ささいな融解は夕暮れと共に

飯田華

ささいな融解は夕暮れと共に

 友達百人できるかな。

 小学校低学年までは、そんな歌を歌いながら学校までてくてくと歩いていたものだけど、今となってはそんな歌詞、幻想でしかないようなぁと独り言ちるようになっていた。

 高校一年生の五月。

 咲き誇っていた桜はとっくのとうに道の側溝に張り付いていて、枝の先は瑞々しい緑色が散らされている。始まりを予感させる季節が過ぎ去り、飛び込んだ環境に適応しなければならない時間が到来していた。

 そんな時期の只中にいる私は、百人とまではいかないけれど、そこそこ適応できている自負があった。

 同じ中学であった見知っている顔と、はじめましての顔が半分半分同居している、公立高校の教室。詳しく言えば一年二組。

 同学年の男女が犇めくその中で、かろうじてお喋りできる相手を数人見つけられたのだから、上場といっていいと思う。

 ささいな友人関係を着実に築く。それは、人の名前を覚えるのにいつも四苦八苦 している私としては大変に難しいことで。

 だからこそ、新しい環境に囲まれてから一ヶ月。その短い期間にある程度の安寧を築けたのは暁光といっても差し支えないほどだった。


 そう思っていたのだけど。

 最近は、どこか味気ないなぁと思っていた。

 新しくできた友達数人と談笑していても、帰り道の途中にあるカラオケに行ってどんちゃん騒ぎを興じても、物足りないと心の洞から響いてくる声を、見逃せなくなっていた。

 理由は、はっきりとしている。




 三限の現国の授業中、教師がやたらめったら大きい声で登場人物の心情をつらつら説明しているのを聴き流しながら、私はちらちらと右横の席に視線を送っていた。

 隣の席に座っているのは、菜橋……なんだっけ。下の名前はどうやっても思い出せないけれど、苗字が菜橋というのだけは確実だった。

 私よりは真面目なのか、じっと前の黒板を見据える菜橋の横顔を、綺麗だなぁと思いながら盗み見る。

 きれい、というよりは、綺麗という印象だった。

 肩にすとんと毛先の影を落とす黒髪のセミロングも、実直さに伴って引き絞られた薄い唇も、前方の一点をつぶさに見つめる茶色がかった瞳も、『綺麗』という二文字をそのまま宿しているかのような趣をしていた。

 平仮名じゃなくて漢字なのはその方が、ブレを感じないからだろうか。

 背筋をピンと伸ばし、迷いなく黒板の活字を追う姿からは、不安定さを見いだせない。ときおり耳にかかる髪を直す所作すらからも整った冷涼さを感じて、息を巻いてしまう。

 そんな菜橋と私は、一か月間席が隣り合っているのにも関わらず、一言も話したことがなかった。

 文字通り、一言も。

 菜橋は、その美貌もあってかクラスメイトの視線を攫うけれど、当の本人は誰とも親密になろうとはしていなかった。休憩時間も、放課後も、誰かと話している場面を見たことがない。

 威圧的ではないけれど、好意的でもない。黙々と授業を受けて、放課後はいつの間にか教室から去っている。

 そんな、同級生と。

 お近づきになりたいのだろうか、私は。

 無意識に右へと逸れていく眼球に思いを馳せながら、自身に疑問を呈す。

 答えはきっとイエスで、だからこそ一歩踏み出せないことにやきもきとしている。 今のような授業中も、この席で友達と駄弁っているときでさえも、言い知れない焦燥は右向きに思考を偏らせて、今度こそぐらりと、身体まで平衡感覚を失ってしまいそうだった。

 現国教師の声を意識から完全に除外しつつ、考える。

 なんでこんなに気になるんだろうという疑問と、焦りを解消する糸口。その両方を。

 

 


