第36話 波及

「アルヴァルディ様のお気持ちはよく判るけれど、あのドロテア殿には余り同情する気持ちが湧かないわ…」

 ドロテア達が釈放された翌日、ヴィトルの母ベイラが、独り言のように呟いた。

 ベイラはオリアスの乳母を務めた後、そのままオリアス付きの侍女となって王宮に仕えている。

 その日は病床のオリアスの世話をした後、王宮内の宿舎に戻る途中の廊下でヴィトルとすれ違い、オリアスの容態などを二、三話した後、何気なくそう呟いたのだった。

「それはどういう意味です、母上?」

 ヴィトルの問いに、ベイラは話すかどうかやや躊躇ってから、口を開いた。

「これはあくまで私見なのだけれど、スリュム様とアグレウス様の仲がああなってしまったのは、あの方にも責任の一端があるのではないかと…」

 周囲に誰もいないのを確かめてから、声を潜めてベイラは言った。

「今はおくびにも出さないけれど、初めてヨトゥンヘイムに来た時のあの方は、明らかにスリュム様やギリング様たちを恐れているように見えたのですよ」


 ドロテアが初めてヨトゥンヘイムに来たのは、生後数ヶ月のアグレウスが初めてヨトゥンヘイムを訪れた時でもある。

 赤子のアグレウスはスリュムの姿を恐れたのか火がついたように泣き出し、スリュムは大いに不満そうだった。

 ヴィトルはその頃、文官として王宮で仕えていた。


「赤子というのは周囲の大人の感情を敏感に察知するものなのです。ましてや乳母ならばなおさら強く影響を受けるでしょう」

「ですがあれは、アグレウス様が赤子の時の話ではありませぬか?」

「あの後も何度か、スリュム様はアグレウス様をヨトゥンヘイムに来させるようにとヘルヘイム側に要請なさったのですよ。でもそれが実現したのは何年も経った後の事で…。私はてっきり、フレイヤ様が反対なさっているものと思っていたのですが」

 これはあくまで噂なのだけれどと、ベイラは続けた。

「スリュム様からの要請があるたびに、ドロテア殿が何かと理由をつけてそれを断るよう、フレイヤ様に進言していたとか。それで結果として、アグレウス様が成人なさるまでに父君とお会いになったのは、赤子だった時を含めてもたった二回だけになってしまったのです」

 たとえ血が繋がっていても、それだけしか会わなかったら親子の情が湧かなくても無理はないと、ベイラは嘆いた。

「それにそなたも知っての通り、あの方は感情というものを殆どおもてに表さない。それがヘルヘイムの由緒ある貴族の嗜みというものらしいのだけれど、そんな乳母に育てられたら――」


 そこまで言って、ベイラは言葉を切った。

 そして息子の顔を見、苦笑する。


「余計な事を言いました。忘れておくれ。アルヴァルディ様への呪いが解けた事があまりに嬉しくて、少し平静さを欠いていたようです」

「お気持ちは判ります」

 微笑して、ヴィトルは言った。

 オリアスが倒れて以来、ヴィトルは殆ど眠れぬ夜を過ごしていたが、それはベイラも同じで、心痛のあまり寝込んでいたのだ。

「母上がお世話した若君が、聡明で勇敢で、非の打ち所のない王太子にお育ちになられたのを誇りたいのでしょう?」


 ヴィトルにしては珍しい軽口に、ベイラは満更でもない表情で笑った。

 二人ともずっと心労が続いていたので、安堵から気が緩んでいたのだ。


「ただ…」と、やや眉を曇らせて、ベイラは言った。

「アルヴァルディ様はとてもお優しい。そして、誰に対してもお優しい。だから父君と兄君の不和に憂慮なさるだけでなく、ドロテア殿が拷問を受けた事にまで御心を痛められて…」

 ベイラは窓から外に視線を転じた。

 そこには、オリアスが生まれた時にそれを記念して植えられた木々が生い茂っている。

「でも君主には時には、スリュム様のように実の我が子に嫌疑をかけるような非情さが必要になる事もあるのです。アルヴァルディ様の優しさが、災いを招くような事が起きなければ良いのですが…」

「もしもアルヴァルディ様の身に災いが降りかかる事があれば、私がお守りするだけです」

 確固たる口調で、ヴィトルは言った。

 戦場でのオリアスの勇猛振りを知っているヴィトルは、母が言うほどオリアスが『誰に対しても』優しいとは考えておらず、母の心配は杞憂だと思ったのだ。

 ベイラは再び息子に視線を戻し、微笑して頷いた。



 同じ頃ヘルヘイム皇宮の一室では、第一王子ザガム、側近のハーゲンティ、ザガムの妹の夫で宮中護衛兵の長官でもあるエリゴスの三者が額を集めていた。

 エリゴスはヒルドがスリュムの密使としてヘルヘイムを訪れた時に部下から報告を受けて異常事態だと判断し、それをザガムに知らせると共にアグレウスの動きを密かに監視していた。

