わからない女。

さんまぐ

第1話 わからない女。

女には不満があった。

女は常に理想を求めていた。

現状に満足していなかった。


26歳で結婚をした。

結婚相手は同じ職場で付き合った男。

自分はバイトで相手は正社員。


女は相手を選べる立場にいた。

なのでその中でもマシな条件の男を選んだ。


男は次男坊で長男教の親を持つ愛された経験のない男。子供の頃から兄はやってもらえても自分は何もしてもらえずにすべて自分で支度や準備をして学校探しも就職活動も自分ひとりでやり遂げ独立の際も一切の支援はなかった。

当然、長男の結婚式は親が金を出し盛大にやったが男に関しては何もしないことを公言している連中だったのであえて結婚をした。


とりあえず干渉や詮索はゴメンだった。

なのでさっさと結婚をして勤め先も辞めた。


ここでまず最初の狂いが生じた。


愛された経験のない男なら愛さないで済む。

妻の立場を手に入れた後は全リソースを自分磨き、自己研鑽に割こうと思っていた。


だが夫になった男は誰からも愛されなかった孤独の埋め合わせを妻に求めた。

それでもなんとか誤魔化しながら一定のリソースを自分に割く事は出来た。

だが夫はいくつかの事だけは首を縦に振らなかった。


それは「女が正社員として働きに出る事」、「積極的な避妊をする事」、そして「離婚をする事」に関して。


全ては愛さないで済むと思った家庭環境が災いしていた。

正社員を拒むのは正社員になれば得られる福利厚生なんてものは最低限でいいから残業なんてしないでキチンと夜には帰ってくる事を望まれ、避妊に関しても授かり物だから将来を見据えて普通の営みを経て授かったらそこから幸せな家庭を築く事を望まれ、その為にはどんな苦労も厭わないと夫になった男は女が家庭に向かって割かなかったリソース分まで補った。

それこそ命を振り絞っていた。

離婚をする事に関しては始まってすぐに終わりを考える事はおかしいから一つずつ話し合っていこうと夫になった男は言っていた。

だが女の中では無理は続かない。早晩愛想を尽かして離婚を申し出てくると思っていた。


これには女にも問題はあった。

幼いころからテレビやネット等を見ていて女尊男卑の考えが植え付けられていて得をする終わりしかしてこなかった。なので離婚に関しても夫の貯金を根こそぎ慰謝料として貰ってプラスの状態で新しい生活を始める為に夫から離婚を切り出してもらう必要があるとして自分から離婚を切り出さずに、離婚をさせようと利己的で傍若無人な妻として振る舞う事しかしてこなかった。


だが夫は決して離婚を口にしない。

そうしている内に子を授かってしまった。

これにより女の計画は大幅な下方修正が求められる。

本来なら30前後でスピード離婚をして夫から得られる慰謝料を元手にさらに上の生活をする予定だったが離婚も叶わず子供まで授かった。

そうなると生まれた子が落ち着くまでテレビやネット等で理想の人生を再度見直しておいたが保育園に入れて働きに出たいと思ってもテレビやネット等のようにうまくいかない。

その間に夫は妻と子供の為と言い、分譲マンションを購入した。夫の選んだ六階の部屋は家族の事をよく考えられた間取りと立地で不満の出しようがないが、景観はそこそこで上昇志向の女からすれば物足りない。

どうせならもっと上がいい。それどころかその金は離婚の時のために取っておいて欲しかったし、自由にできるのなら資格取得や自己研鑽に使わせて欲しかった。


ようやく子供が小学生になったので約束を取り付けて、四時までの労働を認めさせてアルバイトに出た。

バイト先は自分が思うステップアップに適した職場で日々が楽しかった。

だが家に帰ると子供と家庭をなんとか存続させようと奮闘する夫がいて気分が滅入った。


そんな夫は子供が生まれてから異常な進化をしていた。

こと家族に関しては異常な勘の良さを示し「なんか嫌な予感がするから気をつけて」と言うと本当に子供が怪我をしてきたりする。

それならその力で宝くじでも当ててこいと思って話した事があるが夫は笑いながら「家族の危機に反応するみたいなんだ」と言う。


この異常さが下方修正した女の計画の足を盛大に引っ張った。

女は離婚の夢を諦めていない。

離婚して慰謝料を元手に自立して正社員になって今の職場で得るものが無くなったらその経験を持って次に行く、テレビやネット等で見て夢に描いた暮らしをするまでステップアップをする。

その為にアルバイトから正社員になって週5日働いて残業でも休日出勤でもなんでもしたかった。朝から働き、夜は飲み会の午前帰り。夫と子供の待つ家に帰りたくなかった。


だが夫は正社員だけは認めなかった。

女の本質を見抜いていたのかも知れないが、夫の母が長男と自分たち夫婦を優先して夫を寂しがらせた事が遠因だった。

前々から打診のあったアルバイトと正社員の間に位置するパートタイムだけは手続きを済ませ、外堀を埋めて後は夫のOKを貰う段階まで済ませてから事後報告をして、ここで断ると周りに迷惑がかかるからと強く迫って渋々了承させた。

