愛のことば

@sunano627

愛のことば

「あー、暑い、暑すぎる。」

本館の非常階段という、他校舎から一番見えにくい場所で僕はそんなことを言った。高校二年生となり、そろそろ進路のことも本格的に考えなければいけない時期だ。いつもなら、募集が終わり次第すぐに家に帰って課題に取り組むのだが、今日はそんな気分ではなかった。僕は人生で初めて『サボる』という選択肢をとった。


「てかもう夏かよー。」

さらに夏という季節が僕の心をよりいっそうナイーブにさせる。日向は勿論居られたものではないし、日陰に入ってもジメジメとしており、そこにある荷物をひっくり返せばナメクジでもいるのではないかと思うほどだ。


昔は夏が嫌いではなかった、むしろ大好きだった。小学生の頃は、市営プールで大はしゃぎして親に怒られたり、学校の裏山で虫取り合戦をしたりした。『恐竜の化石を見つけるんだ!』と言って砂場に1日かけて穴を掘ったり、友達と協力してゲームで妖怪を倒したりもした。でも、それは中学生になるとガラリと変わった。友達とたくさん遊ぶ夏から、お受験の為のお勉強をする貴重な夏になってしまったのだ。


あぁ、唯一の心残りはまだ一度も海を直接見れていないことだ。幼稚園の頃、僕は初めてTVで海を見た。零れ落ちそうなほど青い空、太陽の光で白銀に輝いて見える大海原。その光景は、たとえTVという機械を通していても僕の心に深く残った。だからこそ、僕はまだ自分の目で海を見ることができない。嫌だった、あの綺麗な思い出が上書きされるのが。怖かった、あの時の自分がもういなくなりそうで。これから大学生、社会人となって僕はあの海を見ることはできるのだろうか。この汚れていく心で僕は美しいものを感じることはできるのだ……


「ねぇ、君そこで何してるの?」

顔を上げると、彼女は僕の目の前にいた。


「え、いや、別に…何も……」

突然の来訪にパニックになりながらも、僕は必死に頭を回転させて言い訳を考えていた。まずこんな所に人が来るのがおかしい。昼休みなどもよくここで時間をつぶしていたが一度も見つかったことはない。教師にしては若すぎるし、こんな人見たこと……いや、この人何処かで……そんな考えを巡らせていると、美しい鈴の音色のような声が僕の耳に響いた。


「んー?別にってことはないでしょ、君。とっくの昔に補修はもう終わってるよね?ジュース買いに行くついでに、チラッと思い出の場所を見ておこうと思ったら君がいたんだけど、こんなところで何してるの?」

僕は思い出した。この人、校内でも有名なお人だ。綺麗に整った目に、ちょこんと小さくのった鼻、薄紅色の美しくまとまった唇、顔はもちろんのこと小さい。スタイルはお世辞にもいいとは言えないものの、逆に155cm前後の身長がいい味をだしている。この世の可愛いを全て詰め込んだらでから大学生。確か隣の男子たちがそんなことを言っていた気がする。そして僕は質問にどう答えるか非常に悩んでいた。馬鹿正直に勉強をサボるためですとは言えないし…


「あー、その、なんというかー、えー、」

僕がしどろもどろしていると、彼女は痺れを切らしたらしく、意地悪な笑みを浮かべて僕に話しかけてきた。

「ま、どうせサボりでしょ?」

自分の考えが見透かされた気がして少し恥ずかしいという思いはあったものの、それを出さないように右手でこめかみをかいた。

「大丈夫、大丈夫。それ、私もだったから。」

その言葉にどう返そうかと悩んでいるうちに、彼女は僕の隣に自然と座って話しはじめた。

「ここって結構いい場所だよねー。どっからも見えにくいし、私もサボりたい時はいつもここに来てたなー。」


その言葉に僕は驚きを隠せなかった。その後、彼女の高校生時代の話や僕の1日の過ごし方などを話してとても盛り上がった。


「あー、面白いね君。ん?あ、そろそろ自習室に戻らないと。久しぶりに面白い後輩と喋れて楽しかったよー、ありがとねー。」

そう言うと彼女は嵐のように去って行ってしまった。また彼女と話ができるのはいつになるだろうか。僕はいつの間にか彼女の虜になってしまっていた。ふと、僕は目の前に気配があることに気付きパッと顔を上げると、そこには彼女がいた。いなくなったはずの彼女がいて僕は思わず目を見開いた。


