第30話 動乱の幕開け

 その日、オリアスはいつものようにヴィトルから領内の様々な出来事について報告を受けていた。

 円形闘技場の建設はおおむね順調だったが、中断された武術競技会に関する不満が想定よりも大きく、負傷者に見舞金が支払われたものの、スリュムが言っていた通り、活躍の場を求める戦士たちの欲求不満は、金では解決できそうに無かった。

「もう一度、使用する武器や規則を見直して、遠くない内に競技会を再開する必要がありそうだな」

 手に持った書類に目を通しながら、半ば独り言のようにオリアスは呟いた。

 ヴィトルは黙したまま頷いて同意を示した。


 オリアスは執務室の中央に近い位置に窓を背にして立ち、書類を読み進んでいた。

 ヴィトルは部屋の入り口近くに控え、主の命を待った。

 それは百数十年の長きに亘って繰り返されたなじみの光景であり、これからも数百年、数千年と繰り返されるであろう日常であった。

 風が中庭にある木々の葉を打ち鳴らして吹きすさび、ヴィトルは開け放たれた窓から外を見遣った。

 それらの樹のうち幾本かはオリアスが生まれた時にそれを記念して植えられたもので、オリアスと共に成長してきた。


 オリアスが生まれたのはヘルヘイムの皇宮なので、ヨトゥンヘイム王宮に初めて来たのは生後三ヶ月の事だ。

 ヴィトルがオリアスに初めて会ったのも、その時だった。

 その頃のオリアスは雪のように白い肌をした小さな赤子で、『こんなに小さくてちゃんと育つのか?』というのが、スリュムの発した第一声だった。

 オリアスの乳母となる事を命じられたヴィトルの母ベイラがオリアスを抱き上げ、スリュムにも抱くように促した。

 赤子の小ささに躊躇うスリュムを、オリアスは明るい翠の瞳で見上げ、そして微笑わらった。

『ふむ…笑いおったわ』

 言って、スリュムは満足そうに相好を崩した。

 同じように生後数ヶ月で初めてスリュムに引き合わされたアグレウスが、スリュムやギリングたちのいかつい外見を恐れたのか、火がついたように泣き出したのとは対照的だった。