 けれど、そう簡単に解決策など振ってくるわけもなく、今日も変化に乏しい日常を送りそうだった。

 六時限目の数学が終わり、ホームルームも欠伸を噛み殺しつつ通り過ぎた後、教室中が忙しない喧騒に包まれた。

 みんながみんな、学生鞄を肩にかけ各々の針路を辿る中。

 どうしよっかなぁと、席に腰かけたまま頬杖を突いていた。

 ぼんやりと窓の方を眺めて、流れゆく雲の動きをゆっくりと目で追っていく。留まることのない気体の群れは大小様々な形に変化して、

「あ」

 人型に見える雲の一つに、視線が吸い寄せられた。

 誰かの横顔を、幻視する。

 …………なんか、恥ずかしいな。

 ぶんぶんと首を振って、取りつかれていた妄想のもやを払う。慌ただしい動きで学生鞄を肩にかけて、足早に教室を去った。

 菜橋はいつものように、すでに教室から姿を消していた。本当に帰宅が早い。

 校門を出て、変わり映えのしない通学路をとてとてと歩く。クラスメイトの大半は部活動に所属しているから、高校生になって誰かと連れ立って帰路を辿ることは少なかった。一緒に帰るとしても、途中どこかに寄るとか、そういった用事がないと肩を並べる機械は訪れなかった。

 私も、適当にどこかの部活に入ってみてもよかったのかもしれない。

 五月となり、桜が解けた季節に思うには遅すぎる後悔を吐く息に混ぜ込む。

 まぁでも、どうせ入っても続かないのは目に見えているけれど。

 鼻先が裂く空気に、甘ったるい匂いが混じる。なんだろうと辺りをきょろきょろと見渡すと、最近できたのか、目新しい外見をしたパン屋が道路の右車線脇に建てられていた。

 我が高校は街中にあるため、住宅街から学校へ行くまでの通学路の両脇にはそこそこの数の店が軒を連ねている。入れ替わりも激しいらしく、先月あったタピオカミルクティー専門店が、気が付けばうどん屋になっていることも珍しくない。

 そう友達が言っていた、気がする。友達の話の大体は菜橋に気を取られているせいで、耳から耳へと通り抜けていた………まずいな、私。

 パン屋の看板に目を凝らすと、道路側に面している壁が全面ガラス張りとなっているため、中に陳列されているパンたちがよく見える。

 チョコクロワッサン。フランスパン。総菜パンに、菜橋の冷涼な横顔。

 …………菜橋?

 さっきよりもぐぐっと目を細めて店内を注視すると、片手にトングを持った菜橋がパンの群れの中をゆっくりと物色しているところだった。

 ときおり、カシャカシャとトングを開閉させている。

 咄嗟に電柱の裏に隠れた。スパイのように物陰から頭部を微かに出し、引き続き彼女の動向を窺う。ストーカーじみているという自覚はあるけれど、極力、彼女に私の存在を気取られたくはなかった。

 菜橋が、私の顔を覚えているかどうか定かでないにしても。

 やがてトングがカチッとチョココロネを捉え、抱えていたトレイの上に慎ましい彩りが加えられる。

 そのあとすぐレジへ向かい、卒なく会計を行う菜橋。

 菜橋、チョココロネ食べるんだ…………って、そんなことは別にどうでもいい。

 財布の中から小銭を取り出している菜橋の表情を、じっと窺う。


 教室よりも、ほんの少しだけ綻んでいるように見えた。

「いいなぁ」

 何に対していいなぁと思ったのか。自分でも分からない。それでも、軽めの羨望が喉元を突いて、呑み込む唾をいつもより温く感じた。

 パンを入れたポリ袋を提げた菜橋が、自動ドアの滑らかな開閉と共に店から出てきた。

 彼女に見られないよう細心の注意を払って、電柱の影と一つになる。

 けれど、取り越し苦労だったのか、菜橋はこちらに目もくれることなく、店の前を右に曲がった。

 ちょうど、私の家がある方向へと。

「……困ったなぁ」

 このまま帰路につくかどうか、迷う。

 これではまるで本当に菜橋の後を付けているみたいじゃないか。いや、覗き見している時点でもう遅いのかもしれないけど…………。

 悶々と思考が巡って、額の表面は真夏を間借りしてきたかのように蒸し暑い。

 どうしようどうしようと狼狽えている間にも、菜橋の背中はどんどん小さくなっていく。

 

 その、一歩踏み出すたびに揺れる毛先を目に留めて。

 

「うぅ……」

 唸りつつ、彼女と同じ帰路を辿る。

 しょうがない。家に帰るためには、この道が一番早いのは事実なのだし。

 苦し紛れの理論武装を脳裏の片隅に、恐る恐る電柱の影から足を踏み出す。菜橋はとっくのとうに道の先へと歩を刻んでいて、早くも置いていかれそうだった。

 備考経験皆無なりの距離感を保ちながら、菜橋の後方を慎重に進む。

家はこの辺りなのだろうか。菜橋の向かう住宅街方面には駅もバス停もないから、その可能性が高い。それでも、彼女がこの道を足早に歩く姿を見たことがなかったから、もしかしたら今日はふいに寄り道したくなったのかもしれない。

 どこへ?

