疑者死亡で書類送検。捜査本部は解散となった。


 明くる日、綿矢の警察葬が執り行われた。綿矢は正式には殉職ではない。しかし、上層部の意向により、二階級特進、「警視監」として荼毘だびに付されることとなった。葬儀場の外では、霊柩車を挟むように長い隊列がふたつ、制帽に制服を着用した警察官たちが数十人と立ち並んでいる。その中には滝石と諸星、高円寺がいたが、千里の姿はなかった。

「綿矢警視監に、敬礼!」

大きなかけ声がしたのち、警察官らが一斉に挙手し、敬礼をした。霊柩車は出棺のクラクションを鳴らしながら、列の間をゆっくりと走っていった。


 霊柩車が町中を抜けようとする。老朽化したビルとビルの間、暗い隙間に女の影がひとり、壁に背を預け、外を見遣りながらバタフライナイフを操っている。目の前を霊柩車が通り過ぎた。女は気づいてナイフを閉じ、隙間から外へと出てくる。千里であった。制服ではなく、以前と同じ服装だった。誰もいない歩道に立つ。あれだけ死んでほしいと思っていた男が本当に死んだ。千里は言葉にならない感情を抱いたまま、彼方かなたに遠ざかりゆく霊柩車に鋭い視線を向けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ace :third Ito Masafumi @MasafumiIto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