第10話 賢者ヴィトル
ヨトゥンヘイムに来たアールヴに、オリアスは自分の側近であるヴィトルを教育係として付けた。
成人後に教育係を付けるのは異例の事だが、オリアスはアールヴが充分な教育を受けていないのだと考えていた。
ヴィトルは聡明そうな外見の通りに教養深く、オリアスが成人するまでは教育係として仕えており、ヨトゥンヘイムでは『賢者ヴィトル』の通り名で呼ばれている。
自由時間にはオリアスの依頼でベルゲルミルが相手をしていたが、危険な場所を避けろと言われているので猛獣狩りには行けず、不満を漏らしていた。
ただ、ベルゲルミル自慢の白虎や犬狼たちがアールヴにすっかり懐いたので、ベルゲルミルはアールヴに好印象を抱いていた。
アグレウスの命を受けたドロテアは自らの姪二人をアールヴの新しい侍女として選び、ヨトゥンヘイムに同行させていた。
そして四六時中、アールヴに付き添って、ヨトゥンヘイムの――特にベルゲルミルの――粗暴さからアールヴを守ろうとした。
ベルゲルミルはこれを煙たがり、飛竜に乗って飛び去ってドロテアたちから離れようとしたが、その事でドロテアはオリアスに苦情を申し入れた。
「ならばそなたも一緒にアウィスに乗って付いて行けば良い」
「お言葉ではございますが――」
「あれは大人しい飛竜だ。アールヴでも乗れる」
素っ気無いオリアスの言葉に、ドロテアは青ざめた顔で唇をわななかせていたが、やがて「御意のままに」と一礼して部屋から下がった。
ドロテアの姪たちは断固として飛竜に乗る事を拒絶したが、ドロテアはアグレウスの命を忠実に果たす為、恐怖をこらえてアウィスに同乗してアールヴに付き添った。
その結果、今度はベルゲルミルがオリアスに苦情を持ち込んだ。
「侍女の言う事など聞き流せば良いではないか。叔の兄上らしくもない」
「ギリング兄者のようにずけずけ物を言うなら構わんのだが、あの女はどうも苦手だ。やたらと持って回った言い方をして、アグレウスそっくりじゃ」
ベルゲルミルの言葉に、オリアスは軽く眉を上げた。
アグレウスとドロテアに似た点があると意識した事は無かったが、アグレウスはドロテアに育てられたのだから、物言いに似たところがあったとしても不思議では無い。
「それにアールヴが一緒だと、猛獣狩りに行けなくなる。
「だがヴィトルにアールヴの守役ばかりをさせている訳には行かぬし、アールヴは大切な預かりものだからな。信頼できる相手にしか託せぬ」
「信頼、とな?」
そう、ベルゲルミルは訊き返した。
「お前は儂が暇だと思って子守を押し付けたんじゃないのか?」
オリアスは苦笑した。
「ただの子守だけなら他の者でも事足りる。信頼しているのでなければ、こんな頼み事はせぬ」
「……そういう事ならばまあ、仕方ない」
満更でもない顔つきで、ベルゲルミルは言った。
実際のところ、王太子としての公務や属領の豪族たちとの会見で多忙なオリアスに比べれば、戦か練兵の他にする事の無い異母兄たちは自由時間が多かった。
特にこの頃ではオリアスが進めている融和政策が功を奏して反乱の起きる事が以前より大分減ったので、異母兄たちも彼らの
戦が減った結果、農地が荒れることも働き手を徴兵される事も無くなり、作物の生産が向上して市は賑わい、税収も安定した。
一方で、暇を持て余した兵士による暴行事件がたびたび起き、オリアスは対処に頭を悩ませていた。
「申し上げても宜しいでしょうか」
アールヴがヨトゥンヘイムに来てひと月ほど経ったある日、ヴィトルがオリアスに言った。
「どうした、改まって」
「アールヴ様の事で、お耳に入れておきたい事がございます」
オリアスはまっすぐにヴィトルを見、そして「どんな事だ?」と訊いた。
「この様な曖昧な事を申し上げるべきかどうか迷いましたが、お耳に入れた上でご判断いただきたく存じまして」
「構わぬ。申せ」
オリアスは言ったが、それでもなお暫くヴィトルは躊躇い、それから口を開いた。
「言葉に表すのは難しいのですが、アールヴ様にはある種の、懐かしさのようなものを感じます」