「そういえばまだ名前聞いてなかったなあと思って、戻ってきちゃった。私の名前は上田莉奈、よろしくね。」

髪の毛の先を少しいじりながら話すその仕草に、何故かドギマギしながらも僕は自分の名前を言う。

「あ、加藤真司って言います。よろしくお願いします。」

とても緊張して、硬い言葉になってしまった。大丈夫だろうか。

「へー、真司君って言うんだ。私のことは莉奈って呼んでね。」

唐突な名前呼びにドキッとした。こんなにも分かりやすい僕の心が嫌だ。

「は、はい、莉奈さん。」

「ふふ、なんか言葉硬くない?3歳しか違わないからタメ口でもいいよ?」


「え、いやいや、そんな、全然。」

またやってしまった。緊張すると僕はすぐ言葉が硬くなる。でも、そんな癖も莉奈さんが笑ってくれたと言うだけで僕の心はいっぱいになる。ああ、何でだろう。何で僕は、彼女の顔を見られないのだろう。


「まあ真司君がいいならそれでいっか。それとさ、スマホ持ってる?連絡先交換しとこうよ。」

僕は人生で初めて、思考が止まる体験をした。フリーズした頭が急速に動き始め、莉奈さんの言葉の真意を考えはじめた。まず学校の敷地内でスマホを使うのは校則で禁止されている。バレたら指導だ。それに、自習室に来てくれている大学生と私的な関係を持つのも自習室を使うルールで禁止されていたはずだ。僕はバレた時のことを考えて莉奈さんの提案を断ろうとした。だが…


「あ、はい。これRINEのQRコードです。」

僕の体は正直だった。単純すぎる僕の行動に心の中で頭を抱えた。

「おっけ、えーと、これで登録できたかな?スタンプ送るね。」

『U.Rina』と書かれたアカウントからよろしくの可愛いスタンプが送られてきた。僕もすかさず『よろしくお願いします』の土偶スタンプを送った。

「ふふ、なにこれ、土偶?好きなの?」

「あ、はい。お気に入り…です。」

自分の中で一番無難なスタンプを選んだつもりだったが、梨奈さんにとってはそうでなかったらしい。僕は少し恥ずかしくなった。

「ふーん、そうなんだ。じゃ、また連絡するから。バイバイ〜。」

少しニヤつきながら、莉奈さんは第三教棟の方へ小走りで走って行った。僕はその後ろ姿を自然と目で追っていた。


「あー、何でだろうな。んー、何なんだろうな。」僕は両手で頭を抱えて、意味もない言葉をはいていた。何故さっき僕は彼女の顔が見られなかったのだろう、何故僕は彼女にNOと言えなかったのだろう、何故僕は自然と彼女を目で追ったのだろう。僕は彼女との出会いから別れまでの全てを振り返ってみた。答えは一番初めにあった。あの時声をかけられて顔を上げた瞬間に見た彼女の目。僕はあの日の海原が、彼女の瞳にくっきりと写っていたんだ。


僕と莉奈さんの出会いからしばらくが過ぎた。

あれから僕たちは毎週のように二人っきりで会って遊んでいた。最初は女性と二人っきりという状況に変に緊張していたが、三回目ぐらいからはこんな可愛い人と遊べるのだから、楽しまなければ損だという気持ちで遊ぶようになった。映画を観たり、ご飯を食べたり、カラオケ、ボウリングなどたくさんの初めてを彼女と過ごした。そして今日、僕は人生最大の決断をしようと、彼女との毎週恒例お食事会に出席していた。


「真司君って何か変わちゃったよね。」

勢いよく豚骨ラーメンを啜る僕を頬杖ついてみながら、莉奈さんはそう言った。

「別に、何も変わってないと思いますけど。」

啜った麺を飲み込み、ナプキンで口を拭いた僕は答えた。


「いいや、真司君は変わってしまった。今日だってそうだよ。最初に遊んだ時、真司君ガチガチに緊張して私の車の後部座席に座ろうとしたよね?それが今では当たり前かのように助手席に座ってきて、お姉さん悲しい。それに、服装。最初はthe高校生(中学生)みたいな可愛い格好してたのに、今では帽子、イヤリング、ネックレス、ブレスレット、果ては…ダメージジーンズ?!ああもう輩だ!真司君は輩になっちゃったよ!」

漫画みたいにプンスカ怒りながら、莉奈さんは餃子を口に放り込んだ。僕はまたかと思いながらも、鉄板炒飯を食べる手を止め反論する。

「いやいや、『助手席に乗ってね』って言ったのは莉奈さんでしょ?あとこの帽子も、イヤリングも、ネックレスも、ダメージジーンズも全部莉奈さんが選んだやつじゃないですか。それに莉奈さんも最初会った時はキッチリした格好だったのに、今じゃどんどんラフな格好になってますよね?」

