絵画工房の片恋

ワダツミ

あなたは絵しか見ていない



「コル! 今回の絵も最高だったわ!」



 とある街の片隅にある小さなアトリエ。画材の独特な臭いとカビ臭さの入り混じった室内に喜色を帯びた少女の黄色い声が響いた。

 声の主であるプラチナブロンドの長い髪を揺らす少女が無垢な子どものようにきらきらとした瞳で見つめる先には、黒髪と目の下の隈が特徴的な青年が描きかけのカンバスと睨み合うように座っている。


「……そうか」

「ええ! わたし、あなたの絵が大好きよ!」

「……」

「って、これはいつも言っているわね。あ、それから――」


 話しかけられた青年は少女の言葉に振り向きもせず、淡白な反応でイーゼルに立てかけたカンバスに鉛筆でモチーフを描き加えている。そんな彼も愛おしい、と言わんばかりに少女は頬を朱く染めた笑顔で話し続けていた。



「なんだい、あの女の子は?」


 室内の少しだけ離れた場所で、画材を片付けている一人の男がそんな二人の様子を見て首を傾げた。すると、隣でイーゼルを運んでいた女が「ああ」と言って物知り顔で話し始めた。


「あらジェム、知らなかったの? あの子、コルの大ファンなのよ」

「パッキー、知ってるのか」

「彼の個展が開かれる度、ああして直接感想を言いにここまで来ちゃうのよ。愛よねえ」

「まあ、コルはうちのアトリエの若きエースだしな。絵の才能があって、その上あんな可愛らしい女の子にまで好かれるなんて……羨ましいもんだね」


 ジェムと呼ばれた男は冗談めかして笑いつつ、膝をついて画材を床に置いた。


 二人の言うとおり、少女に言い寄られている青年……コルはこのアトリエの誇る若き期待の星である。彼の描く作品はあらゆる人間を魅了させ、個展や展覧会では芸術に興味のない人間であっても、彼の作品の前では思わず足を止める者も多い。

 その評判からパトロンの希望者も後を絶えない、言わば今を時めく芸術家なのである。



 しかし、彼にはある欠点があった。



「でもね……彼、すごくストイックでしょう? だから彼女がああやって話しても、作品にしか目を向けないの」

「え、いつもああなのか?」

「ええ。アタシもあの二人がまともに会話をしているところなんて見たことがないもの」

「あらら、それはまた……あの子も可哀そうに。まあ、あのコルだもんな」


 ジェムは立ち上がると、女……パッキーと揃って青年と少女にあらためて視線を移してから、同時に困ったように笑いながら溜息を吐いた。



 そう、コルの欠点とは……常に自分の作品にしか目を向けないという偏屈な彼の人間性であった。

 少女との会話から分かるように、コルは会話中でも作品から目を離さないどころかまともな会話すら交わさない。個展を開く際に行う業者への指示を除けば、コルに会話を持ち掛けてかろうじて返事があるのはこのアトリエに所属している同僚たちだけである。



「――あっ、時間だわ。それじゃあね、コル! 次の作品を楽しみにしてるわ! 皆さんもさようなら!」


 しばらくして、会話と言うにはあまりにも一方的なものを打ち切った少女は頭を下げてから、長い髪を揺らしながらせわしなくアトリエを後にした。

 様子を見ていたジェムとパッキーも、少女に軽く手を振ってその姿を見送る。しかし、その一方でコルは少女を一瞥するどころか一言添えることすらなく、黙々とカンバスに手を加え続けている。


「……本当にストイックだな」

「……もう、コル!」


 そんな様子を見た二人は同時にため息を吐くと、コルへと近づき話しかけた。

 内容は当然、さっきの少女についてだ。


「うるさいな。集中できないだろ」

「貴方ねえ……」

「まあまあ、それより良かったじゃないかコル。絵描きにあんな熱烈なラブコールなんてそうそうないぞ?」

してくれ。彼女は

「まったく、愛想の無い……。本当にあの子が可哀そうだわ」

「俺たちや業者の指示の時は普通に喋れるくせに、どうしてああなるかなー」


 二人がこれ見よがしに『やれやれ』と肩をすくませると、コルはさらに大きなため息を吐いてから無言で手を動かし始めた。


「……ん? コル?」

「……ダメね。もう集中しちゃってるわ」


 コルは二人がからかってくることが鬱陶しかったのか、完全に制作に没頭する態勢に入ってしまった。

 こうなればもはや誰の声も届きはしないというのはアトリエの人間なら誰しも理解していることだ。二人はコルに軽く謝罪の弁を述べ、それから少女と同じくアトリエを去っていった。



