第30話 胸の痛み


 空が暗色に染まった頃。


 明生あいの住む街が一望できる非稼働の灯台も、闇に包まれていた。


 だが、その足元にいる薄紅梅うすこうばい色の狩衣かりぎぬまとった男は、まるで蛍のようにぼんやりと光を放ちながら──同じように光を放つスーツの死神に近づいていった。


「待たせたな」


 柊征しゅうゆがそれだけ言うと、南閣なんかくは覚悟を訊ねる。


「腹は括ったか?」

「……ああ」

「……家族を手放すのは辛いだろうが……これも彼女のためだ」

「わかっている。このまま放っておけば、明生自身が力に飲み込まれてしまうだろう……だが、そうはさせない」

「それで、彼女は今どうしているんだ?」

「自室で寝ている」

「こんな時間にか? まだ八時半だぞ」

「体に負担がかかっているのか……眠る時間が日に日に長くなっている」

「それは……急いだほうがいいな」


 南閣が難しい顔で呟いた時、今度は翡翠ひすい色の狩衣かりぎぬまとった男が現れる。


 肩で息をしながら現れた金了は、柊征や南閣に向かって声を上げた。


「──待て!」

「金了兄さん?」

「……本当に……明生の力を封印するのか?」


 不服そうに訊ねる金了に、柊征は大きな目を伏せて告げる。


「――ああ。お前もわかっているだろう? 今の明生がどういう状態か」

「けど……俺たちのことを忘れるなんて」

「兄さんの気持ちもわかるが、明生のためだ」

「お前はどうしてそんな冷静でいられるんだ? 長い間一緒に暮らしてきたくせに」

「だからだ。俺は誰よりも明生に幸せになってほしいんだ」

「けど……このまま明生を一人にするなんて……可哀相すぎるだろ」

「そうだな……あいつを一人にするのはさすがに辛い。だから南閣、お願いがあるんだ」


 柊征が真っ直ぐ見つめると、南閣は複雑な顔で話を訊いた。






 ***





 

明生あい、早く起きなさい」

「うーん、もうちょっとだけ」


 いつも通りの朝。


 低くて穏やかな声に起こされるけど、その優しい声のせいで余計に眠くなって──私、明生はベッドで寝返りをうつ。


「遅刻するぞ」

「え? ヤダ、今何時?」


 布団にくるまったままパチリと目を開けた私の背中で、さらに低い声が響く。


「ご飯は出来ているから、早く食べなさい」

「うん」 


 そして声の主は私が身を起こす前に部屋から出ていった。




「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよう。やっと起きたか」


 私は佐東明生さとう あい、十六才の高校一年生。


 早くに両親を亡くした私は、優しいお兄ちゃんと二人で暮らしていた。


 そんな私はよく周りから可哀相とか言われたりするけど、私自身はそんなこと、全然思ってないんだよね。


 だって、私には優しいみなみお兄ちゃんがいるんだから。


「今日から部活だろう? こんな時間まで家にいて大丈夫なのか?」


 カウンターキッチンから顔を覗かせるお兄ちゃんだけど、その手元から怪しい煙が立ち上っていて──私は煙に釘付けになりながら答える。


「うん、大丈夫だよ。今日は朝練ない日だから」

「そうか」

「それより、目玉焼き……今日もよく焦げてるね……」

「作り直すか?」

「いいよ。焦げてるところだけ取って食べる」


 私のお兄ちゃんは、ちょっと不器用なところもあるけれど、頭がよくて頼り甲斐のある自慢のお兄ちゃんである。

 

 けど、料理だけは苦手なので……実は私もこっそり料理を練習していた。


 いつもお兄ちゃんに甘えっぱなしじゃ、よくないよね。


 だから私がいつか美味しい料理を作って、お兄ちゃんを驚かせてやるんだ。


 ――なんて思ってるけど、お兄ちゃんに似て不器用な私だから、いつになることやら……。


「じゃあ、行ってくるね」

「ああ、気を付けていきなさい」


 そして私はお兄ちゃんに帰宅時間だけ告げると、勢いよく玄関を飛び出した。






 ***






 ──二週間前の夜。


 灯台の足元で柊征しゅうゆ南閣なんかくにした頼み事とは、〝明生とともに生活してほしい〟というものだった。


「なんだと? 俺が明生さんと?」

「ああ、そうだ。これからはお前が一緒に暮らしてやってほしいんだ」

「そうは言うが、俺は他者と暮らしたことなんて……」

「図々しい願いだということはわかっている。だが、他に頼れる奴がいないんだ」

「断罪者が人間と同居するなんて、聞いたことがない」

「もし仮に明生の封印が解けた時は、お前ならすぐに対処できるだろう?」

「……それは、そうだが」

「教師に擬態していたくらいだ、明生の兄なんて簡単だろ?」

「だが、しかし……」

「頼む……お前しかいないんだ」

 