「う"」

図星をつかれたらしく、莉奈さんは両手で胸をおさえて少しのけ反った。

「ま、まあこの話は置いておいて、来週遊ぶ場所決めない?」

露骨な話題そらしにため息をつき、僕は莉奈さんに初めて会った時のことを思い出す。

「はあ、莉奈さんがこんな残念な大人だったなんて、僕はガッカリですよ。」

「はーい、何の提案もないということで、来週の土曜は高知に行きまーす。フリーマーケットやってるんだよねー。」

脅威のスルー力だなと思いつつ、僕は新しい話題へと話を切り替える。

「あれ?確かそのフリマ、莉奈さんのお目当てのやつは日曜じゃありませんでした?」

僕は先週した彼女との会話を思い出しながら話した。

「お、よく覚えてるね。ポイント高いよー。ふふ、まあそれなんだけどさ、確かに私がインスタでフォローしている人が店出すのは日曜なのね。でも…流石に次の日学校の君に悪いかなあと思って。別に土曜も楽しそうなお店あるしね。」

莉奈さんは最後の餃子を食べ、少し伸びをしながらそう言った。僕は今しかないと思い、これまでの人生最大の決断をした。


「あ、あの、僕は…別に…泊まりでも…いいかなって…」

途切れ途切れになりながらも、僕はしっかりと莉奈さんに今の気持ちを伝えた。莉奈さんの反応を窺うと、彼女は伸びの姿勢で固まっていた。

「え、えっとさ…それってさ…もしかして、そういうこと?親御さんとかは…?」

フリーズから回復した莉奈さんが少し顔を赤らめて僕に聞いてくる。

「あ、それは大丈夫です…ちゃんと親には言ってあります…」

親には友達と泊まりで遊びに行ってくると伝えた。親はもう僕のことを諦めたのだろう。1日ぐらいだったらいいと許可してくれた。それを伝えただけなのに、僕の顔は熱い。

「そ、そうなんだ。じゃあ、土日どっちも行こっか…じゃあ…その…泊まる場所?は私が取っとくから、君は…準備?しといてね…」

「は、はい…」

二人とも顔を赤らめる。何ともいえない空気が、二人を包み込んでいた。

「か、帰ろっか…」「は、はい。」


そして、その日から高知旅行までの間、僕の検索履歴から卒業の文字が消えることはなかった。


「いやー、結構楽しかったね。いっぱい美味しいもの食べられたし、欲しいものも大体買えたし、でもまさか君が私にイヤリングをくれるなんて、ビックリしたよ。」

「気に入って、もらえました…?」

「う、うん。」

「……」「……」


微妙な緊張が二人の間に広がる。莉奈さんは左耳に、僕は右耳に同じイヤリングをつけている。僕は高知駅前グランドホテルの地下駐車場で不安と緊張、そして少しの期待に胸を膨らませていた。

「それじゃあ、そろそろ行こっか。」

「は、はい。」

僕は左手にフリーマーケットで買ったものと泊まりの荷物を持って車を出る。エントランスに行くためのエレベーターを待ちながら僕は莉奈さんに質問をする。

「あの、莉奈さん一つ聞いてもいいですか?」

「ん?どうしたの。」

僕は莉奈さんの顔をしっかり見て、一番疑問に思っていることをぶつける。

「どうして僕なんですか?」「え…?」

ずっと不思議だった。何で莉奈さんみたいな可愛い宝石の様な人が、僕のような道端に転がっている小石にかまってくれるのか。ずっと怖かった。僕たちの関係はこれからどうなっていくのか。僕は心臓がバクバクするのを感じながら、莉奈さんの反応を窺った。

「えー、それ私に言わせるの?うーん…」

莉奈さんは驚いた後、少し困った様な笑みを浮かべた。それでも僕は莉奈さんの顔を見続ける。

「んー、まあその、一目惚れ?みたいな…やつだよ…」

彼女は顔を赤らめて、髪の毛の先をいじりながらそう言った。プツッと何かが切れる音が僕の耳に聞こえた。

「あ、エレベーター来たから乗ろうよ、真司く…きゃ!」

僕は莉奈さんの手を掴んでエレベーターに乗り込んだ。

「あ、あのちょっと積極的すぎない?私たち手を繋ぐの初めてだし…別に嫌って言ってるわけじゃないんだけど…」

何かモゴモゴ言っている莉奈さんを無視し、僕は受付でカードキーを貰う。部屋まで向かう途中莉奈さんは顔を赤くして、ずっと下を向いていた。予約していた部屋までつき、カードキーでドアを開けた僕は、部屋に入った瞬間莉奈さんを強く抱きしめた。後ろでガチャっとドアが閉まる音がする。