    ◆



 約二週間後。

 街中のとある貸しギャラリーで再びコルの個展が開かれていた。

 来場する人間は多く、多少のばらつきはあれど絵画個展としては大盛況と言っていいだろう。

 そんな作品と人の群れの中、来場者の中にジェムの姿もあった。


「やあ、コル」

「……ジェムか」


 受付の近くで立っているコルに、ジェムは軽い調子で片手を上げた。

 そしてジェムの姿を視認したコルは、むっつりと眉間に皺を寄せる。そんな態度を気にすることもなく、ジェムは彼と隣り合うように壁へと背を預けた。


「珍しいな、お前が会場に残っているなんて。いつもならアトリエに引っ込んでる頃だろうに」

「……」


 ジェムが話しかけるも、コルは険しい顔でだんまりを決め込んでいる。

 彼の言う通り、コルがこうして個展に残っているのは珍しいことだった。自身で開いた個展であっても必ず顔は出す……が、数分と経たないうちに会場から抜け出してアトリエで新しい油絵の制作に没頭する、という行動をコルはいつもとっている。

 表情からして何かいいことがあったわけでもないだろうに、どうしたのだというのか。ジェムは不思議に思いながらコルの表情を窺った。


「……なんだか顔色が悪いけど、大丈夫か?」

「……問題ないさ。気にせず作品を見てくるといい」

「そんな状態見せられて、そういうわけにもいかないだろ」

「……勝手にしろ」


 覗いたその顔は真っ青に血の気が引いており、口ぶりとは真逆に明らかな異常を伝えている。そんなコルのことが心配になり、ジェムは憎まれ口も気にせず隣にいることを決めたのだった。




「結局最後まで残ったな。こんなのは初めてじゃないか?」

「……っ」


 時間は過ぎ去り、日がとっぷりと落ちた頃。個展の初日終了時刻となっても、コルは会場に残っていた。

 本当に珍しいこともあるものだ、とジェムがおどけた調子で話しかけるも、コルは俯いて返事をしなかった。


「おい、本当に大丈夫か?」

「……った」

「え?」


 ジェムはやはりコルの体調が優れないのかと心配になり、顔を覗き込みながら声を掛けると、コルは小さな声で何か呟いた。

 ジェムがその言葉がよく聞き取れず、思わず耳を向けて聞き返すと――



「彼女が、来なかったっ!!」



 ――コルは大きな声で叫んだのだった。



「うおっ!?」


 突然大きな声を耳元で聞いたジェムは驚き、その場にひっくり返った。

 そんなアトリエの同僚の様子などまるで眼中にないかのようにコルは続ける。


「ルーペ、そうルーペっ! 彼女が来ていないんだ! いつも必ず、一番に来てくれているはずの彼女が!」


 普段感情的になることのないコルにしては珍しく、怒っているような、悲しんでいるような激しい表情と声。そんな彼の変わりようにジェムは驚愕と混乱を隠せないまま訊き返した。


「る、ルーペって?」

「彼女だっ! アトリエにも来ていた、あの天使のような少女!」

「え? ……あ、この前のあの子のことか?」


 見たこともないコルの必死な形相にジェムは困惑するも、彼の言っている少女はすぐに思い至った。二週間前にアトリエに来ていたプラチナブロンドの髪の少女である。


「あああぁぁ……ダメ、ダメだ。か、彼女がいなければ。彼女がいなければ僕は、僕は……嫌だ。嫌だ嫌だ……飽きないでくれ。僕の元にいてくれ。うああぁぁ」


 コルは嘆くように頭を抱えると床に崩れ落ちてしまった。

 鬱屈とした表情で激情のままに喋り、嘆いて蹲る。二転三転する姿はまるで別人かと思えるほどの変貌ぶりである。


「お、落ち着けよ。あの子がどうしたっていうんだ」


 頭をかきむしるようにして発狂するコルにジェムが宥めながら訊ねると、彼は突然鳴りを潜めるようにピタリと動きを止めた。それから肩を落として膝を抱き、小さくその答えを呟いた。