この際も散々言い合った。

普段ならなあなあで済む夫も子供が寂しい思いをするのに何故決めたと苦言を呈してきて女はなら離婚してくれと思いながら会話を運ぶが離婚にはならない。


険悪な空気。

子供が察して気を使うような空気の中、夫は「コレだけは言わせてくれ。こういう時こそ甘言で迫ってきて家庭の崩壊を狙う輩が現れるから騙されないで」と言ってきた。


聞いていて女は背筋が凍っていた。


それには理由があった。

女は職場恋愛に憧れていた。

夫との出会いも職場。

そういう体質なのだろう。


職場にいる年上の男は仕事に対して理解があり、女に対してアルバイトではなくパートタイムになるように勧めたり手続きを率先したりしてくれていた。


ある程度のスキンシップも重ねたし密な連絡も取り合っていた。

肌を重ねていないだけで傍目に見たら不倫をしていた。

女はこの男が「後の事は全部やるから気にしないで」と言って夫との離婚交渉を済ませてくれればいいのにと本心から思っていた。


この件で男は「俺なら働きたいと言う女性を家に縛りつけたりなんてしないのに」と言い倉庫で優しく抱きしめてきて早く男女の仲になりたいと囁いていた。


この頃から女は変な夢を見るようになっていた。朝帰りをして夫から怒られて子供が泣く姿や男との関係が不倫として書かれている封書が夫宛に届き仕事を辞めさせられる夢等様々だった。


だが所詮は夢、願望が悪い形で夢になっただけだと決めつけて仕事場に向かって行った。

詮索と干渉を嫌う女の徹底ぶりで夫には勘以外は何も察せないようにしていた。


この日は先日ニュースで特集されていたスーパーマーケットでの不倫を実行する約束を男としていた。スーパーマーケットで待ち合わせをして夫婦のように仲睦まじく買い物をして駐車場で少しばかりの時間を過ごす。夫と子供にはレジが混んで居たで済ませるつもりだった。

だが夫は「嫌な予感がする。君が怪我をするかも」と言い、車を出してスーパーマーケットについて来てしまう。


駐車場に停まっていた黒のセダンに乗っていた男と目が合うと男は頷いていた。それを見送るしかなくて忌々しい気持ちだった。

しかもスーパーマーケットでは酔っ払いが暴れていて「これだったか」と夫は言い、成功体験に1ページ追加されてしまう。


その後も男と約束をした時だけ「嫌な予感がする」と言い邪魔をしてきて、男から離婚を勧めるような話が出た時には「仲を割く甘言には気をつけて」と牽制をしてきた。


もう沢山だった。

だが無情にも時は流れて女としても仕事をするにしても年齢的価値が無くなる年になっていた。

男からは先日、最後のチャンスとして飲み会で終電を逃した事にして肌を重ねようと提案をされていて、夫にはのらりくらりと開始が遅れたから中々始まらない、始まりが遅かったから終わりの時間はわからない。子供と一緒に寝ていてくれと誤魔化したのに夫は「嫌な予感がするから」と言い、その実績を知る子供の了承を得て子供を寝かしつけて戸締りを完璧にこなすと深夜まで飲み会が行われた駅で待っていた。こうなると朝帰りなんて夢のまた夢だった。


朝帰りをすればいい加減離婚を切り出される。

離婚と新しい男と正社員、三つも同時に手に入るとウキウキして男の横に座り仲睦まじく過ごしたのに夫が深夜まで待ち伏せたせいで三つとも台無しになった。


これが決定的になって何年間も待ってくれていた男は離れて行く事になる。

正社員としても手遅れの年齢、女としても希望するような次の恋は望めない。

上を目指すはずが平穏無事で終わるしかないのかと世の中全てを恨んだ時、とんでもない夢を見た。


夕方、玄関に血まみれの夫が居る夢だった。

愛なんてとっくの昔に枯渇したがそれでも冷静で居られずに飛び起きた。


願望にしてもなんて夢を見てしまったんだと思ってしまう。

ステップアップを目指したいのであって殺してしまったらそれこそ人生がお先真っ暗になる。

だがまあ夢は夢だ。

そもそも夫が自分より早く帰宅するなんてそうない。

それに夕方なら子供が家にいる。

子供が出てこない夢なんておかしい。


そう、だから夢だ。

そう思って数日を過ごした。


週末の金曜日。

仕事を終えて帰宅すると玄関の鍵があいていた。

子供がトイレに入りたくて急いで家に駆け込んで用を足すと防犯の意識なんてすっかり抜け落ちて今度はお腹が空いたとリビングで買い置きのお菓子を漁ったのだろう。

全く不用心だ。


男と関係修復が不可能になり3ヶ月。

今はどこか諦めの気持ちと、ここが分相応として子供の事をきちんと見て、今更愛せないが夫から無理に離婚を切り出されるような妻でいる事はやめようと思い始めていた。

そう思うと物足りないこの6階の景色も悪くない。

前なら子供が怯えるまで怒鳴っていたがそれも止めて優しく注意しようと思いながら玄関を開けて子供の名前を呼ぼうとした時、女は何かに足を滑らせた。


転ばずには済んだが玄関に足を滑らせるようなものは何も無かったはずなのに、子供が何かをしたのかと思い足元を見ると足元は真っ赤な血の海になっていた。玄関マットの上には血まみれの夫。