「え、真司君?!えーと、あのこういうのってもっとムードとかあるんじゃないかな?!それに、私今日結構かいたから臭いよ!一回離れよ!」

莉奈さんが僕の胸を強く押すが、僕は構わず彼女を強く抱きしめ続ける。


「莉奈さん、僕の目を…見てください。」


「あ…」


僕は莉奈さんと目を合わせる。音が消える。僕たちの呼吸と鼓動が一つになっていく。

こんなにも体が邪魔だと思ったことはない。そして、僕たちは強く抱きしめあったまま唇を重ね合わせた。


あの時の、美しく輝くあの時の海が、僕の目の前に広がっていた。


「ねえ、真司君。」

僕の腕を枕にしていた莉奈さんが、顔をこっちに向けてそう言った。

「どうしたんですか?」

莉奈さんの頭を優しく撫でる。部屋はまだ薄暗く、明朝過ぎらしい。部屋には空になったペットボトルが三つ無造作に床に捨てられている。

「大好きだよ。」

僕の心は、いっぱいになった。ずっと言いたかった。出会った頃から言いたかったんだ。

「僕も、大好きです。」


それから二週間後、莉奈さんは突然僕の目の前から消えた。


あの人との出会い、そして別れから丸三年が過ぎた。唐突な別れにショックを受け、一時期は心に穴が空いたままの、日々を送っていたが、自分のことを好きだと言ってくれる女の子に出会えたおかげで俺は変われた。彼女は俺の一つ後輩で、音楽やゲームの趣味が抜群に合い、気付けばいつも一緒にいるようになった。そして大雨の日、俺たちは図書館で初めて唇を重ねて、恋人になった。その後、お互いが高校を卒業するまでは恋人として過ごし、彼女が高校を卒業したタイミングで双方の親にご挨拶に出向き、結婚を前提に交際、同棲することを伝えた。どちらの親からも少し急ぎすぎではないかと言われたが、僕と彼女はそれを押し切り、今同じ部屋で生活している。同棲を始めて一年、喧嘩がなかったわけでは無いが、それなりに幸せな毎日を過ごしていた。


「亀山さーん、あの話聞かせて下さいよー。」

俺は飲み会に参加していた。いつもなら断るのだが、今日は目の前で媚びている難波に話を聞いて欲しい人がいると言われしばしば参加した。

「おい近藤、これいつ終わるんだ?」

俺は隣の席に座っている近藤に小声で話しかけた。

「あー、しびらく終わんねえよ。酒でも飲んだろ、どうせ会計は先輩なんだし。」

つまみを食いながら近藤はそう言った。俺はまだ終わらないのかと絶望しながら三杯目のビールを喉に流し込んだ。

「おー、またその話ききたい?まあ結構都市伝説的な話なんだけどねー。」

亀山さんとやらが意気揚々と語りだす。きっと何度もしている話なのだろう、近藤の顔がことさらげんなりしている。

「三年前かなあ、これの一個上にとんでもなく可愛い先輩がいてな。まだ二回生だったのにもう大学のマドンナみたいな存在だったんだよ。でも突然姿を消しちまってなあ。あれはマジで皆びっくりしてたぜ。」

亀山が顎髭を撫でながら、懐かしそうに語る。この髭、就職に影響したりしないのだろうか。しかし、大学のマドンナ…突然消えた…あまりに共通点が多すぎる、確かにあの人はこの大学に通っていた。まさか、そんなわけがない!あの人はもういないんだ!いつまで、いつまで俺の心を縛り続ける!

