第46話 額飾り--後編--

 もう何十年も前になるが、ファウスティナは今のアグレウスと同じ状態になっている者を見た事がある。

 ファウスティナの母アンゲラだ。

 彼女は姑のセンプロニアがいつまでも公爵家の主としての実権を握っているのを疎ましく思い、自分の侍女にその事で愚痴をこぼしたのだ。

 その侍女は彼女の生家から付いて来た女だったので、アンゲラはその侍女は当然自分の味方だと思っていた。

 だがそれは思い違いだった。

 センプロニアは残酷なまでの峻厳さと狡猾なまでの手管を弄して、公爵家に仕える全ての召使を支配下に置いていた。

 その侍女はアンゲラの味方どころか、彼女を監視する為のセンプロニアの間者と化していたのだ。


 侍女から密告を受けたセンプロニアは、様々な方法を駆使してアンゲラに圧力をかけた。

 アンゲラが侍女に裏切られた事、公爵家に自分の味方など一人もいないのだと気付くまで、そう長くはかからなかった。

 そしてある舞踏会の折、公爵家の召使だけでなく公爵家に出入りする貴族たちの全てがセンプロニアの協力者であり、自分が完全に孤立していてたった一言の失言のせいで破滅に追いやられようとしているのだと思い知り、過呼吸の状態に陥ったのだ。


 ファウスティナは過呼吸という言葉と対処の仕方を、その時アンゲラの手当てをした典医から教えられた。

 だがその時ファウスティナが学んだもっと重要な事は、祖母センプロニアには絶対に逆らってはならないという戒めだった。



 程なくアグレウスの呼吸は落ち着いたが、顔色は蒼褪めたままだった。

 無言で、視線を逸らしている。

 侍女の前で動揺を見せてしまった事で誇りが傷ついているのだろうとファウスティナは思った。

 ――ここは上手くやらなければ、却ってアグレウス様の反感を買うだけよ

 内心で自身に言い聞かせ、ファウスティナは作り笑いを浮かべる。

「どうぞ、ご安堵召されますよう。私は――いえレオポルドゥス公爵家は――何があろうと東宮様のお味方でおります」

 ファウスティナの言葉に、アグレウスは口を噤んだまま相手に視線を向けた。

 ファウスティナがおもんぱかった通り、侍女の前で動揺を見せるという醜態を晒した事を非常に苦々しく思い、どうにか対処しなければならないと考えていたのだ。

 そのアグレウスを宥めるように、ファウスティナは言葉を続ける。

「言葉だけでない確かな証拠と、女皇陛下のお考えを改めて頂ける方策がございます」

「……何だ?」

 短く、アグレウスは訊いた。

 ファウスティナは最上級(と自分では思っている)笑みを浮かべる。

「私を、東宮妃に選んで頂ければ良いのです。そして、女皇陛下がご婚礼の折に身に付けられた額飾りを、お祝いの品としてご所望なされば」


 アグレウスは暫くそのまま口を噤んでいた。

 そして、自分と同じ色の右の瞳と、オリアスと同じ色の左の瞳を交互に見つめる。


「…これはそなたの策か」

 やがて口を開いたアグレウスの言葉に、ファウスティナは動揺しなかった。

 アグレウスを篭絡し皇太子妃の位を手に入れる為にどうすべきか、このひと月の間ずっと策を練っていたのだ。

 フレイヤから額飾りの準備を言いつけられたのはその日の昼頃だったが、母親が子供の結婚に際し、自分が婚儀の時身に着けていた品を娘や息子の正室に贈るのは王族では一般的であり、多くの由緒ある貴族もそれに倣っているので、指示を受ける前から予測していた。

 そして、フレイヤがその母から譲り受けた額飾りは二つあり、ヒルドに贈るのはスリュムとの婚礼では使だ。

 王族が婚礼で身に着けた品の重要性を考えればそれは当然の事であり、だから婚礼で使った方をフレイヤが贈ろうとしていると言えば、アグレウスが反論するだろうとファウスティナは考えていた。

 そして自分が策を弄している事が気づかれる可能性も充分にあると予測し、その対策も練ってあった。

 元より策を弄したと気付かれる事は問題では無い。

 重要なのは、自分がアグレウスの側に立っているのだとアグレウスに納得させられるかどうかだ。

 アグレウスの妃候補は自分とエレオノラしかいないのだし、アグレウスもレオポルドゥス公爵家を敵に回したくは無い筈だという自信がファウスティナにはあった。


「もしも私が策を弄するといたしましたら、それは全て東宮様の御為でございます」

「…由緒ある額飾りをオリアスへの祝いの品に加えると、それを進言したのも私の為…か?」

 アグレウスの言葉に、ファウスティナの顔から笑みが消えた。

 フレイヤが自身の婚礼で身に着けていた額飾りをオリアスの妃に贈ろうとしているなどと、アグレウスが信じるとは思わなかったのだ。

 首飾りや腕輪のような品ならばともかく、額飾りは王族に取って王冠に準じる格の高い宝飾品だからだ。

 だからそれが事実だと信じたなら、アグレウスがあれ程までに動揺したのも納得がゆく。

 だが一体なぜ、アグレウスはそんな話を信じたのか…?


