第9話 暗殺未遂

 かねてより病床に臥せっていた第三王子マルバスが死去したのは、それから一週間後の事だった。

 葬儀は宮中の儀礼に則って滞りなく執り行われたが、元々病弱で長くは生きられぬと看做されていた王子の死だけに参列者もさほど多くは無く、宮中の勢力図にも変化は無かった。

 たった一人の子供を喪ったマルバスの母はひどく落胆し、後宮を去りたいと申し出た。

 アグレウスはそれを許可したが故国に帰る事は許さず、ヘルヘイム領内にある小さな城を与えた。


 葬儀より廷臣たちの関心を集めたのは、言うまでも無く親王の称号とオリアスという後見を得たアールヴの存在だった。

 アグレウスがアールヴの為に美しい鳥を集めていると知った彼らは、先を争って姿や鳴き声が美しい鳥類を手に入れて献上した。

 廷臣たちだけでなく、第一王子ザガムと第二王子ダンタリオンの母たちも故国から美しい鳥を取り寄せただけでなく、珍しい菓子を職人に作らせてアールヴに贈った。

 そうする事でアグレウスの歓心を買い、少しでも自分の子息が有利となるように計らったのである。


 そんな中で、事件は起きた。


 第二王子ダンタリオンの母ヘレナからアールヴに差し入れられた菓子を食べた毒見役が、急に苦しみだして倒れたのだ。

 毒見役は一命を取り留めたが、即座にヘレナ、ダンタリオンの母子が、仕える侍女・侍従とともに捕縛された。

 アグレウスの憤りは傍目にも明らかだった。

 侍女・侍従たちは一人残らず地下牢につながれて厳しい尋問を受け、ヘレナとダンタリオンは塔内に幽閉された。

 そして宮中では、第三王子マルバスが死んだのも毒殺されたのではないかという噂が、まことしやかに囁かれた。


「恐ろしい事になりましたね」

 アグレウスを私室に呼び、フレイヤは言った。

 毒殺されたと噂される兄の事を思い出したのか、深い憂いに美しい顔を曇らせている。

 フレイヤの私室には中庭に面した大きな窓があって楡の葉越しに柔らかな陽光が射し込み、贅を凝らし趣味良くしつらえられた広い室内を照らしていたが、フレイヤの嘆きのせいか、美しい装飾は心なしかくすんで見えた。


「アールヴはどうしていますか?」

「一時はひどく怯えておりましたが、今は落ち着いています」

 毒見役が一命を取り留めたのが不幸中の幸いだったと、アグレウスは言った。

「可愛そうに……。目の前で毒見役があんな事になって、さぞ恐ろしかったでしょう」

「毒見は別室でさせるべきでした」


 本来、毒見は控えの間でするしきたりだった。が、今回は菓子を差し入れたのが第二王子の生母である為、アールヴの侍女たちが遠慮して正式な手続きを踏まなかったのだ。

 アグレウスはその事でアールヴの侍女たちや毒見役にも腹を立てていたが、彼女たちを罰してしまったらアールヴが一層、怯えるだろうと考え、ただの叱責にとどめた。


「このヘルヘイム皇宮で、またこんな事が起きてしまうなんて……」

 沈痛な面持ちで、フレイヤは言った。

 それから、アグレウスに向き直る。

「安全の為にも、アールヴは暫くヨトゥンヘイムに預けたらどうでしょう」

「……!」


 その言葉を聞いた瞬間、恐ろしい考えがアグレウスの脳裏を過ぎった。

 アールヴをヨトゥンヘイムに行かせる為に、オリアスがこれを仕組んだのではないか、という疑惑だった。


 多忙であったオリアスはマルバスの葬儀には出席せず使者のみを遣わしたが、使者に持たせた手紙で、いつになったらアールヴをヨトゥンヘイムに来させるのかと催促していたのだ。

 アグレウスは、アールヴ自身がヨトゥンヘイム滞在を望んでいないと返しておいたが、オリアスは納得していないだろう。


 そもそも今回の事件で、ヘレナが首謀者である可能性は殆ど無いと、アグレウスは考えていた。

 確かにヘレナとダンタリオンはアールヴの存在を疎ましく思っているだろうが、自分の侍女に堂々と毒入りの菓子を持たせてアールヴのもとに行かせたとは考え難い。

 それよりも、ダンタリオンを失脚させる為の罠だと考える方が理にかなっている。そしてそうであれば、真の首謀者はおそらくザガムか、その周囲の者の可能性が高い。


 だが、別の可能性も否定できないのだと、アグレウスは思った。

 オリアスからの文では、スリュムもアールヴがヨトゥンヘイムに滞在する事を望んでいるとあったが、野蛮なまでに屈強な戦士を賛美するスリュムが、見るからにひ弱なアールヴを気に入ったとは、とても思えない。