「おい、おい。」

近藤が俺の脇腹を小突く。地味な痛みに意識が戻る。

「お前すげえ顔してたぞ、つまんねえのは分かるけど一応先輩だ。もうちょいマシな顔しとけ。」

「あ、ああ。」

近藤の言葉に『違うんだ!』とは言えず、もう一度亀山の話に耳を傾ける。

「それって何でなんでしたっけ?」

難波が媚びた相槌をうつ。いつもならイラッとしていたが今はそんなことどうでも良かった。

「いやー、色々噂はあったけどよ。なんか結局高校生と関係持っちまったていうことらしいぜ。んで、妊娠しちまって大学辞めて実家に帰ったということだな。」

「いやー、まじでそんなことあるんですねー。」 「そうだよなー。」

俺は居酒屋の机をバン!と叩いて、亀山に顔を向ける。

「な、なんだどうした。」

亀山が驚いた表情を浮かべる。あの時の記憶がチラチラと俺の頭を襲う。無理矢理無視し、亀山に俺の疑問が決定的になるであろう質問をぶつける。

「その大学生の…名前は?」

「え?ああ、確か、上田莉奈って言ったかな?」

その名前を聞いた瞬間俺の頭は真っ白になった。それでも俺の口は動き続ける。

「上田莉奈の実家の場所は?」

「いや、それは流石に知らねえよ。でも、たしか上田莉奈が、取ってたゼミの教授と今俺たちが取ってるゼミの教授は同じだった様な。

俺は荷物を手に取り、急いで居酒屋から出た。

「お、おい!どこ行くんだよ!」

後ろで近藤の声が聞こえるが、構わず大学へと向かう。



インスタントコーヒー独特の香りが鼻にぬける。正直言ってあまり美味しいとは言えないが、毎日飲み過ぎてもう癖になってしまっていた。私はコーヒーカップをタンブラーに置き、パソコンを閉じる。銀色に縁取られた老眼鏡を外し、目頭を少し押さえマッサージをする。


「この季節になると、いやでも思い出しますね。」

習慣化された行動を終えた私は、苦笑いを浮かべながらそんなことを言った。三年前のあの日も、今日の様に涼しい夏の夜だった。そして私の体も三年前と同じ、研究室に一つしかない大きな窓の側にあった。コーヒーカップを片手に私はあの日のことを思い出す。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「今…なんと言いましたか?」

二十年かけて辿り着いた芳醇なコーヒーの香りが弾け飛ぶ。私は今、目の前の生徒が言った言葉が理解出来ず、聞き返した。


「大学を、辞めます。」

私は空いている片手で頭を抱える。目の前にいる生徒は上田莉奈。大学一の美貌と称されている彼女だが、今その容姿は影を潜めている。髪はボサボサで、目元はどちらとも真っ赤にしている。一体、彼女に何があったというのだ。


「理由を…聞いても?」

私はコーヒーカップを窓の床板に置き、彼女の方に体を向ける。


「赤ちゃんが出来ました。私が責任を持って産んで、育てます。母にはもう話しました。実家に帰ります。」

私は深い動揺を顔に出すのを隠せなかった。私が知る限り、上田莉奈はその様な不貞をはたらくような生徒ではなかった。『相手は誰なんだ』『襲われたわけではないのか』喉元まで来ていた質問をうまく吐き出せず驚いた表情のままの私に、彼女は何が聞きたいかわかっているように、死んだ表情のままポツポツと語り続ける。

「相手は高校生です。合意はしています。」

私は空いた口が塞がらないという経験を初めてした。あまりに常識から逸脱した言葉は、私の脳に正常に届かなかった。ああ、なんて愚かなんだろうか。私はまた頭を抱えた。


「短い間でしたが、本当にお世話になりました。」

彼女はドアの方へ歩き出した。ドアノブをひねり、ドアを開ける。あと一歩進めば、彼女にはその小さい背中には背負いきれないほどの重荷がのしかかるだろう。私の口は、ある一つのことを確認するために勝手に動いていた。

「ひとつ、聞きます。」

彼女が私の方へ振り返る。足元に冷たい風が通る。彼女が開けたドアから入ってきたのだろうが、私にはそれが現実のものだとは到底思えなかった。

「あなたはまだ、その高校生のことを愛していますか?」

今まで死んだ顔をしていた彼女に変化が訪れる。深く歪んだ。私にはそれで十分だった。彼女は何も言わずに部屋から出ていった。重く苦しい静寂が私にのしかかる。暗く濁った液体は、吐瀉物の香りと味がした。


ーーーーーーーーーーーーーーー


私はインスタントコーヒーを口に含む。なぜか彼女のことは忘れられない。あの深く歪んだ顔が、この季節この場所この時間に立つと思い出す。自分の娘と重ね合わせたのだろうか。私は自分の女々しい思いに苦笑いをして、席に戻ろうとした。


