第7話 双頭の竜
翌日、オリアスとスリュムは、アールヴを伴って王宮の地下洞窟へと降りて行った。
屈強な兵士たちが警護する物々しさに、アールヴは不安そうに周囲を見回す。
洞窟内は松明の灯りのみで暗く、湿気を帯び、天井の岩から時折水が滴り落ちる。
やがて彼らは、洞窟の奥に辿り着いた。
巨大な檻があり、中で何かが
「見えるか?」
言って、オリアスは松明をかざした。アールヴは檻に近づき、中を覗き込む。
その時、地の底から響くような唸り声が聞こえた。
アールヴは殆ど反射的にオリアスの後ろに隠れ、袖にしがみつく。
「檻に入れてある上に、鎖でつないである。害は無い」
静かに、オリアスは言った。
その言葉に、アールヴはおずおずと檻の中を覗く。
薄闇の中で蠢いていたのは、暗緑色の皮膚と二つの頭を持つ巨大な竜だった。
アールヴの姿に気づいたのか、燃えるような紅い瞳で相手を見据える。
「……あれも、アウィスと同じ竜なの?」
「ああ」と、オリアスは言った。
「アウィスよりも遥かに大きく、頭が二つあって相当に獰猛だが、同じ仲間だ」
アウィスの仲間と聞いて興味を持ったのか、アールヴはオリアスにしがみついていた手を離し、檻に近づいた。
竜は怒ったのかアールヴにつかみかかろうとして暴れ、鎖に阻まれた。竜はそれでもアールヴを引き裂こうと、鋭い爪のある前足を振り回す。
そしてそのたびにガチャガチャと大きな音をたて、太い鎖が竜の後足を引き止めた。
怒り狂った竜の咆哮が薄暗い洞窟の中に響き、紅い瞳が爛々と輝く。
アールヴは黙ったまま、まっすぐに竜を見つめた。
何も言わず、ただじっと相手を見つめる。
やがて、竜の動きが鈍り、唸り声が止んだ。
躊躇うように二つの頭をゆっくりと振り、後退る。
竜が大人しくその場に座ると、アールヴの口元に、笑みが浮かんだ。
「……何じゃ、今のは?」
スリュムの問いに答える代わりに、オリアスはアールヴの横顔を見つめた。さき程までの不安そうな表情はすっかり影を潜め、むしろ楽しそうに見える。
アールヴはオリアスの視線に気づくと、叔父に向き直って言った。
「あの子、ここから出たいんだって」
「……そうだろうな。だが、とても獰猛で、幾人もの兵士を死傷させた」
「それはとてもお腹が空いていたのと、皆があの子を捕まえようとして、武器を持って襲って来たからだって」
双頭の竜は、ヨトゥンヘイムのある村で家畜を襲い、取り押さえようと出動した兵士たちを殺傷した。
知らせを受けて駆けつけたオリアスが、眠りの魔法で鎮めるまで、暴れ続けたのだ。
ヘルヘイムのような歴史の古い国では代々受け継がれた魔道具を利用した魔法がしばしば使われるが、ヨトゥンヘイムには魔道具も無ければ、それを使いこなせる者もいなかった。
唯一の例外がオリアスで、母フレイヤから譲られたいくつかの魔道具を所持している。
「殺すのは惜しかったゆえ、ここに繋いでおいたが、気性が荒く、手懐けられそうに無い」
「ここから出してくれたら言う事をきくって」
「私に服従すると、誓うのか?」
アールヴは改めて双頭の竜に視線を向け、暫く後に再び叔父を見た。
そして微笑む。
「約束するって」
「……そうか」
短く答えると、オリアスは持参していた鍵で檻の扉を開けようとした。
それを、スリュムが慌てて止める。
「何をする気じゃ?」
「調伏の儀だ。近づかなければ行えぬ」
「そんな危険な真似は――」
軽く手を上げて、オリアスは父の言葉を遮った。
「案ずる事は無い。何より、周りで騒ぎ立てれば却って危険だ」
オリアスの言葉に、スリュムは口を噤んだ。そして、無垢な笑みを浮かべている孫の顔を、不思議なものを見るような表情で見やった。