「懐かしさ?」鸚鵡返しに、オリアスは訊いた。
ヴィトルは頷いて続ける。
「母も同じ事を申しておりました。むしろ母の方が、その感じを強く受けたようです」
「それはつまり……」
オリアスは途中で言葉を切った。
それから、慎重に後を続ける。
「それはつまり、アールヴがそなた達と同じ血を引いている……という事か?」
「断言は出来ませぬが、その可能性は否めません」
オリアスはヴィトルの紫水晶のような瞳をまっすぐに見つめ、それから視線を逸らし、「だからアールヴなのか……」と呟いた。
「そうであるなら、リディアは自分の出自を知った上で隠していた事になる。そして隠していたのであれば、隠すべき理由があったのだろうな」
「御意にございます」
低く、ヴィトルは言った。
オリアスは暫く口を噤んだままでいたが、やがて「この事を他の誰かに話したか?」と訊いた。
「母に話しました他は、アルヴァルディ様だけでございます」
「ならばそのまま黙っていてくれ。少なくとも暫くの間は、誰にも
オリアスの言葉に、ヴィトルは深く一礼した。
その頃ヘルヘイムではアグレウスが侍女・侍従だけでなく、ヘレナとダンタリオンにも尋問官を差し向けていたが、みな一様に容疑を否定するだけで、捜査に進展は見られなかった。
一方、ヘレナが差し入れた菓子を侍医に調べさせたところ、残っていた菓子から毒物などは検出されず、毒見役がすぐに回復したので毒見役が口にした一つだけに毒が入っていたとしても、致死量にはほど遠かったであったろうと、報告があった。
――犯人が誰であったにせよ、アールヴを毒殺する目的では無かったようだな……。
矢張りヘレナを陥れ、ダンタリオンを失脚させようとする者の仕業だったかと、アグレウスは思った。
ハーゲンティが危惧していた通り、アグレウスはザガムにも疑いの目を向け、その周囲を見張らせていたが、ダンタリオンの失脚を見越してザガムに近づこうとする貴族たちの動きはあったものの、ザガムは彼らを門前払いし、接触を持った形跡は無かった。
不可解な事件だと、アグレウスは思った。
このままダンタリオンが失脚すれば宮中の勢力図からして有利になるのはザガムだが、ザガムの周囲に不穏な動きは無い。
また、ザガムとダンタリオンは仕える侍女・侍従にいたるまで犬猿の仲であったから、ザガムに仕える者が容易にヘレナの侍女に近づけたとは考えにくい。
そして親王の称号を持つダンタリオンを処罰するには女皇フレイヤの許可が必要となるが、確たる証拠も為しにフレイヤが孫を厳罰に処するとは考えられず、ダンタリオンを失脚させる為の罠としては詰めが甘すぎる。
つまり今回の事件は、アールヴを暗殺するにはほど遠く、ダンタリオンを失脚させるだけの材料にはならず、ただアールヴが『安全の為に』ヨトゥンヘイムに移り住むという結果を招いただけだった。
――では矢張り、あの男の仕業か……?
アグレウスは、ヴィトルの紫水晶のような瞳を思い浮かべた。
ヴィトルは常に影のようにオリアスに付き従っているから、オリアスがヘルヘイムを訪れる時にも必ず同行する。
そして物静かで聡明なヴィトルはフレイヤの覚えも良く、ヘルヘイムの侍女や廷臣たちの受けも良かった。
そうであれば、何度かヘルヘイムを訪れている内にこの地に内通者が現れていても、不思議では無い。
アグレウスは、鉛を呑まされたような重苦しい気持ちになった。
今回の事件の黒幕がヴィトルだという証拠は無い。
が、オリアスがアールヴをヨトゥンヘイムに連れて行こうとしている矢先に絶好の口実となる事件が起きたのを、単なる偶然だと考えるアグレウスでは無かった。
それに、ヘルヘイムの貴族の中に、ヨトゥンヘイムへ使者を送り、スリュムやオリアスに貢物を贈っている者がいるのは判っている。
ダンタリオンの失脚を見越してザガムに擦り寄ろうとした貴族たちがいるように、ヨトゥンヘイムと内通してオリアスを次のヘルヘイム皇帝に擁立しようと目論む者たちいないと、どうして言える?