 私のそんな疑問は、パン屋から数分歩いた先で解消された。


「おお、ここは想像通り」

 私が抱く、菜橋のイメージに。

 菜橋が入っていったのはこの街で数少ない、一階建てではない書店だった。モダンチックな外装の四階建ての中には漫画から実用書まで、多岐にわたるラインナップを揃えている、らしい。まぁ、私は小説しか買わないからよく知らないけど。

 菜橋が店内に足を踏み入れて少し時間をおいて、私も入る。入り口前の店員からは若干胡乱な視線を頂戴したけれど、ここまでくれば他人の視線なんて思慮するに値しない。

 

 私は放課後の菜橋の横顔を、知らない。

 

 その事実に歯がゆさを感じて、いてもいってもいられなくなる。そんなの当たり前のはずなのに、教室で見せる、透き通った印象とは外れた表情を追い求める。

 ときおり段差のない床でつんのめって、それでも菜橋についていく。

 彼女の足が止まったのは、書店の二階にある漫画コーナーの一画だった。

「いがいだ」

 漫画を読むのか、菜橋は。

 本棚の間を行き来したり、ふいに立ち止まったり。パン屋のときと比べて動きのバリエーションが多い菜橋に見つからないよう、私は漫画コーナーとは対角の位置にある雑誌コーナーで物色しているフリをしながら彼女を観察していた。

 菜橋が気になっている本は、これも予想外だったけれど、恋愛漫画が多いようだった。

 配色にピンクの多い表紙を次々に手に取りながら、買う本を見定めている菜橋の横顔をちらりと見やる。

 

 ほどけた唇に、ささやかに灯る喜色。

 真剣な眼差しで本を選んでいる菜橋の融解をじっと見つめていると。

 やっぱり「いいなぁ」って思った。

 その柔らかさにどうしようもなく目を奪われて、激しく脈を打つ心臓が克明に身体を揺らす。流動していないはずの空気にとぐろを巻いた熱が実って、いつの間にか心中をからめとられる。

 これじゃ本当に立派なストーカーだ、私。

 頬を冷ますために四苦八苦しているうち、菜橋は買う本を決めたようだった。すたすたとレジへ向かう彼女に一歩遅れて、その後を追う。

 買った本をそのまま手に持ちながら店を出た菜橋は、パラパラとページを捲りなが ら歩道を進む。

 そんなに待望していたのだろうか。後ろ姿を眺めているだけでもそのテンションの上がり様が十分に伝わってくる。


 弾む足取り。はらはらと翻る黒髪の彩り。

 抜け切りつつある春の陽気を身に纏う菜橋と、彼女の後を付ける私。


 他の同級生が見ればなんと言われるのだろう。けれど幸いなことに、周りに同じ制服を着た人間は一人も見当たらなかった。ほっと一息して歩みを……いや、それでも不審者には変わりないのだけど。

 家に辿り着くまでは続けていようと、区切りをひとまず決める。さすがに彼女の自宅まではつけていくつもりはなかった、のだけど。


 狭い交差点を通り過ぎた辺り、彼女の足許にひらひらと舞い落ちる何かがあった。

 落下の際、等速一センチメートルを保つ桜の花弁さながらの挙動を見せたそれは歩道の側溝に落ちるか落ちないかギリギリの場所に腰を据えたようだった。


 本に夢中なのか、菜橋は落とし物に気づかぬまま背中を小さくしていく。

 息遣いを悟られないくらいの距離が離れてから、薄い紙のようなものをパッと拾う。

 長方形型で、裏表にキャラクターのイラストが描かれていた。初回特典としてついてきた栞、だろうか。

 栞に目を落としている間にも、菜橋は遠のいていく。ずんずんと、待ってくれるわけもない彼女が落としたものを指の端で不安定に摘まんで、おおぅ……と狼狽える。

 どうしよう、これ。

「落としましたよ」とさわやかに声をかけることは……できそうにないな。ずっと後をつけていたことを悟られかねない。明日、学校で返す? それはもっと駄目だ。なんで私が持っているのかという話になってしまう。