オリアスは檻に入り、ゆっくりと竜に歩み寄った。それから、古代のヘルヘイム語で呪文を唱える。
竜はその言葉に従うように地に伏せ、二つの頭を垂れた。
オリアスは短剣を抜いて左薬指の先を僅かに傷つける。そしてその手を
「さっきのは一体、どういう事じゃ?」
双頭の竜を地上の古い厩に移し、王宮の部屋に戻ってから、スリュムはオリアスに訊いた。
「見た通りだ」
「……アールヴは、竜と話が出来るのか?」
「竜だけでは無いようだ」と、オリアスは続けた。
「以前には、犬と対話しているように見えた事がある」
スリュムは、信じられないと言う様に首を振った。
「飼われている犬のように大人しい動物ならばともかく、野生の竜だぞ? 何かの魔法か?」
「アールヴは魔道具を持っていないし、魔法のようには見えなかった」
「ヘルヘイムには、動物と会話できる者がおるのか?」
私の知る限りではいない、とオリアスは答えた。
「では母親の故国の血筋か? じゃがあれの母親は平民では無かったのか?」
母親の血筋なのか、育てられた環境のせいなのか――そうオリアスは心中で呟いたが、アールヴが死霊に育てられていた事をスリュムに話す気にはなれなかった。
「……しかしさっきの竜は、お前が調伏で下したのであって、アールヴの力では無かろう?」
「いや、そもそもアールヴが竜を説得していなかったら、調伏を受け入れなかっただろう」
逆に、と、オリアスは続けた。
「調伏の儀を行わずとも、アールヴはあの竜を手懐けられたのだろうな。調伏したのは、万が一にも危険があってはならないから、念の為だった」
スリュムは太い腕を逞しい胸の前で組み、考え込むような顔つきになった。
「つまりあのちっこい坊主は、その気になれば竜を従えられるのか。竜だけでなく、狼でも虎でも獅子でも」
「どこまで出来るのかは判らないが……」
「しかし戦には使える。もしもあれが単なる飛竜ではなく火を吐く焔竜であったなら、それだけで百人の兵士に匹敵する」
オリアスは、首を横に振った。
「手懐けた竜は、アールヴに取って友人のような存在だろう。戦に利用する事など望むまい」
「じゃが今はお前の眷属だ。アールヴが手懐け、お前が調伏すれば、獣の軍団を作るのも可能じゃ」
スリュムの言葉に、オリアスは微かに眉を顰めた。
「ヨトゥンヘイムには、そんなものは不要だろう?」
「……おう、無論じゃ。ただちょっと面白そうだと思っただけじゃ」
新しい玩具をもらった子供のように目を輝かせていたスリュムは、オリアスの言葉に出鼻をくじかれた形となった。
スリュムは、生まれながらの王ではなかった。
かつてヨトゥンヘイムは複数の有力豪族によって分割支配され、豪族間の争いが絶えなかった。
スリュムの父はその有力豪族の族長の家来だった。本家と分家の関係にあったので血縁はあるが、家臣には変わりない。
戦上手の猛者として勇名を轟かせる一方、彼の勇名に嫉妬し、能力を危険視した族長からたびたび無理難題を吹きかけられていた。
スリュムはその父の下で戦のやりかたを学び、力を蓄えた。そして父の死によって家督を相続した後、主君である族長を斃し、その地位を奪った。
手に入れた力を元にスリュムは他の豪族との相次ぐ戦に勝利し、最終的にはヨトゥンヘイムを統一して王となった。
その生涯は戦に明け、戦に暮れるもので、いかにして強い兵を育て戦に勝つかが、彼に取っては何より重要な関心事だった。
「じゃが獣の軍団はともかく、移動に使える飛竜が増えるのは悪くあるまい。馬に比べて竜は繁殖が難しいが、さっきの方法ならば容易に野生の竜を飼い慣らせる。騎馬の代わりに飛竜の騎兵隊を作れば、さぞ見事じゃろうな」