――ヘルヘイムを、蛮族や裏切り者の手には渡さぬ……。
きつく奥歯をかみ締め、アグレウスは心中で誓った。
その蒼い瞳に浮かぶ光は、氷のように冷たかった。
それから十日の後、アグレウスはアールヴの毒見役が倒れたのは食あたりが原因であり、毒殺未遂事件はなかったものとしてヘレナとダンタリオンたちを解放した。
それと共に、危険は去ったのでアールヴをヘルヘイムに返すよう、ヨトゥンヘイムに文を遣わした。
「兄上が、アールヴをヘルヘイムに帰らせてくれと言ってきている」
そう、オリアスはスリュムに言った。
スリュムは眉を上げた。
「アールヴはもう、こっちで引き取ると決まったんじゃないのか?」
「そうではない。ただ毒殺未遂と思われる事件があったから、安全の為、暫く滞在していただけだ」
「じゃが……例の件もあるし、帰らせる訳には行かん」
オリアスは困惑気な表情で、艶やかな黒髪を軽くかき上げた。
「私もアールヴはヨトゥンヘイムにいさせたいのだが……兄上がアールヴをどう思っているのか、よく判らぬのだ。皇宮に引き取ってからは可愛がっているようなのだが、その割にはろくに教育も受けさせていないようだし、極端な偏食なのも放置していた」
ヴィトルからの報告では、アールヴは好奇心旺盛で教える事には何にでも興味を示し、教科によってムラはあるものの、覚えは良かった。
ヨトゥンヘイムに来てからは努力して少しずつ偏食を直し、ヘルヘイムにいた頃より顔色も良くなっている。
「お前は正式にアールヴの後見になったんじゃから、アールヴをヨトゥンヘイムに住ませる理由になるじゃろう」
「それは微妙だな」と、考える顔つきでオリアスは続けた。
「母上がアールヴの後見に任じたのはヘルヘイムの第二皇子であって、ヨトゥンヘイムの王太子ではない」
「じゃったらフレイヤに言って、アールヴをこっちに住まわせるように命じさせれば良い」
スリュムの言葉に、オリアスは首を横に振った。
「そこまで強引に、兄上からアールヴを引き離したくは無い」
「じゃがもしアグレウスがアールヴの力に気づいて、それを利用しようとするなら――」
「父上」と、オリアスはスリュムの言葉を遮った。
「兄上がアールヴの力に気づき、それを戦に利用しようとするとしても、必ずしもヨトゥンヘイムと敵対するとは限らないだろう?」
「フレイヤが生きておる内はな。奴がヘルヘイム皇帝になってからなら、ヨトゥンヘイムに喜んで攻め入るじゃろう。奴は高慢な上に野心が強い。幾つもの国の王家を滅ぼして自分の支配下に置いておるのがその証拠じゃ」
「だとしても……兄上が私の敵になるとは思えない」
オリアスの言葉に、スリュムは口を噤んだ。
アグレウスは父であるスリュムや異母兄たちをあからさまに軽蔑しているが、オリアスとは仲が良い。
とは言え、それはアグレウスが自分の勢力拡大の為に起こす戦にオリアスが協力しているからで、オリアスはアグレウスに利用されているのだと、スリュムは考えていた。
「もしも」と、オリアスをまっすぐに見据え、スリュムは言った。
「もしもアグレウスが儂の敵となったら、お前はどっちに付くんじゃ?」
「私はどちらの敵にもならない」
静かに、オリアスは言った。そんな質問をされる事自体を悲しむように、整った顔を曇らせる。
スリュムはがしがしと頭を掻き、深く溜息を吐いた。
オリアスに哀しげな顔をされるとフレイヤの悲しんでいる姿が思い浮かび、自分が酷く悪い事をしたような気になるのだ。
「……わかっとる。今のはただの、言葉のあやじゃ」
「アールヴの力の使い道は、アールヴ自身が決めるべきだと思う。今はまだ幼い子供のようなもので、周囲に惑わされずに判断するだけの能力が無いようだから」
「だからヴィトルに教育させとるのか?」
スリュムの言葉に、オリアスは頷いた。
「だからもう暫くの間は、アールヴをこちらで預かりたいと、兄上には伝えるつもりだ。いずれはヘルヘイムに帰らせる。無論、アールヴがこちらに留まりたがるのであれば話は別だが」
「帰らせるならその前に、焔竜――せめて飛竜の騎兵隊を作らんか? お前の眷属となるんじゃから、お前の意思に反して戦には使わん」
大きな手で顎鬚を撫でながら、スリュムは言った。
オリアスは暫く躊躇ってから、「考えておく」と答えた。
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