 ぐるぐると視界を巡る逡巡には暇がない。今すぐにでも行動に移らないと菜橋を見失ってしまうのに、足はその場からピクリとも動かなかった。

 

 

 

 短冊くらいの大きさになった菜橋の跳ねる撫で肩を見て、何度も「いいなぁ」と思っていた理由を、薄っすらとだけど理解する。

 チョココロネも、恋愛漫画も、私よりもずいぶんと先をいっていた。

 眺めているだけの私は、彼女を溶かすことはできない。

 

 だからこそ、私が話しかけてしまえば彼女はまた氷に戻ってしまう。それを見たくなくて、立ち止まっている。単純明快。怖いだけだった。

 栞の端がささくれのように指の腹に刺さり、ささやかな痛みが散る。

 

 怖い。

 怖い、けど。

 

 駆け走りはしなかった。ただ前へ。等速で進む菜橋に追いつく程度の速度を維持し、小走りを続ける。道すがらすれ違う人は、私の顔を見て何を思っただろう。きっと、トマトみたいな色彩を破裂させた頬でびっくりさせてしまったと思う。

 まぁ、全部どうでもいいけれど。

 やがて菜橋の背中はほぼ等身大となったとき、「あの!」自分でも張り上げすぎたと放ってから後悔するくらいの声量で喉を震わせた。

「……え?」

 くるりと、菜橋がこちらへと振り向く。

 そのときにはすでに、さっきまでの雪解けは再び凍土に埋まってしまって、『いつもの菜橋さん』に戻っていた。

 舌が急速に渇いていくのを実感する。それでも、手に握る栞だけはなんとか前へ突き出した。

「これ、落としてたよ」

 つっかえながらも言葉を紡いで、半ば強引に栞を彼女の手元に握らせる。あとは「それじゃ」と去り文句を口にするだけだ。

 と、思っていたのに。

 手渡されたものを見下ろしつつ、私の方を窺う菜橋。

 カチリと目が合って、一瞬間が空いた後。

「ありがとう、久野」

 口にしたのは、なぜか私の苗字だった。

「え?」

 ふいに名前を呼ばれて、驚愕を唇の端から漏らす。

「あれ……久野、だよね?」

 菜橋が小首を傾げながら尋ねてくる。鎖骨辺りに伸びた毛先が、そよ風に震えていた。初めて聴くのではないかという彼女の声色は、『清澄』の言葉に相応しい涼やかさとなって鼓膜を揺らす。

「合ってるけど……菜橋、私の名前覚えてたんだね」

 認知されているとは露ほどにも思っていなかった。

 でも。

「隣の席だから、流石に覚えてるよ」

 変なの。

 そう言った後、頬を緩ませる菜橋を見て。

 私は。

 ああ、やっぱり。

 

 

 

 それからは成り行きで二人並んで帰って、少しばかり話をした。

 菜橋が買った漫画のこと。チョココロネをどこから食べるのか。

 教室で友達と話しているときと、毛色を同じくした会話。それでも、普段とは異なる感情の動きが口元を強張らせる。

 上手く話せているだろうか。どれだけ心配しても、鏡がないから確認できない。

 今の私にできるのは、この時間ができるだけ長く続くよう祈るだけだった。

 

「また明日」

 

 気が付けば、自宅の前に辿り着いてしまった。

 背を向けながら夕日に染まる住宅街を進む菜橋に手を振りながらそう言うと。

 

「うん、また」

 

 教室と放課後の中間。そんな表現が似合う微笑みがこちらを振り向く。

 不器用な所作で手を振り返してくる菜橋が、綺麗で。

 好きだな、なんて。

 口には出さず、思ったのだった。

 

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ささいな融解は夕暮れと共に 飯田華 @karen_ida

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