「……飛竜の騎兵隊が必要になるほど遠くまで遠征するつもりなのか? ヨトゥンヘイムはもう充分に広大なのに」
「充分などという事があるか。ヨトゥンヘイムの男は、死ぬまで戦い続けるのが信条じゃ」
オリアスは反論するのを止め、僅かに目を伏せた。
黒絹のような長い睫が、明るい翠の瞳に影を落とす。そしてそういう表情をしている時のオリアスは、平素より一層、母に似て見えると、スリュムは思った。
「……まあ、今のところは、積極的に領地を拡大する予定は無いがな」
「私は遠征の計画を立てさせる為に、アールヴの能力を父上に見せたのではない」
静かに、オリアスは言った。
戦いそのものを好むスリュムとは違って、オリアスは避けられる戦は避けようとしていた。
が、ヨトゥンヘイムの王はスリュムであり、王太子であるオリアスであろうと、命じられれば従う他は無い。
「坊主の能力を誰かに知られると、問題になるかも知れんと言っておったな」
スリュムの言葉に、オリアスは頷いた。
「アールヴの能力を知れば、それを戦に利用できると考える者は少なくないだろう。悪くすれば、
「ヘルヘイム皇宮の奥深くにいる者が、そう簡単には誘拐されまい」
「外部に連れ去られる危険性は低いだろうが……」
途中で、オリアスは口を噤んだ。
「なら、安心じゃろう」
言って、スリュムは盃に酒を満たした。が、それに口をつける前に手を止める。
「この事、アグレウスは知っておるのか?」
「知らない筈だ。少なくとも、私からは話していない」
「じゃがあれが知れば、当然、坊主を戦に利用しようと考えるじゃろうな。調伏の儀は、たしか奴も行えるのじゃったな?」
スリュムの問いに、オリアスは頷いた。
スリュムは続けた。
「それに眠りの魔法も使える。ヘルヘイムにはろくな兵士なぞおらんが、眠りの魔法で獰猛な獣を捕らえ、アールヴの力で手懐け、調伏の儀で眷属とすれば、ヨトゥンヘイムの戦士にも匹敵する軍団が作れる」
スリュムは盃を一気に飲み干し、それを卓の上に荒々しく置いた。
「奴ならば、そんな力を手に入れれば、きっとヨトゥンヘイムに攻め入って来る」
ギラギラとした燃えるような目で、スリュムは目の前にアグレウスがいるかのように虚空を睨んだ。
「父上……。母上を悲しませるような真似は、兄上もしない筈だ」
宥めるような口調で、そしてその整った顔を哀しげに曇らせて、オリアスは言った。
「フレイヤが生きておる内はな。奴も、ヘルヘイム皇太子の地位を奪われたくはあるまい」
憎々しげに言って、スリュムはもう一度、盃を満たした。
が、それを取り上げる代わりに、オリアスを見る。
「お前がアールヴをここに連れて来たのは、ヘルヘイムに置いておいて、アグレウスがあれの能力に気づくのを避ける為か?」
問われても、オリアスは口を噤んだままでいた。
が、答えとしてはそれで充分だと、スリュムは思った。
アグレウスはその誇り高さのゆえに、スリュムやヨトゥンヘイムに対する侮蔑の念を隠そうとはしなかった。
彼の父に対する態度は文字通り慇懃無礼で冷ややかであり、一方のスリュムもその非礼と高慢さをあからさまに嫌悪し、血のつながった親子というより怨敵のようだった。
アグレウスには、スリュムが付けたスリヴァルディというヨトゥンヘイムでの名があるのだが、スリュムも他の誰も、その名で彼を呼ぶ事がなかった。
ヨトゥンヘイムの男は強く勇敢な戦士であるべきだとされているので、戦士ではないアグレウスを、ヨトゥンヘイムの男とは認めないからだ。