 だが成人の儀のすぐ後にアールヴをヨトゥンヘイムに連れて行ったオリアスは、何らかの理由でアールヴをヘルヘイムから連れ出そうとしている。

 おそらく、死霊に育てさせていた事を知った為にアールヴを不憫に感じ、手元に置こうとしているのだろうとアグレウスは思った。

 ただ理由が何であれ、オリアスが致死量では無いにせよ、毒入りの菓子をアールヴの部屋に届けさせたとは考えられない。


 だがあの男ならば、と、アグレウスは思った。

 あの男――オリアスの側近のヴィトル――は、銀髪に紫水晶のような瞳を持つ、物静かな男だ。

 初めてヴィトルに会った時、ヨトゥンヘイムの者とは思えないと、アグレウスは感じた。

 銀色の髪はヨトゥンヘイムでは珍しかったし――紫の瞳は、ヘルヘイムでも珍しいが――他のヨトゥンヘイムの戦士のような荒々しさは無く、聡明そうな顔立ちで、思慮深げに見えた。


 だがそれだけに何を考えているのか図りがたく、底の読めない男だと、アグレウスは危惧していた。

 ヴィトルはオリアスの乳母の一人息子であり、オリアスが幼い頃からずっと、側近くに仕えている。

 そしてその知的な外見に似合わず、戦場では獰猛なまでに勇敢な戦士エインヘリャルであると聞いている。


 ――あの男ならば、アールヴをヨトゥンヘイムに連れて行く為に、ヘレナから贈られた菓子に毒を盛る可能性が、無いとは言い切れない……。

 だがその為には、当然ヘルヘイム皇宮内部に協力者がいなければならない。

 そして協力者がいるとすれば、それはザガム派でもダンタリオン派でもない第三の勢力の中の、オリアスをヨトゥンヘイムだけでなく、ヘルヘイムの統治者としても擁立しようと目論む一派に違いない。

 ――それは最早、第四の勢力として警戒すべき相手かも知れない……。



「どうかしましたか?」

 フレイヤに心配そうに声をかけられ、アグレウスは我に返った。

「アールヴ自身も暫くヨトゥンヘイムに滞在したいと言っていましたし、良い機会かも知れません」

「……仰せのままに」

 低く、アグレウスは答えた。

 事態がこうなった以上、アールヴを手元に置く事に固執はできない。



 自室に戻ったアグレウスは、彼の乳母であったドロテアを呼んだ。

「お召しでございましょうか」

「アールヴを暫くヨトゥンヘイムに滞在させる事となった。そなた、随行してやってくれ」


 ドロテアは意外に思ったが、言葉にも表情にも出さなかった。

 毒殺未遂事件があったとは言え、特別に寵愛しているアールヴをアグレウスが一時的にせよ手放すのは意外だったし、アールヴにはすでに侍女たちがいるのに、自分が同行を求められたのも意外だ。


「そしてその前に、新しい侍女を選んでくれ」

「それはつまり……お疑いになっておられるという事でしょうか?」

 ヘレナから贈られた菓子に毒を盛る機会は、アールヴの侍女たちにもあった。

 むしろ、毒見役が倒れればすぐに捕縛されるヘレナの侍女たちより、アールヴの侍女たちの方が疑わしいと言えなくも無い。

「少数で良い。絶対に信頼の置ける者を選んでくれ」

「かしこまりました。それでは、私の身内の者から選びましょう」

「ヨトゥンヘイムでは、そなたがなるべくアールヴの側にいて、向こうの習俗に染まってしまわぬよう、気をつけてやってくれ」

「お任せ下さいませ」


 それが、自分がアールヴに随行する理由なのだと納得して、ドロテアは深々と一礼した。

 成人前のアールヴは平民出身の側室が産んだ子に過ぎなかったが、今では正式に親王の称号を得ている。その守役となるのは、ドロテアの家柄に相応しいと言える。


 軽く頷いて、アグレウスはドロテアを下がらせた。そして、ドロテアの親族であっても、どこまで信用できるか判らないと思った。

 そもそも血がつながっているというだけで信頼できるのならば、この世に骨肉の争いなど起きない筈だ。

 もしもヴィトルが今回の事件の首謀者であるなら、オリアスは全く預かり知らぬ事だろうし、知れば憤るだろう――そう、断定する程度には、アグレウスは弟を信じていた。

 だがオリアスは全ての点で彼の味方だという訳では無いし、特にアールヴの育て方に関しては異論があるようだ。

 だからオリアスがアールヴをヨトゥンヘイムに連れて行こうとする事は不服だったが、少なくとも今回の毒殺未遂事件が解決するまでは、アールヴがヘルヘイムを離れているのは止むを得まいと、アグレウスは思った。



「全く、計算高い連中だ……」

 その日、訪れた何人目かの貴族の使者を門前払いし、ザガムは言った。

 暗殺未遂事件の後、ダンタリオンが失脚する事を予測して、それまで日和見あるいはダンタリオン派だった貴族の一部が、さっそくザガムに近づこうとして来たのだ。

「首謀者が判明するまでは、ご油断めされますな」


 言ったのは、側近のハーゲンティだ。

 今回の事件の首謀者はヘレナではなく、ダンタリオンを陥れる為の罠である可能性が高いとして、すり寄って来る貴族たちを近づけない方が良いと進言したのはハーゲンティだった。