 その結果、判ったのは、アグレウスが密使の来た翌朝に侍医をヨトゥンヘイムに派遣した事と、その三日後にがヨトゥンヘイムに向かった事だった。

「その『何者か』の正体は判らぬのか?」

 ザガムの問いに、エリゴスは首を横に振った。

「アグレウス様は侍従に命じてその者を探し出し、ヨトゥンヘイムに遣わしたらしいとしか判明しておりませぬ。ただ、そのように厳重に隠した点を鑑みるに、表向きには出来ない素性の者であるのはまず間違い無いかと」

「…父上がわざわざ侍医を遣わしたのだから、叔父上がご病気なのだろうが、その『何者か』の正体が気に掛かる」

「もしかしたら、魔導師かも知れませぬ」


 思案顔で腕を組んだザガムに、低くハーゲンティは言った。

 ザガムは驚きに目を見張る。


「魔導師だと? 平民の依頼を受けて呪詛や調伏を行うという、あの…?」

「オリアス様の身に何事か異変が起きたのは確かでしょう。侍医に続いて正体不明の何者かが送り込まれたという事は、病のような容態でありながら、医師では治癒できぬ状態であったと考えられます」

「まさか…呪詛だと?」

 エリゴスの言葉に、ハーゲンティは重々しく頷いた。

「つまり何者かが叔父上を呪殺しようと企み、その呪詛を破る為に父上が魔導師を遣わしたと言うのか…?」

 不安に表情を強張らせ、ザガムは呻いた。

「しかしあの叔父上を呪殺しようなどと、一体、誰がそんな恐ろしい事を……」


 ザガムの言葉に、エリゴスもハーゲンティも答えなかった。

 ただ、黙って互いに顔を見合わせる。

 二人は相手の表情から、自分と同じ考えでいるのを見て取った。


「…ヨトゥンヘイムから密使の来た晩、アグレウス様はレオポルドゥス公爵、マクシミリアヌス公爵とのご会食の席を設けておられました。彼らがオリアス様に接近を図っているという噂を、重く見られた為と思われます」

 ザガムに向き直り、低くエリゴスは言った。

 ハーゲンティが続ける。

「もし万が一、両公爵がオリアス様をヘルヘイムの次期皇帝に擁立しようとするのであれば、アグレウス様は何としてもそれを阻止しようとなさろうかと」

 ハーゲンティの言葉に、ザガムの顔色が変わった。

「まさか、叔父上を呪殺しようとしたのは――」

 ザガムは途中で言葉を切り、首を横に振った。

「…そんな事はあり得ぬ。現に父上は、呪詛を破る為に魔導師を遣わしておられるのに…」

「これは一般論でございますが、魔導師に呪詛を命じた本人であれば、それを破るのも容易でしょう。それに呪詛と申しても必ずしも殺害を目的とするのではなく、牽制の手段であった可能性も否めませぬ」