一方のアグレウスもその名は忌み嫌っているし、スリュムを「父上」と呼ぶ事すら無い。よそよそしく「ヨトゥンヘイムの王陛下」としか呼ばない。
オリアスは父と兄の不仲を悲しむべき事だと考えてはいたが、彼が物心ついた時には既にそんな状態だったので、和解は不可能であろうと、半ば諦めていた。
ただ、これ以上、両者の仲が険悪になり、それがヘルヘイムとヨトゥンヘイムの間の亀裂になってしまわぬよう、心を配ってはいた。
「分かった。アールヴは、こっちで引き取る」
スリュムの言葉に、オリアスは微かに眉を顰めた。
「……そう簡単に言わないでくれ。兄上が許可する筈がない」
「アールヴが自分からこっちに居つきたがるのなら、問題あるまい」
「まあ……そうだな」
ならば簡単じゃ、と、スリュムは言った。
「儂の見たところ、アールヴとベルゲルミルは似たところが幾つかある。動物が好きで、頭の中身は子供並じゃ」
一緒に遊ばせてやろうとスリュムは言って、衛士を呼んだ。
兄たちと共に狩に出かけていたベルゲルミルは、スリュムからの使者に呼び出されて王宮に戻った。
そこには、スリュムとオリアス、アールヴが待っていた。
「
「おう。お前の自慢の白虎どもを、アールヴに見せてやれ」
「このチビに?」
ベルゲルミルの言葉に、アールヴは不満げに眉を顰めた。
「チビじゃなくて、アールヴだよ」
「そうか。儂はベルゲルミルじゃ」
「……ベルゲルミルおじ様?」
そう呼ばれて、ベルゲルミルは大袈裟に肩をすくめた。
「そんな呼び方をされると首筋が痒くなっていかん。ベルゲルミルと呼べ」
ベルゲルミルの言葉に、アールヴは素直に頷いた。
ベルゲルミルはアールヴを連れ、彼が飼っている白虎たちの檻の前まで案内する。
「どうじゃ。美しい獣じゃろう?」
アールヴは好奇心をあらわにして檻の前に立った。
白虎たちは、のそりと立ち上がってアールヴに近づく。
アールヴは、黒い縞の入った白い毛皮と色素の薄い瞳を興味深げに見つめた。
「白虎を見るのは初めてか?」
「白くない虎を見るのも初めて。普通の虎って、どんな色をしているの?」
「何じゃ、虎も見たことが無いのか。ならば虎狩に連れて行ってやる」
「アールヴを危険な場所に連れ出すのは止めてくれ」
オリアスが口を挟むと、ベルゲルミルは意外そうな表情を見せた。
「何じゃ、お前らしくも無い事を言うな。男なら傷の一つや二つ、あった方が箔がつく」
「アールヴは兄上の子なのだ。かすり傷ひとつでも負わせる訳には行かぬ」
「フン」と、ベルゲルミルは鼻を鳴らした。
そして、不服そうな表情でスリュムを見る。
「危険の無いように遊んでやれ」
スリュムの言葉に、ベルゲルミルは再び大袈裟に肩を竦めた。
それから、アールヴに向き直る。
「ならばこの前、捕まえたばかりの犬狼を見せてやろう」
ベルゲルミルの言葉に、アールヴは興味深そうに目を輝かせた。
ヨトゥンヘイムの
特に名誉とされているのは猛獣を生きたまま捕らえる事で、素手での格闘を得意とするベルゲルミルは、たびたび猛獣を捕らえては飼い慣らしていた。
だが素手の格闘が得意な反面、弓矢や槍、剣を使った戦いは不得手で魔法も使えない為、捕らえられる獣は獅子や虎の大きさが限界だった。
一方、同腹の兄であるゲイルロズは弓の名手で、飛んでいる大鷲を傷つける事無く射落として捕らえるのを得意としていた。
長兄のギリングは剣も槍も得意だったが、短気な面があるせいで、これまで猛獣を生け捕りにした事は無かった。
「……フム、やはり飛竜の騎兵隊は欲しいな。焔竜ならなお良い」
独り
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