「確かにそなたの申す通り、ヘレナ殿は真犯人では無かろうが……。だが、それなら一体、誰がそんな真似を? ダンタリオンを失脚させるのが目的であれば、ダンタリオンを排除したがっている者の仕業という事になるだろうが、それは……」

「ザガム様、或いはザガム様を擁する一派の誰か。そう、考えるのが順当でございましょう」

 ハーゲンティの言葉に、ザガムは眉を顰めた。

「……父上もそう、お考えであろうか?」

「恐らく」と、ハーゲンティは言った。

 ザガムは溜息を吐いた。

「そうであるなら、父上は私も疑っておられるのだろうな。ダンタリオンの侍女たちを取り調べても何も出て来なかったら、次には私の周辺が調べられる可能性もあるのか……」

 何とかならないのか、と、ザガムは側近に訊いた。

「何も疚しい事はしていないのだから調べられるのは構わぬが、父上から疑いをかけられたままでいるのは将来の為にならない。何より、ダンタリオンが首謀者と決まってくれればこちらには有利になる」

 つまり、とザガムは続けた。

「これはうまく利用すべき好機では無いのか? ただ大人しくしていれば父上の嫌疑が晴れるという訳でもあるまいし」

「早まってはなりませぬ」

 低く、ハーゲンティは言った。

「これが罠であるなら、ダンタリオン様のみならず、ザガム様をも失脚させるのが首謀者の狙いである可能性も否めないのですぞ」


 ザガムは、恐ろしいものでも見るような表情で彼の側近を見た。

 一旦、視線を逸らし、再びハーゲンティを見る。


「……そなた、首謀者は誰だと考えているのだ? 私とダンタリオンの二人とも失脚させようだなどと、そんな大それた事を一体、誰が目論んでいると?」

「マルバス様は既に亡くなられました。もし万が一、ダンタリオン様とザガム様が共に失脚なされば、残る親王様はお二人だけとなります」

「まさかフォルカスが?」

 声を潜め、ザガムは言った。

「あのいつもヘラヘラ笑っている女たらしにそんな大それた考えがあろうとは思えぬが、しかし女たらしだけにダンタリオンの侍女を誑し込んだ可能性はあるやも知れぬ」

「お言葉ではございますが、私にはフォルカス様が黒幕とは考えられませぬ。確かにフォルカス様は親王の称号をお持ちではありますが何の後ろ盾も無く、妹君は内親王の宣下もなく侍女に身をやつしておいでな程です」

「だからそれを怨んで……とは考えられぬか?」

 ハーゲンティは、重々しく首を横に振った。

「ただの意趣返しで、このような大それた謀はできますまい。お二方を共に失脚させるなどと、次の皇太子の位を左右する目的でもなければ、考えにくい事でございます」

 そして、と、ハーゲンティは続けた。

「万が一、ダンタリオン様とザガム様が共に失脚なさっても、フォルカス様が次の皇太子になられる可能性は殆どございますまい。一方で、アグレウス殿下のご寵愛と、オリアス殿下が後見であらせられる点を鑑みれば――」

「アールヴ、だと?」


 側近の言葉を途中で遮り、ザガムは言った。

 そして、アールヴの成人の儀式の日を思い起こす。

 平民を母親に持つアールヴに親王の称号が与えられただけでなく、ヘルヘイムの第二皇子でありヨトゥンヘイムの王太子であるオリアスが後見となった事で、アグレウスが後継に選ぶのはアールヴだと考える者は確かに増えただろう。

 ザガム自身、それまで兄弟として意識した事も無かったアールヴが、自分のライバルとなる可能性を危惧した程だ。


「だが……仮にアールヴが次の皇太子になったとして、それで一体、誰が得をすると言うのだ?  アールヴに取り入って父上の歓心を買おうとしている輩がいる事は知っているが、私やダンタリオンのように母の故国出身の家臣がいる訳では無いし、白痴――いや、子供のような性格だから、これといった取り巻きがいる訳でも無いようだが」

 まさか、と、更に声を潜めてザガムは続けた。

「まさか本当に、アールヴを将来のヘルヘイム皇帝に立てて、ヨトゥンヘイムの傀儡としようと目論む者の仕業なのか……?」

「分かりませぬ」と、ハーゲンティは言った。

「今は何も判らない状況である以上、慎重であるに越した事はございませぬ。ヘレナ様への嫌疑が晴れて幽閉が解かれれば、今、ザガム様に取り入ろうとしている貴族たちはすぐにまた手の平を返すでしょう。近づけるのは得策ではございませぬ」

 ハーゲンティの言葉にザガムは苦虫を噛み潰したような顔で、渋々頷いた。

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