普段ならまだ働いている夫が何故ここにいるのかわからなかった。

だが今はそれよりも子供の事だと思いリビングに駆け込むとそこに居たのは椅子に腰掛けた不倫相手の男だった。


手には包丁。

包丁は真っ赤になっていた。


「え…?」「あ…」と言葉にならない声を漏らす女を見て「くそ、なんだあの旦那は…、超能力者か?」と漏らしながら女を見て「お前は悪い女だよな」と言う。


理解が追いつかない女に向かって男は「ったく、こんな結末になるなんてな」と言って立ち上がると「子供は逃げおおせやがった」と言いながらテーブルの上のメモを手に取って女に向かって突き出す。


そこには夫の字で[君はスマホの連絡を嫌がる節があるのでメモ書きにしました。嫌な予感がするから早退してきたんだ。優は君の実家に預けてきた。僕は今から君を迎えに行くけど入れ違いになった時のためにこのメモを残すよ。僕の事は気にせずに実家に行くんだ]と書かれていた。


優は息子の名前。

女が考える間に男が「嫌な予感…、か。本当に凄いな。何遍もお前を破滅させようとしたのにその全てが【嫌な予感】で台無しになった」と呟くと男は聞いていないのにアレコレと話し始める。

それは夢で見た内容だった。

朝帰りをして夫に不倫を匂わせる封書を送りつけたり、スーパーマーケットのデートを隠し撮りをして夫に送りつけるモノなど様々だった。


「信じるか?俺は何回もお前を…お前だけを破滅させようとしたのに何度試みてもお前の旦那が邪魔をする。仕方ないから俺は実力行使にでる事にした。本当ならお前が嫌っている子供を殺してその罪をお前に被せるつもりだったのに家に来てみたら子供は不在で旦那しかいない。しかも旦那は俺を見てすぐに「あなた…、ウチに何をする気ですか?」と聞いてきやがる。お前の事で話があるって言って油断させて殺したがこっちの考えを見抜くような目をしていた」


女はようやく「なんで?」と聞くと男は「お前が旦那を殺されても涙一つ流さない冷血人間だから報いが起きたんだろ?俺の苗字と顔を見てもまだ何も気付かないのか?」と言い、女が男の顔を見て苗字を思い出すと高校時代に初めて出来た彼氏の事が頭をよぎる。

学生時代からテレビやネット等の知識に染まっていて上昇志向と女尊男卑の気質があった女は最初の彼氏だとしても遠慮なく使い潰し、別の男に言い寄られるとそちらの方がいいと容赦なく乗り換えた。

そして新しい男は女の望む後始末を言わなくてもキチンとやってくれた。

女のいない所で前の彼氏を呼び出すと自分が新しい男で自分こそが女に相応しいと言って不貞や不誠実さを追求させる間も無く腕力で屈服させると二度と近寄るなと言い放っていた。


女の顔を見て男は「気付いたな?」と言うと「弟は失意の中で心を病んだ。立ち直れずに対人恐怖症になってしまった。自慢の弟だったのに今も引きこもりだ」と声を荒げた。


未だにどうしてこうなったか理解の及ばない女に向かって男は「最初は苗字が違っているからわからなかったが俺はお前が弟を壊した女だと気付いた。お前が俺に気付き弟を気にする言葉をひと言でも言えば何も言わないようにしようと思った。それなのに思い出さないどころかあの頃と何も変わらずに男を…旦那を食い物にしながら離婚したいなんて言っていた。だから復讐する事にした。でもこの日々でお前が心変わりすれば見逃す事も考えたが変わらなかった。だから復讐をしたんだ」と言うと男はベランダの方に向かい「不倫相手が家に押しかけて旦那を手にかけて罪の意識から飛び降りる。残されたお前はどうなるんだろうな?」と言うと躊躇なく飛び降りて下からは悲鳴が聞こえてきた。


数分して聞こえてくるサイレンの中、女はどうしてこうなったのか、どうすれば良かったのかを思案してみたが答えなんて出ない。

すぐに出てくるのはこの事態で閉ざされる自分の未来のことばかり。

この先自分はどうなってしまうのか、そればかりだった。

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わからない女。 さんまぐ @sanma_to_magro

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