「永野教授!!」

研究室のドアが勢いよく開かれる。ああ、あの時と同じ香りと味が、私を包み込む。





「永野教授!!」

俺は教授の研究室のドアを勢いよく開く。窓際で飲んでいたコーヒーカップを置き、俺に視線を送る。

「こんな夜分に何の用ですか?加藤君。それと、ドアを開ける時はノックをしなさい。常識ですよ。」

やれやれと言った態度で、教授はコーヒーを口に含む。俺は自らの思いのまま言葉を吐いた。

「上田莉奈の実家を教えてください。」

コーヒーを飲む手を止め、教授の顔が完全にこちらを向く。

「教授、俺は…俺は…!」

片手で俺を静止し、教授は背を向けて話し出す。

「そうですか…貴方が……」

教授は手を組み深く俯いた。やはり教授は莉奈さんの一件を知っていたようだ。しばらくと言っていいほどの時間が過ぎ、教授が沈黙を破る。

「愛媛県…愛南…行けば、分かります。」

教授は静かな声でそう言った。

「ありがとうございます、教授。失礼します。」

俺は退室し、急いで愛媛県行きのバスを調べていた。俺の検索履歴はまるであの日みたいに一つの言葉でうまった。



オラは愛南行きのバス体を揺らしていた。彼女には移住した友人に泊まりで会いに行くと伝えた。そんな友人がいるなんて話したこともないし、自分でも苦しいと思ったが、彼女はあっさりと了解した。その信頼を裏切ることに、胸が苦しくなるが、これは俺がやるべきことなんだと自分に言い聞かせてバスに乗った。


心地よいリズムに身を任せ、まどろみの中俺はあの人に姿を思い出しながら眠りについた。


「お客さん!お客さん!」

誰かが俺の肩を揺すっている。一体誰が…そこまで考えたところで、俺の意識は覚醒する。

体を起こし、少し伸びをする。

「おー、よかったよかった。んじゃ、早く荷物持って出てな。」

運転手に催促され、俺は横に置いてあった荷物を背負って外に出る。

すると、俺の目の前に飛び込んできたのは、どこまでも続く美しい大海原だった。後ろでブロロロロとバスが発車した音がした。僕の足は自然と海へ向かっていた。ただ単純に美しい海が、僕の目に写った。僕はこの美しさをどんな言葉で表そうかと真剣に悩んでいた。すると…


「ねえねえお母さん、あとどれぐらい?」

横から小さい子供の声が聞こえてくる。俺は顔を横に向ける。するとそこには、手を繋いだ親子が楽しそうに散歩していた。よく見ると、母親の方はかなり若いような…いや、そんなまさか。

「んー、あと1000歩ぐらいかなあ。」

「えー、ほんとに?それじゃあ真奈数えちゃうからね。いーち、にー。」

本当に…本当に…あの人なのか…


「佳奈…さん?」

僕が震える声を振り絞ってそう言うと、若い母親は僕の顔を見て驚いた表情で固まった。


「真司…くん?」

僕と莉奈さんの間に爽やかな緑色の風が通り過ぎる。沈黙が僕たちを覆うが、その沈黙は子供が破った。

「お母さん、このおじさん誰?!

僕を指差しながらそういう。意識が戻ったらしく、莉奈さんが子供の目線まで腰を下ろす。

「このお兄さんは私のお友達。それと真奈、今日は一人でおばあちゃんのところまで行ってみない?上手に行けたらお風呂の後のアイス一本増やしてあげるよ。」

「やったー!じゃあ真奈先にいっとくね。お母さんも早くきてねー。」

子供がとたとたと坂を走っていった。ちょうどいいところまで行ったところで、莉奈さんが僕の方を向く。


「なんで来ちゃうかなあ、真司君。」

莉奈さんは悲しそうな顔で微笑んだ。僕はそんな顔が見たくなくて彼女を抱きしめていた。


「真司君、だめだよ。もう私たちはあの頃みたいには戻れない。それに真司君も彼女とかもう居るんでしょ?裏切っちゃだめだよ。」

僕は何も言えず莉奈さんを強く抱きしめる。

「何も言えないってことはそうなんだね。真司君、もうお互いに忘れようよ。今日会ったことも、今まであったことも。それが一番、幸せになれるよ。」

僕は我慢できず莉奈さんと目を合わせた。

「それじゃあなんで、莉奈さんはそのイヤリングをまだ付けているんですか?」

「……」

莉奈さんは無言のまま目を閉じた。莉奈さんの左耳に付いているイヤリングが太陽を反射して輝く。


僕はいつの間にか彼女な美しい唇をふさいでしまった。





深くて暗くて青い海が僕の目の前に広がっていた。

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