 そしてそれは二人の赤子の命運を分けるかのような、象徴的な出来事だった。


 カサッ……と微かな音がして、ヴィトルは追憶から現実に引き戻された。

 オリアスの手にした書類が床に落ち、幾枚かは窓からの風に吹かれて宙を舞っている。

 オリアスの長い黒髪が風に嬲られ、瞼がゆっくりと閉じられた。

 足元から崩れたオリアスが倒れる姿が、ヴィトルの目にはスローモーションのようにゆっくりした動きに見えた。

「アルヴァルディ様……!」

 叫ぶと同時にヴィトルは主に駆け寄り、床に倒れる寸前で抱きとめた。


 その後のヴィトルは、自分でも意外に思うほど、冷静に行動した。

 すぐにオリアスを寝椅子に横たえて呼吸と脈を確認し、衛士に命じて侍医を呼ばせると共に、王宮の出入り口を封鎖させた。

 王宮の封鎖はヴィトルの権限を越えた越権行為ではあったが、それを躊躇する猶予のない緊急事態なのだと、ヴィトルは認識していた。

 すぐに駆けつけてオリアスを診察した侍医の診断も、ヴィトルの判断と一致した。

 ヴィトルは衛士たちにオリアスを寝所に運ばせて看護を侍医に一任すると共に、スリュムへの緊急の謁見を申し入れた。


「緊急とは何事じゃ? アルヴァルディの身に何か……」

 ヴィトルが部屋に通されると、眉を顰めてスリュムが訊いた。

 王のこんな不安そうな顔を見るのは初めてだと、ヴィトルは内心で思った。

 部屋にはスリュムの三人の庶子たちの他に、エーギルも同席していた。

 ヴィトルは深く息を吸い、それから口を開いた。

「アルヴァルディ様が、お倒れになりました。状況と侍医の診断の結果、何らかの魔術――呪いを掛けられたものと思われます」

「呪い……じゃと?」

 鸚鵡返しに、スリュムは訊いた。

 軽く頷いてから、ヴィトルは倒れる直前まで、オリアスの健康状態に問題があるようには見えなかった事、毒見を済ませていないものは何も口にしていないし、深く昏睡しているだけで毒を盛られた形跡は見られない事を説明し、犯人の逃亡を防ぐ為に自分の一存で王宮を封鎖した事を報告した。

「……魔法なんぞ使う奴はヘルヘイムにしかおらん」

 低く、憤りを込めてスリュムは言った。

「すぐにヘルヘイムから来ている者共をひっ捕らえて拷問しろ。アールヴについて来た侍女三人と、祐筆として来た五人じゃ」

「お言葉ですが、アロケルがアルヴァルディ様に呪いをかけたとは、到底思えませんが……」


 殆ど反射的に席を立って言ったのはエーギルだった。

 が、祖父と叔父たちから鋭い視線を投げかけられ、俯いて口を噤む。

 部屋を支配する強い不安と激しい憤りに、呼吸をするのも困難になるように、エーギルは感じた。

 エーギルは黙したまま席に着き、衛士たちはスリュムの命に従うべく部屋から駆け出た。


 ドロテアとその姪たち、アロケルと四名の祐筆達は即座に捕らえられて地下牢に繋がれ、拷問官が差し向けられた。

 アロケルは恐ろしい拷問道具を見て震え上がり、何も問われぬ内からヨトゥンヘイムのまつりごとと王宮の内情に関して知った全てを父のアグレウスに報告するよう命じられて、自分たち四名が派遣されたのだと自白した。

「ですが全てはヨトゥンヘイムとヘルヘイムの交流に貢献する為であって、ヨトゥンヘイムに害を為す意思など全くありませぬし、実際のところ五名全員が新任の文官の補佐役に過ぎないので、重要な事など何も知りうる立場には無いのです」

 拷問官はアロケルの告白を意外に思ったが、すぐにそれをスリュムに報告した。

 同じ頃、ヴィトルの命で足止めされたヘルヘイムへの使者がアロケルからアグレウスの文を携えていた事、その中でスリュムが庶子たちを国政会議に出席させている事を報告しているのが明らかになった。


 ドロテアの姪の一人は自分は何も知らないと泣き喚くばかりであったが、もう一人の姪は無実を主張するとともに、ヘルヘイムにいる魔導師であれば、オリアスに掛けられた呪いを解く事ができるだろうと話した。

 ヘルヘイムでは貴族以上の身分であれば、魔道具さえあれば誰でも一定の魔法が使える。

 魔導師とは主に魔法の使えぬ平民の依頼を受けて呪詛を行う事を生業なりわいにした者たちで、その行いから彼らは一般に軽蔑され、忌み嫌われる存在ではあるが、中には非常に強力な力を持つ魔導師もおり、密かに大貴族や皇族から依頼を受ける事すらあると噂されていた。