 ファウスティナが想定していたのは、アグレウスは自分の嘘をすぐに見抜き、その裏に何があるか腹を探ろうとする事だった。

 すぐに見抜かれるような嘘であれば、嘘を吐いた事が咎められまいという計算もあった。

 その一方で、フレイヤがアグレウスよりもオリアスに多くの愛情を注いでいるのは宮中の奥向きに仕えている者たちの間では公然の秘密で、オリアスが気ままな言動を許されるのはそれが理由の一つでもあると、誰もが口にはださぬままに思っていた。

 だからファウスティナは、その事を仄めかしてアグレウスにやんわりと揺さぶりを掛けるつもりだった。

 フレイヤが婚礼で身に着けた額飾りをヒルドに贈ろうとしていると嘘を吐いたのは、その為だ。


 ファウスティナは再び作り笑いを浮かべた。

 そしてその表情とは裏腹に、内心では戸惑い、迷っていた。

 詳細は判らないが、フレイヤとアグレウスの間には何らかの問題があるようだ。

 いくらフレイヤがアグレウスよりオリアスを慈しんでいるとは言えヘルヘイムの君主としての立場は弁えている筈であり、婚礼という重要な儀式に際して王冠に準じる宝飾品を贈るのにいたずらに私情を差し挟んだりはしない筈だ。

 ――これはただ事では無いわ。アグレウス様の動揺の仕方も異常だし、何かとてつもない事が起きていたとしか…

 ファウスティナは後悔していた。アグレウスの反応が、余りに予想外だったからだ。

 一旦は驚くだろうが、冷静で聡明なアグレウスであれば、すぐに嘘を見抜くだろうと考えていたのだ。

 だがもう後戻りは出来ないし、何かがあってアグレウスの立場が危うくなっているのなら、猶更レオポルドゥス公爵家の力を必要とする筈だ。


「レオポルドゥス公爵家は、何があろうと東宮様のお味方でおります」

 同じ言葉を繰り返したファウスティナを、アグレウスは黙って見遣った。

 激しい動揺はすっかり鎮まり、却って平素よりも沈着な心持になっていた。

 ――女官に進言されたからとは言え、母上がそれに左右されたりはしない筈だ。母上があの夜の事をご存じで無い限り、皇太子妃に贈るべき品を第二皇子の妃に贈ったりはしない筈…

 アグレウスは、オリアスの婚約を自分に伝えた時のフレイヤの様子を思い起こした。

 あの時、フレイヤは嬉しそうにおっとりと微笑んでおり、内心に憤りを秘めていたとは到底、思えない。

 ――何より、私とオリアスの間にいさかいがあるなどと知れば母上はひどく悲しまれるに違いない。そして母上を悲しませるような事を、オリアスが知らせる筈がない――


 冷静に考えれば、最初からあり得ない話だったのだとアグレウスは思った。

 そしてそれに気づけなかったのは、オリアスを激怒させるような真似をしてしまい、結果として大きな後ろ盾を失う窮地に陥り、どうにか手を打たなければならないと、このひと月の間ずっと思い悩んでいたからだ。

 ――よもやこの女、何かを知っているのか…?

 その疑念に、アグレウスは微かに眉を潜める。

 ヒルドがあの日、ヘルヘイム皇宮を訪れていた事は、宮中護衛兵や侍従など少なくない数の者が知っているが、あの夜何があったか知っているのは二名の奥侍女のみだ。

 いずれもドロテアの縁者でドロテアの推薦でアグレウスの侍女となっており、口の堅さは折り紙付きだ。

 当のドロテアはヨトゥンヘイムで得た病が未だ癒えておらず実家で養生しているが、皇宮での影響力は失っていない。

 ――この女が何かを勘付いているとは思えぬし、例え何かを知っていたとしても、目的は私の妃の座以外にはあるまい


 そこまで考えて、フレイヤが自分の婚礼で身に着けた額飾りをヒルドに贈ろうとしているというファウスティナの言葉が嘘だったのだとアグレウスは気づき、ひどく不快になった。

