一つの勝利

 身体が軽い。

 朔夜は己の身体能力以上の動きに自分自身驚いていた。

 おそらくは魔力の働き。感覚が拡張されたように、体内の魔力の流れがはっきりしたことで良い作用が身体に働いている。

 これなら戦える。

 ちらりと振り返れば、由依は窓際まで後退して魔力を集中させている。

 一分。それだけ待てばなんとかしてくれるらしいが、勝てるのならば勝ってしまったほうがいい。


 鎖を再生させ始めた悪魔を見据え、跳躍。

 林立する机を足場に一気に肉薄して四本の手足、そして鎖を切断しようとして。


「な──っ!?」


 悪魔が跳んだ。

 無数の蔦を足の代わりとして上に跳ねあがったソレは空中で姿勢を変えると天井にぴたり、張り付くようにして見下ろしてくる。

 獲物を狙うような表情に悪寒が走る。

 同時に、背後の由依を狙われる可能性に選択肢を奪われる。

 相手は何を狙っているのか。

 葉月から生まれた悪魔。体育教師の時は女である由依を優先的に狙おうとしていた。なら、今は?


「こっちだ!」


 敢えて挑発しながら由依と距離を取る。

 案の定、悪魔は朔夜のほうを狙ってきた。ただしその攻撃方法は予想外のもの。

 下半身の花部分からぶわっと吐き出された花粉のようなものがある程度の指向性を持ってばらまかれる。慌てて顔を覆ったものの多少吸い込んでしまうのは避けられない。途端、身体の奥に熱。

 酩酊感が思考を奪い、短絡的な行動を誘う。

 悪魔の肢体に視線が奪われ──朔夜は唇を嚙みしめた。

 光刃を持ち上げ左腕を軽く撫でると、焼かれるような激痛と引き換えに意識が覚醒。


 もう、魔性の誘惑には屈したくない。


 魔女に篭絡された一夜を思い出し、意を決して再度の跳躍。

 伸ばされた鎖を切り飛ばしさらに接近、上半身部分を思いきり斬りつけようとして──悪魔が『髪』を伸ばすのを見て目を見開いた。

 右腕が絡み取られ、剣が手から離れていく。落下していくそれは光の刃を消失させ、ぐいっと持ち上げられた朔夜は柔らかな四本の腕に絡めとられてしまう。

 全身にぞくりとした『快感』。

 花粉がこれでもかと吐き出され、ニ十本の指が好き放題に身体を這いまわる。くすくす、という笑い声が理性をくすぐり、今自分が何をしているのかわからなくなりそうになる。


「く、そ」


 残った理性を振り絞って身体に力を籠める。

 強化された腕力が僅かに腕を押し返すも、相手もまた少女ではなく悪魔。尋常ならざる力をもって朔夜を押さえこむと悪戯を再開した。

 ここまでか。

 崩された思考がネガティブな感情を生む。偉そうなことを考えた癖にこの体たらく。魔法もろくに使えない素人が剣一本で戦える気になっていたのがそもそも間違いなのだ。戦闘経験もろくにないっていうのに、由依が危機感を覚える相手にどう戦うつもりだったのか。