 深く頭を下げる柊征に、南閣が黙り込むと──そこにいた金了も頭を下げる。


「俺からも頼む」


 強引ではあったが、断罪者しか頼れない二人の神を不憫に思ったのか、南閣は渋々頷いたのだった。




 二週間前のことを思い出しながら洗い物をしていた南閣は、柊征や金了のことを思いながらため息を吐く。


「これで……本当に良かったのか?」


 明生の記憶を改ざんすることで、元通りのような生活を送ってはいるもの──南閣はどうしてか、切なさのようなものを感じずにはいられなかった。






 ***






「おはよう、ニキ」


 教室に入るなり手を上げると、筋肉が大好きな長髪の女の子がこちらを見て微笑む。


「おはよう明生」


 私が席に着くと、ニキは私の前の席に座って話し始めた。


「ねぇ、聞いた? 担任の先生、無事出産したらしいよ」

「じゃあ、お兄ちゃん……じゃなくて、南先生はどうなるの?」

「出産したばかりだから、まだとうぶんは佐東先生じゃない?」

「そっか」

「明生、毎日家で顔を合わせてるのに、学校でも会いたいの?」

「うん……なんでかわからないけど、お兄ちゃんの顔を見ると……私……」

「?」

「ううん……私の自慢のお兄ちゃんだし、学校で会えるのも楽しいよ?」

「明生はほんとにブラコンだよね。でもあんなお兄ちゃんがいたら、ブラコンにもなるよね」

「そうだよ、カッコいいお兄ちゃんが悪いんだから」


 当たり前のように笑う友達、当たり前のように始まる授業、当たり前のように過ごす日々。



 ……なんでだろ……幸せなはずなのに、何かが足りない気がするのは。



「明生? どうかした?」

「ううん、なんでもない」


 ふいに、ニキが心配そうに顔を覗き込んでくる。


 いつの間にか、授業が終わっていたらしい。


 私は教科書を片付けながらも、やっぱり頭の片隅で何かが引っかかっていた。


 私の毎日は充実しているはずなのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。


「季節的なものかな?」 


 生活の全てが順調にもかかわらず、何かが欠けているように思えて──胸の奥がくすぶりながらも、私はいつも通りニキに笑顔を返していた。






 ***






「ムムム……」


 明生あいが学校から帰宅した頃。


 木下きのした家では、小さな神様がソファで頭に手を乗せて唸っていた。


「どうした、甚人じんと


 神通力を使って転校したかざりも、同じように帰宅していたわけだが──文が声をかけると、甚人は顔を真っ赤にして踏ん張りながら答える。


「……今、声が聞こえたような」

「声?」

「……気のせいだろう」


 そう言って、ほっと息を吐いた甚人はソファに座り込む。


 そんな甚人を観察していた文は、「そういえば」と思い出したように口を開く。

 

「お前の名前、変えたほうがいいよな」

「どうしてだ?」

「明生と繋がる可能性があるからだ。俺が名前を付けなおしてやるよ」

「……嫌だ」

「なんだと?」

「私はこの名前が気に入ってるんだ。放っておいてくれ……どうせ明生と繋がったところで、明生は私のことを覚えていないから、いいだろう」

「まあ、そうだけど」

「それより、明生の話をするのはやめたんじゃないのか?」

「……うるさい」

「未練たらしい男だな」

「当たり前だろ、俺は明生が好きだったんだ」

「可哀相だな」

「そうだ。明生は可哀相だ」

「違う、金了も柊征しゅうゆも、会いたい人に会えないなんて」

「それは明生だって同じだ」

「だが明生はお前たちのことを忘れている。なのにお前たちだけ覚えているなんて、地獄だな。どうして一緒に記憶を消してもらわなかったんだ?」

「それは……俺が明生を忘れたくないからだ」

「可哀相だな」

「ああ、自分で自分が可哀相だ」

「違う、明生がだ」

「……」

「明生も忘れたくなかっただろうに、封印の選択をさせてもらえなかったんだ」

「だが、あの時はああするしかなかったんだよ──もう、明生の話はやめてくれ」

「わかった。明生の話はもうしない」

「それより柊征のやつはどうしているんだ? あいつ、俺の前からも姿を消しやがって……」

「柊征は金了に悪いことをしたと思っているんだ」

「あいつは本当に、水臭いやつだな」

「仕方ない……私が柊征を見つけてくる」

「見つけてどうするつもりだ?」

「一緒に暮らすんだ」

「はあ!?」

「私はまた、以前のような楽しい日々を送りたい」

「明生がいないなら、楽しい日々なんて送れない」

「それでも私は、柊征を探しに行く!」

「勝手にしろ」

「ああ、勝手にする」






 ***






「今日からコーラス部の朝練かぁ……朝起きるのはきついけど、嬉しいな」


 私は新しく始まる部活動に胸を躍らせながら公園の脇を通りすぎようとするけど──


 なんとなく気になって、誰もいない公園のブランコを漕ぎ始める。


「どんな歌を歌うのかな?」


 よくわからない胸の痛みを忘れられたのは、久しぶりだった。


 けどそんな時、離れたベンチで、古風な衣装を着た女の子を見かけた。


 ──さっきまで誰も座ってなかったのに、いつの間に?


 なんて思っていると、白拍子みたいな衣装を纏った女の子は立ち上がって公園から出ていった。


「今の人、どこかで見たことあるような?」

 

 私より少し背の高い後ろ姿。


 一瞬で消えたその人のことが、私はその後も気になって仕方がなかった。




「……あの女の子、どこかで見たことあるような」

 

 ──翌朝。


 いつもより少し早く登校した私が、教室で一人呟いていると、私の机にニキがやってくる。


「どうしたの?」

「うん、ちょっと。気になることがあって」

「ふうん。明生にもいよいよ春が来たか」


 茶化して笑うニキを、私は横目で睨む。


「そういうんじゃないよ」


 けど──


「でも、明生にはいるもんね」

「え?」

「あれ? 明生には……誰かいたよね?」


 ニキがおかしなことを言い始めて、私は目を丸くする。


 ……誰かいるって、誰のことだろう?


 私には男の子の友達すらいないのに……。


「なんのこと?」

「あれ……誰だっけ……明生には誰かいた気がするんだけど」

「ニキと違って、私には誰もいないよ」

「そうだよね。うん……」

「変なニキ」


 ……なんだろう、このモヤっとした感じ。


 ニキの言うことはおかしいはずなのに、なんだか核心を突かれたような不思議な感覚がして、薄れていた胸の痛みが、再び疼き始めてしまった。



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