「……なんだ」

「ん?」


 またしても小さな、蚊の鳴くような声。

 今度は突然大きな声が来てもいいように、ジェムは少し距離を取って耳を澄ませた。



「――好きなんだ。……愛しているんだ。彼女のことを」



「……は?」


 目の前の偏屈絵描きから飛び出した言葉に、ジェムの口から呆けた声が出た。

 先日の態度を見るに、そんな素振りは一切見当たらなかった。それどころか他の人間同様、ほとんど無視を決め込むような辛辣な対応だったと記憶している。

 ジェムは正直なところ信じられず、『嘘だろ』と口をついて出そうになったのをどうにか堪えた。


「な、なんだよ。お前、あんな態度だったくせに……付き合ってるならそう言ってくれれば――」

「違う、そうじゃない。彼女は。……


 ジェムの言葉を遮るようにコルは涙声で否定の言葉を告げると、そのまま話を続けた。


「彼女が好きなのはだ。僕じゃない」


 それからコルは、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいった。


「たしかに僕が望めば、彼女は付き合ってくれるだろう。キスも、その先も……結婚だってしてくれるだろう。だが、それはだからじゃない。僕の描く絵が好きだからだ。彼女は僕ではなく――



 ――絵しか、見ていないんだ」



 偏屈な芸術家は低い声でそう言って恨めしそうに自分の右手を睨みつけている。怒りや悲しみの入り混じる沈んだ表情を見たジェムは息を呑み、それから口を開いた。


「ま、まあ待てよ。何もそうと決まったわけじゃないだろう? そんなこと分からな――」

「分かるさ。僕がそうだから」


 彼女が絵しか見ていないように、コルも彼女のことを想っている。

 そう断言するようにはっきりと告げられたジェムは……それ以上何も言い返すことができず口を噤んだ。


「……変な話をして、悪かった。もう暗い。さっさと帰れ」

「あ、ああ……」


 コルは沈んだ表情のまま突き放す物言いをして立ち上がると、そのままギャラリーを去っていった。

 未だ脳内で混乱がひしめいているジェムは戸惑い混じりの返事をして、ただ呆然とその背中を見送ることしかできなかった。


 あまりにも人間的で、あまりにも普通の悩みで……あまりにも目の前の芸術家には似つかわしくない、予想外な想い。

 そんな悩みを持っていると知った今、彼の背中はひどく小さなものに見えた。



    ◆



 個展の初日から二日が経った頃。

 コルの想い人である少女、ルーペはあっさりとアトリエに姿を現した。


「実は風邪をひいてしまって……」

「……そうか」

「あーあ、せっかくの連続記録が途切れちゃった。……知ってる? 私、あなたの個展にはいつも一番に来ていて――」


 以前と何ら変わらぬ調子で会話する二人。

 いや、会話と言えるのか怪しい……ほとんど一方通行なものではあるが、とにかく以前と変わらないコルとルーペの姿がそこにはあった。


「……またやってるわね」

「……そうだね」

「はあ……アタシも描かなきゃ。モチーフ何にしようかしら……」


 パッキーとジェムの二人も以前と同様、離れた場所で様子を伺いながら話をする。

 二週間前と似たような状態だが……明確な違いが一つあった。


「……」


 ジェムは無言でコルとルーペの二人を見つめながら、ここ二日間のコルの様子を思い浮かべた。


 表面上はいつも通りに振る舞い、白いカンバスに向けて筆を走らせ素晴らしい作品を描き上げていた。が、何が気に入らないのか、即座に上から別の色のアクリルガッシュを一面にぶちまけては別の絵を描き殴る。

 ただならぬ彼の様子に周囲の人間は『あのコルにもスランプがあるのか』と驚いていた。その中でただ一人、その理由を察していたジェムは複雑な感情を抱えてその背中を見つめていたのである。



「絵しか見ていない、か……」



 ジェムがぽつりと呟くと同時に彼は筆を走らせ始めた。



 それからコルは想い人の視線を背に、カンバスに筆を走らせた。

 自らの想いを作品に載せるように、ひたすらに画材の擦れる音をアトリエに響かせ続ける。この想いが彼女に伝わらなくとも、その目にはしっかりと映っていると――




 ――貴女あなたは絵しか見ていないのだから。



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