 拷問官から報告を受けたスリュムは、渋面をますますしかめた。

「犯人がヘルヘイムの奴なのは間違いないのに、ヘルヘイムに助けを求めなければならんという事か?」

「それで助かるんじゃったら、早く助けたら良いじゃろ」

 そう、ベルゲルミルは言ったが、スリュムはすぐには答えなかった。

「首謀者が誰かによっては、助けなぞ頼んでも無駄かも知れんぞ」

 言ったのはギリングだ。

「アグレウスがこっちの事をこそこそ探る為に祐筆を送り込んだのじゃったら、呪いを掛けさせた首謀者も奴かも知れん」

「じゃがアグレウスとアルヴァルディは、仲が良いんじゃなかったのか?」

 ベルゲルミルの問いに、ギリングはただ肩を竦めた。

 ――奴ならば、やりかねん……。

 内心でスリュムは思ったが、口には出さなかった。

 そして、八名に対する取調べを続ける事、王宮内に不審な動きが無かったか調べる事、オリアスの昏睡を豪族たちに気取られぬようにする事を命じた。


 ヴィトルはスリュムの前を辞した後、すぐに側近護衛官たちを集めて事の次第を告げ、宮中の捜索を命じた。

「捜索は徹底して、だが秘密裏に行わなければならぬ。表立って動けば、豪族や王宮の外に事態が漏れる事になる」

「それでアルヴァルディ様のご容態は……?」

 不安げな面持ちで、心配そうに訊いたのはヒルドだった。

「今はただ静かに眠っておられる。侍医の見立てでは、容態が急変する事は無かろうとの事だが、昏睡の原因が呪詛だとすれば、魔術の使えぬ侍医の診断では…」

 曖昧に語尾をぼかし、ヴィトルは言った。

 ヨトゥンヘイムには魔法の使える者がいないので、侍医にも呪詛に関する知識は殆ど無いのだ。

「ただの眠りの魔法のように、明日になれば目覚める、という可能性は?」

 そう、訊いたのはスルトだ。

「たとえそうであったとしても、アルヴァルディ様に――一国の王太子に何者かが、ヨトゥンヘイムの者には扱えぬ魔術をかけたという事実が問題なのだ」


 ヴィトルは側近護衛官を幾つかのグループに分け、それぞれに指示を与えて退出させた。

 後に残ったのはスルトだ。

「……どうした?」

 ヴィトルに問われ、スルトは軽く肩を竦めた。

「自分の女を売るようなマネをしたくは無いが……主君の危機とあってはそうも言ってられん」

 スルトの言葉に、ヴィトルの表情が強張る。

「何があった? 話せ」

 スルトは改めてヴィトルに向き直り、数週間前にヘルヘイムから来た行商人の娘と知り合った事、その女がオリアスの妃候補について、詳しく聞きたがっていた事を話した。

「捕えて拷問官に引き渡せ」

 ヴィトルの命に、スルトは頷き、踵を返した。



 数時間の内に、行商人の娘――名を、イレーナと言った――は父親と共に捕縛され、地下牢に繋がれた。

「何だって言うのさ!? 一体、どうしてあたしがこんな目に……」

 牢に入れられたイレーナは、拷問官の隣にスルトが立っているのを認め、食って掛かるように言った。

「しらばっくれても無駄だぞ。お前の親父は金をもらってお前を同行させただけで、お前は娘でもなければ知り合いでも無いって白状した」

 スルトの言葉に、イレーナは驚愕に目を見開いた。

「う……嘘よそんな事……! どうして父さんがそんな事を……」

 スルトは小首を傾げ、鉄格子ごしに牢内のイレーナを見遣った。

「俺だって可愛い女に痛い思いをさせたくなんぞ、無いんだ。今のうちに洗いざらい話した方が身のためだぞ」

「酷い……! 自分の出世の為に、罪も無いあたしを陥れようって言うの!?」

「無実の女を捕まえたって手柄にゃならん。お前が俺に近づいて来た時に妙に積極的だったのと、フレイヤ様一行について根掘り葉掘り訊きたがったのが不審だと思っただけだ」

「色々訊いたのはただの好奇心じゃない。あんたの事は好みだから……一目見て惚れちまったのよ」

 すがるようにイレーナは言ったが、スルトは軽く肩を竦めただけだった。

「素直に全部、話せば慈悲を願い出る余地があったかも知れんが、残念だな」

 言って、スルトは踵を返した。

「待って……!」

 スルトの後ろ姿が牢内の闇に紛れて見えなくなりかけた時、叫ぶようにイレーナは言った。

「話す……全部、話すわ…………」

 牢の土間に崩れ落ち、低くイレーナは呻いた。

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