 全身から力を抜く。

 愛撫がより強くなるのを感じながら思ったのは、自分が食われる前に由依が準備、あるいは逃走を終えることだった。

 この悪魔さえなんとかなれば葉月も日常に戻れるはず。

 だから、朔夜がどうなってもこいつだけは倒して欲しい──。


「お待たせいたしました、貴槻くん。……辛い役割を押し付けてしまい、申し訳ありません」


 不意に拘束の力が緩み始めた。

 生じた僅かな自由を使って振り返ると、悪魔の顔が苦悶に歪んでいる。

 何が起こっているのか。考えるよりも早く腕を振りほどいて自由を得た。あいにく最後の力だったので無様に落下、机とクラッシュすることになったが。


「ありがとうございます。これで悪魔だけを狙いやすくなりました」


 圧倒的な光に包まれた由依は既に必殺の体勢に入っていた。


「ギ……ッ!?」

「無駄です」


 上から、はらり、と粉のようなものが落ちてくる。

 何かと思えばそれは塩だった。悪魔の身体が末端部分から白く染まり、塩化して崩れ始めている。

 じたばたと暴れようとも何も変わらない。むしろ塩と化した部分の崩壊を早めただけで。

 悪魔は最後の苦し紛れに由依へと跳躍しようとするものの──少女は光の結界を狭め、悪魔だけを閉じ込めることでそれを阻んだ。

 強度があるのか少しずつ結界も崩壊していくも、それより悪魔が崩れ落ちるほうが早い。


「この世にあらざるものは、闇に還りなさい」


 本格的な崩壊が始まると僅か数十秒のうちに食人植物の悪魔はその存在を完全に消滅させた。

 残った塩はひとりでに広がり、大気中に残った悪しき魔力を中和していく。朔夜に与えられた高揚感もだいぶ楽になる。

 残ったのは倒れた葉月と乱れた教室備品だけだ。


「貴槻くん、大丈夫ですか?」

「……うん、なんとか」


 よろよろと起き上がり床へ座りこみながら答えると少女は眉をひそめた。


「ひどい状態です。左腕、ご自分で気づいていらっしゃいますか?」

「え。……あ」


 制服の左袖に大きな穴が開き、下の腕に火傷のような痕が大きく残っている。

 高揚のほうはしばらくすれば落ち着くだろうが、短絡的で野性的な欲求を押さえるにはかなりの体力を消耗するだろう。

 バツの悪い気持ちから曖昧な笑みを浮かべると、由依はふう、と息を吐いて、


「申し訳ありません。わたくしももう限界です。……本日はここまでにいたしましょう」

「そうだね。銀さんは家に帰るの?」

「一度、貴槻くんのお母さまにお会いできないでしょうか。あなたに怪我を負わせてしまった件もお詫びしなければなりません」

「それは構わない、っていうか僕の責任だと思うけど……うちのほうが近いし、休むのにもちょうどいいかもね」


 結界で守られていたため騒音は外に届いていないはずだが、偶然誰かが通りかからないとも限らない。

 なんとか身体を起こした朔夜は率先して机と椅子を直し、飛び散ってしまった残りの弁当を掃除した。

 影響が大きかったからか葉月はまだ起きる気配がないものの、その呼吸は規則正しく、悪夢にうなされている様子もない。


「葉月さんのことは、どういたしますか?」

「……書き置きを残しておくよ。後できちんと話をするって」


 少女は多くを語らず「かしこまりました」とただ頷いてくれた。

 短いメモを少女の手に握らせた後、誰かに見つからないようにそっと学校を後にする。

 希望的観測かもしれないが、あの悪魔の消滅によって学校の違和感はかなり薄れたように思えた。これならば危機的状況はひとまず防げたに違いない。

 安堵したせいか疲れがどっと押し寄せてきて、家に帰りつくとすぐ朔夜は玄関に倒れ込んでしまった。



    ◇     ◇     ◇



「目が覚めましたか?」

「……ここは」

「貴槻くんの部屋です。気絶なさっていたのでこちらに運ばせていただきました」


 小さな照明だけが灯された室内。

 傍らには寝間着姿の由依が座っている。見覚えのあるデザインなので姉の所有物だろう。母譲りの胸を持つ彼女の服なら由依でも着られる。

 カーテンに遮られた窓の外はすっかり暗くなっている。


「ごめん。銀さんも疲れてるのに」

「無理をなさらないでください。治療いたしましたが、怪我と毒で体力を奪われているのですから」


 朔夜を運んだ後は治療を母に任せ、由依も少し休んでいたらしい。


「わたしくは単に消耗しただけですので、安静にしていれば問題ありません」

「そっか。……それなら良かった」


 本調子には程遠いものの、身体もだいぶ楽になった。

 今後のことを相談しなくては、と思ったところで腹の虫が割って入った。

 由依はくすりと笑って、


「回復するためにも栄養を摂らなくてはなりませんね」