 そしてその不快感は、ファウスティナより自分自身に対しての方が強かった。

 冷静でありさえすればすぐに見抜けた筈の嘘を信じ、侍女の前で動揺するなどという醜態を晒してしまったからだ。

 だがそれでも救いはあった。

 このひと月の間、思い悩んでも出せなかった答えを、ファウスティナはもたらしたのだから。


「そなたは知らぬだろうが」と、アグレウスは口を開いた。

左右で色の異なる瞳ヘテロクロミアを好ましからざる血族結婚の繰り返しの結果と見做して忌み嫌う者が、上流貴族の中にも存在する」

「――は……?」

 ファウスティナの顔から作り笑いが消え、心底意外そうな驚きの表情に変わった。

 それはアグレウスの予想通りではあったが、これまで無表情か作り笑いしか見せた事の無いファウスティナの唖然とした顔に、アグレウスは冷笑を浮かべた。

「そなたと園遊会で初めて会う直前に、ドロテアからそなたの瞳をよく見ておくよう、言われたのだ」

「ドロテア様…あの、アグレウス様の乳母をなさっておられた、あのドロテア様…?」


 驚愕の余り、ファウスティナは表情を取り繕う事もせずに訊いた。

 色違いの瞳は高貴な血統の証だと祖母に教えられていたし、祖母も父も左右の瞳の色合いは僅かだが異なっている。

 はっきりと色の異なる瞳はファウスティナの自慢だし、知り合いの貴族たちも皆、褒めてくれる。

 それなのに同じように由緒ある貴族で、それもアグレウスに強い影響を及ぼしたであろう乳母がこの『高貴な瞳』を忌み嫌っているだなどと、夢にも思わなかったのだ。


「乳母の嗜好や考え方というものは、少なからぬ影響を養い子に与えるものだ」

 淡々とした口調で言ったアグレウスを、ファウスティナは呆然と見つめた。

 終わりだ――と、ファウスティナは思った。

 今まで自分とエレオノラは対等な妃候補だと信じていた。

 だが乳母に毛嫌いされていたのならば最初から候補ですら無かったのだし、そんな事とはつゆ知らずアグレウスに揺さぶりを掛けようなどと、無謀な真似をしてしまった。

 レオポルドゥス公爵家という後ろ盾と、女皇フレイヤの女官という立場に守られて非礼を罰せられる事こそ無いだろうが、皇太子妃に選ばれる可能性は限りなく無に近く、そうなれば「レオポルドゥス公爵家から国母を挙げる」という祖母の悲願も叶わなくなる。

 ――こんな事がおばあ様に知られたら、私は……

 センプロニアの怒りを買い、多くの貴族が集まる舞踏会で過呼吸を起こすほど追い詰められた母アンゲラの姿が、ファウスティナの脳裏に蘇った。

 あの時はまだ幼かったので母が死んでしまうと不安に駆られて泣き叫んだが、「人前ではしたない」と、後で祖母にひどく叱られた。


「だが」と、真っ青になって震えるファウスティナを冷たい湖を思わせる瞳で見据えながら、アグレウスは言った。

「私はもう幼い子供では無いし、自分の妃は自分の意志で決める」

「……」

 何も言えぬまま、ファウスティナはアグレウスを見つめ返した。

「そなたのような瞳の持ち主は上流貴族の間でも評価が分かれる故、将来の皇后に相応しいとは言い難いが」

 そこまで言って、アグレウスは一旦、言葉を切った。

 ファウスティナは瞬きもせずにこちらを見つめている。

 侍女なぞの前で動揺してしまったのはこの上も無く不快だが、そのきっかけをもたらしたファウスティナの狼狽ぶりを見ていると溜飲が下がる。

「私がまだ幼かった頃の話だが、母上には左右で色の異なる瞳を持つ女官がいた。私が生まれるずっと前から、長く母上に仕えていたそうだ」

「――では…」

 縋るような表情で、ファウスティナは喉から声を絞り出した。

「母上がご許可なさるのであれば、そなたを私の妃に迎える事に、何の問題も無かろう」


 アグレウスの言葉に、ファウスティナはその場に崩れるように座り込んだ。

 一気に緊張の糸が切れ、立っていられなくなったのだ。

 まだ正式な婚約者では無いのだから侍女である事に変わりは無く、皇太子の執務室の床に座り込むのは少なからず礼を失した振る舞いであるとアグレウスは思ったが、敢えて咎める事はしなかった。

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魔性伝 BISMARC @bismarc

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