 ザガムは表情を強張らせたまま側近の言葉を心中で反芻した。

 牽制の手段であったなら、アグレウスがオリアスに呪詛をかけさせた可能性は充分にある。

 ヘルヘイムの二大公爵が自分を差し置いてオリアスに接近する事をアグレウスは赦しはしないだろうし、自分の地位を護る為ならば、その位の事はしかねない。

 それにしても魔導師を利用するなどと、随分、思い切った手段に出たものだと、ザガムは思った。

 ――あの気位の高い父上が、魔導師などという下賎の者と係わるとは……

 意外ではあるが、考えられない事では無いと、ザガムは思った。

 アグレウスはヘルヘイム皇家の血族としての誇りを非情に大切にしているが、それ以上に自分の地位を守り勢力を拡大する事に固執している。

 そのアグレウスが下賎な魔導師を利用したのならば、それは誇りと引き換えにしてでも得る価値のある力だという事を意味している。

 忌み嫌われる存在である魔導師と係わりを持つのは確かに厭わしいし、危険も伴う。

 だが父のアグレウスですら、その存在を利用したのだ。

 ヘルヘイムでは水面下での権力争いが絶えず、女皇の嫡男である皇太子であっても、その地位が将来にわたって安泰とは限らない。

 増してや皇太子の長男ではあってもその父親から毛嫌いされている自分が何の対策も打たずにいては、何も得られないかも知れない。

 ――今までは禁忌として係わる事自体、考えなかったが、うまく魔導師を使いさえすれば、かなり大きな力を得られる筈だ――


「…強力な魔導師を味方につけるというのは、何かと役に立ちそうだな」

 やがて口を開いて言ったザガムの言葉に、エリゴスとハーゲンティは再び顔を見合わせた。

「お言葉ではございますが、魔導師などと係わりを持つのは、諸刃の剣となろうかと存じますが」

「判っておる。だが何もせずただ手をこまねいていては、何も得られまい。親王が二人減ったとは言え、まだまだ油断は出来ぬ」

 ザガムの言葉は尤もだと、ハーゲンティは内心で思った。

 アグレウスはザガムの母に対する関心を失っており、彼女が妃になれる可能性はその点から言って、極めて低い。

 しかも二大貴族の動きに警戒心を持っているようだから、どちらかを味方に付ける為、いずれかの姫を妃に迎える可能性もある。

 そうなれば側室腹に過ぎないザガムの皇位継承は、殆ど絶望的になるだろう。


 だがもし強力な魔導師を味方につける事が出来れば、それは確かに大きな武器となり得る。


「…承知いたしました。では、御言葉の通り、計らいましょう」

 但し、と、ハーゲンティは続けた。

「事は非情に慎重に、そして秘密裏に行わねばなりませぬ。それ故、時間がかかる事はお含みおき下さい」

「頼んだぞ」

 満足そうに頷いて、ザガムは言った。

 二人の様子にエリゴスは眉を顰めたくなったが、どうにか無表情を保った。



 ザガムたちが密談していた頃、グレモリーは兄フォルカスからの文を前に、溜息を吐いていた。

「どうかなさいましたか、姫?」

 おずおずした笑みを浮かべ、スロールは訊いた。

 グレモリーの夫となってからも、スロールはグレモリーを皇太子の姫として扱っている。

 初めのうちは敬意をもって接せられる事に満足していたグレモリーだが、次第にスロールの卑屈さが鼻につくようになっていた。

 スロールは妻である自分に対してだけでなく、番頭たちにも頭が上がらないのだと判ってきたからだ。

「お兄様が『面白い』話を知りたがっているのよ。何でも奥方に話して聞かせてあげたいのですって」

「それは何とお優しい」

 手紙の差出人が兄フォルカスと知って、安堵からスロールは満面の笑みを浮かべた。

「仲睦まじくお過ごしのようで、ご同慶の至りに存じます」


 マグダレナの容貌を思い浮かべ、グレモリーは微かに眉を顰めた。

 フォルカスは妹である自分の目から見ても端正な顔立ちをしており、物腰も優雅だ。

 それに引き換えマグダレナは、顔と言い身体つきと言い、子供の頃、皇宮の庭で見た蟇蛙そっくりだ。

 フォルカスの結婚式の時は自由な外出が許されない身でもあったので参列しなかったが、美貌の兄と蟇蛙のような年増女が並んで祝福を受ける姿など、どう考えても滑稽だ。

 自分の夫スロールは凡庸な外見をしているが、豪華な婚礼の衣装をまとった姿はそれなりに見られた。

 だがマグダレナのあの容姿では、どれだけ着飾っても――或いは着飾れば着飾る程――珍妙にしか見えないだろう。

 フォルカスは裕福な貴族の娘婿という立場を利用したいだけで妻に対する愛情など持っていないだろうし、それは大商人であるスロールと結婚した自分も同じだ。


「商人ならばあちこちに出かけて様々な噂話を聞く事もあるだろうから、何か面白い話があったら聞かせて欲しいのだそうよ」

 グレモリーの言葉に、スロールは思案顔になった。

 当主であるスロールは自身が行商に出る事は無いが、配下の商人たちから報告は受けている。

 確かに彼らは広く旅をして珍しい品、貴重な品などを売り買いしているが、危険は多くとも面白い話など早々、聞かない。

「残念ながら、特にこれといった面白い話は思い浮かびませぬ。噂などは色々と耳にしておりますが…」

「例えば?」

 投げやりな口調で、グレモリーは尋ねた。

 フォルカスから『秘密』を打ち明けられていなかったら、こんな依頼は無視していただろう。

「ヨトゥンヘイムのオリアス様が、暫くご病気だったようです」

「オリアス叔父様が?」


 意外に思い、グレモリーは訊き返した。

 殆ど無表情で平坦な喋り方をするアグレウスに比べ、オリアスは朗らかで活発で、健康的なイメージだったからだ。


「何でも二十日ほど視察に御出でになる事が無かったそうで、その間、豪族や家臣との会議にも出席なさらなかったらしいとの噂です。ですが、もうすっかり快癒なさったとか」

「…回復なさったのなら良かったわ」

 幾分か上の空で、半ば独り言のようにグレモリーは言った。

 ――お兄様が今この時期に噂話など聞きたがった事に、何か意味はあるの? まさかオリアス叔父様のご病気と何か関係が…?

 フォルカスに秘密を打ち明けられた時の事を思い出し、背筋が薄ら寒くなるのをグレモリーは覚えた。

 かつての兄は何の野心も持たない腑抜けに見えたが、それは偽りの姿だったのだ。

 ――お兄様、一体…何を企んでいるの?

 確かめなければならないと、グレモリーは思った。

 何も知らぬまま巻き込まれる事だけは、絶対に避けなければならない…と。

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