「そうだね。……なんだか恥ずかしいけど」


 二人揃って階下へ赴くとリビングで母がうとうとしていた。

 目を覚ました彼女は朔夜の様子を見て「よかった」と微笑む。


「無理はしないでって言ったのに。さくちゃん、大変だったね」

「うん。ごめん母さん。僕も少し調子に乗ってた」

「ううん、ちゃんと帰ってきてくれただけで十分。何があったかも由依ちゃんからだいたい聞いたよ」


 早くも「由依ちゃん」と呼ばれた少女は恥ずかしそうに頬を染めつつも「良いお母さまですね」と言ってくれる。


「由依ちゃんはあんまり銀家らしくない子だから話しやすかったよ」

「そうなんだ?」

「わたくしは『天使憑き』ですので、家の者よりも外部の方の指導を受けることが多かったのです」

「天使」


 悪魔を塩に変えた力を思い出す。

 聖なる力。それの源が天使というわけか。

 由依はこくんと頷いて、


「詳しくお話したほうが良いかもしれませんね」

「じゃあ、先に何か食べられるものを用意するね。由依ちゃんも食べるでしょう?」

「ご馳走になります」


 ありあわせだと言いつつ、具材たっぷりの和風パスタとサラダが出てきて、朔夜は由依ともども舌鼓を打った。

 食事がひと段落して胃袋が落ち着いたところで母が、


「悪魔憑きって呼ばれる人がいるのは知っているでしょう?」

「……うん。悪魔を生んでしまうんじゃなくて、生まれつき悪魔を宿している人のこと、だよね?」

「その通りです。そして、天使憑きはその逆。わたくしの身には天使が宿っております」


 悪魔は負の感情を司り、天使は正の感情を司る。

 人に憑く悪魔は新規発生する悪魔とは桁違いの化け物であり、天使はその対になる存在。

 天使憑きは正の感情をもって天使の力の一端を解放し行使することができる。


「現代では家や流派という形で守られてきた伝統が崩れて、魔女の血も技術も混ざりあってる。その結果、現代的な実践魔法が若い魔女の間で主流になってるんだけど、由依ちゃんはその流れに乗っていない特別製だね」

「申し訳ありません。学園に入学して間もない時点でこちらに来てしまいましたので、通常の魔法はまだまだ未熟なのです」

「天使の力は強力だけど大味なんだよね。制御が大変だから威力が大雑把になりやすいの」

「そっか、だから小さなものを壊したりは苦手って言ってたんだ」


 相手を塩に変えてしまうような力をほいほい振るうわけにもいかないし、その度に大きく疲れてしまうのも困りものだ。

 それでも使いどころを選べば悪魔が一撃で消滅するのだから、朔夜としては恐ろしい。


「でも、おかげで学校はだいぶ落ち着いたみたいだね」

「ええ。後はわたくし一人でも十分解決できるかと」

「良かった。さくちゃんにはもう少し休んでもらいたいから」

「銀さんだって疲れてるのに僕だけ寝てるわけには」

「だめ。さくちゃんは明日一日戦ったり激しい運動したり魔法を使ったりは禁止です」

「わたくしもそれが良いと思います」


 言われてしぶしぶ、朔夜は二人に従うことにした。


「母さん。街のほうはどう?」

「……芳しくないかな。今ある仕掛けをなんとかできたとしても、それで終わるかどうか」

「かの魔女がその程度の企みで終わらせるとは思えませんね」


 頑張った程度でなんとかなってしまうのなら相手に奥の手があると思ったほうがいい。

 葉月に二つの仕掛けをしていたように隠し玉があるとすればそれを予測しなければならないが、簡単にわかるようなものなら隠し玉にはならない。


「回復してからにするからそっちも手伝わせてよ」

「わたくしも、少しでもお力になれるのでしたら」

「ありがとう、二人とも。手伝ってくれるととっても心強いよ」


 方針が決まったところで今日のところはみんな休むことにする。

 由依には姉の部屋が宛がわれることになった。由依とも顔見知りではあるらしいし、本人は年二回くらいしか帰ってこないのだから特に問題ない。


「おやすみなさい、貴槻くん」

「おやすみ、銀さん」


 二階に上がっていく由依を何気なく見送っていると、母が微笑んで、


「由依ちゃん、ちょっとゆえちゃんに似てるね」

「……見た目はぜんぜん似てないよ」


 憎まれ口を叩いてしまったのは自分でも頷けるところがあったからだ。

 何か言いたそうにしている母から逃げるように朔夜もまた自室に戻って、ちょうど机の上のスマートフォンが音を立てているのに気づいた。

 発信者の名前を見て息を呑む。


「もしもし、葉月さん?」


 今日の一件にもう一つの決着をつけなければならない。

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