花が咲くように、夢眠るように

アルストロメリア

ブルーグレイに祈りは込めず

 AM3:00、夜と朝のあわいの時刻に、僕は港の灯台を訪れた。

 

 まだ深夜と呼ぶ方が近しい時刻の海は、人も何も寄せ付けない暗闇に満ちている。澄んだ水は黒く染まり、波音もどこかよそよそしく、防波堤に打ち付けては飛沫を上げて散っていく。


 僕は防波堤に沿って灯台に近付くと、重たい鉄の扉を両手で引き開けた。暗闇の中、灯台はまるで海辺にうずくまる巨人のように茫洋とした影を晒している。巨人の腹の中は壁に沿ってぐるりと螺旋階段が囲み、最上部の展望台まで途切れることなく続いていた。人の姿はない。一昔前であれば灯台には明かりを灯す人間がいたのだろうが、今時は全て遠隔操作だ。なので、僕は無人の階段をゆっくりと考え事をしながら上ることが出来る。


 金属の踏み板に足をかけながら、まず思うのは、今月も変わらずここに来てしまった、という感慨だった。それは習慣を繰り返すことで得られる確かな安心と、未だ前を向くことの出来ない自分へのどうしようもない虚しさが込められた、この薄闇のように暗い感慨だ。


 ――今から三年前の十一月十四日。僕の恋人は、この灯台から身を投げた。直筆の遺書が残された、疑いようのない入水自殺だった。


 カン、カン、と螺旋階段を革靴の底が打つ乾いた音が灯台には満ちている。僕はその音を聞くともなしに聞きながら、何十回と考えたことを、また思考する。


 人が誰か大切な人を失った時。それが事故ではなくその人本人の意思であった場合、遺された人間はその事実をどのように受け止めたらいいのだろう。


 身勝手を怒ればいいのか。それとも悲しみにくれればいいのか。どちらにせよ、大切な人は自分には一言もその苦しみを分けてはくれなかったと、残るのはその事実だけだ。厳然たる断絶。届かない孤独。死は終わりではなく、遺された者にとってはむしろ、終わりのない離別を続ける行為に他ならない。


 だって、さよならも言えなかったから。これから彼女に向けるはずだった幾万もの言葉は宙に浮いたまま、行き場を無くして何処にも行けない。僕自身と同じように。


 規則的に前へと進んでいた足元が、金属の螺旋階段からコンクリートの踊り場へと変わる。階段を上り切ったのだ。僕は薄闇から明かり一つない暗闇へ、手探りで展望台の入り口を探し当てると、未だ不用心に鍵のかかっていないその扉を、力の限り押し開けた。


 ――途端に飛び込んでくるのは明けかけた海と強い海風。潮の香りを孕んだ空気は、生き物のようにうねって僕を打つ。


 風で押し戻されそうになった足をぐっと踏ん張ると、僕は細く開いた隙間から展望台へと体を滑り込ませた。階段を上がっている間に海鳥達も目を覚ましたのだろう。喧しい鳴き声が潮騒に混じって、薄青い夜空に響いている。


 僕は閉じた扉に背をもたれかける。ここから見える海には、遮るものは何もない。ひたすらに続く空。どこまでも広がる海。その先は丸く弧を描いて繋がって、果てを見極めることはどうしてもできない。


 ――この景色を最期に見て、彼女は逝ったのだ。


 それは一体どんな気持ちだったのだろうか、と僕は思う。彼女が遺した短い遺書には、家族と僕への謝罪の言葉しか綴られてはいなかった。彼女の気持ちは、この世界の何処にも残らなかった。だから僕はこうして明け方の灯台を訪れている。彼女が訪れた時間、訪れた通りの方法で。彼の人の最期をなぞる、その行為はどこか殉教者の巡礼に似て、けれどそれよりは遥かに卑近な、己を慰めるだけの道程だった。


 一際強く吹き付けた風に、僕は思わず目を閉じる。やがて風が収まった気配にそっと目を開けると、地平線から一筋の光が差し入るのが見えた。静かな夜明けは、しかし圧倒的な存在感でもって僕の視界を染めていく。


 橙色の曙光は、僕が黙って見つめる間にもその光を強めて、みるみるうちに真白い太陽へと変じた。黒かった海原が金剛石のように輝き、海鳥達の翼も風と光を孕んで美しく輝く。夜から朝へ、死から生へと切り替わる一瞬を、僕はただ眺めている。


 ――もしも魂というものがこの世にあるのなら、次の彼女は何になるのだろうか。もしくは、この僕は。


 ふと、そんなことを思う。それはあまり意味のない思考であって、けれどそもこの行為が意味のないことではあった。呑気な鳴き声を上げながら目前を通り過ぎていく海鳥に、僕は「そうだよなぁ」と相槌を打つ。彼等のように生きていけたのなら良かった。ただその日の生を謳歌し、死を死として受け入れる海鳥であれば。この寂しさも、虚しさも、感じずに済んでいたのだろうから。


 大きく息を吸って、吐いて、僕は体を起こすと、夜明けの海に背を向ける。彼女は一歩を踏み出した。僕は踏み出さなかった。たったそれだけの違いを噛み締めながら、重たい扉を風に逆らって引き開ける。


 ――きっとまた、僕はこうして海を見るのだ。


 ただそんな確信を覚えながら、僕はまた、灯台の薄闇へと足を踏み入れた。



♢♢♢♢♢



使用お題:青 光 灯台

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