第6話 覇王スリュム

 ヨトゥンヘイムの王都に着くと、飛竜は王宮の庭にゆっくりと舞い降りた。

 屈強な護衛兵たちが居並ぶ姿に、アールヴは不安そうにオリアスの後ろに隠れる。

 兵たちは、ヘルヘイムでは長身の部類に入るオリアスより遥かに背が高く肩幅が広く、文字通り筋骨隆々としており顔つきもいかつかった。

「恐れる事は無い。彼らはそなたを守りこそすれ、危害を加える事は無い」

 オリアスは言ったが、アールヴはオリアスから離れようとしない。


 これでも以前よりは大分、ましだと、オリアスは思った。

 初めて会った頃のアールヴは、部屋から出る事さえ恐れていた。あの頃であれば、ヨトゥンヘイムに連れて来るなど考えられなかっただろう。


 王宮の広間に入ると、王のスリュム、それにオリアスの異母兄にあたるギリング、ゲイルロズ、ベルゲルミルの三者が待ち受けていた。

 壮麗で優美なヘルヘイム皇宮とは打って変わって、石造りのヨトゥンヘイム王宮は簡素で無骨だ。

 王都は高い塀と深い堀で三重に囲まれ、数万の兵が篭城して戦えるだけの広さと設備があり、その中心にあるのが王宮で、堅固な護りを誇る要塞である。

 一方のヘルヘイム皇宮は王侯の生活と政治と社交の場であり、要塞としての機能は備えていなかった。


「それがアールヴか? ずいぶん、ちっこいのう」

 割れ鐘を打ったような声で、スリュムが言った。

 アールヴはオリアスの背中にしがみつくようにして隠れる。

「恐れずとも良い。そなたの祖父殿だ」

「お祖父様……?」

 聞き返して、アールヴはおずおずと相手を見遣った。


 祖父が祖母と対をなす概念なのは知っているが、たおやかで美しいフレイヤと、目の前にいる野獣のような男は余りに異なって見えた。

 身体は先ほど見た護衛兵たちより更に大きく小山のようで、手足はごつごつと太く逞しい。髪は黒く無造作に伸び、顔中が黒い髭で覆われている。

 だがその髭に覆われた口元に笑みが浮かぶと、黒い瞳の光も和らいだ。


「こっちへ来い」

 両腕を広げ、スリュムは言った。

 アールヴはオリアスを見、オリアスが頷くと、やや躊躇ってからスリュムに歩み寄った。

 スリュムはアールヴを軽々と抱き上げ、膝に乗せた。

「ちっこいだけでなく、ずい分、痩せておるのう。一体、ヘルヘイムでは何を喰っておるんじゃ?」

「山葡萄と、木苺」

「それだけか?」

 呆れたように、スリュムは言った。

「かなりの偏食で、ほとんど果物しか口にしないらしい」

「それはいかん。もっと肉を喰わせて太らせないと強い戦士エインヘリャルにはなれん」

 オリアスの説明に、スリュムは言った。

「こっちにいる間に、しっかり肥えさせてやろう。それにせいぜい狩りでもさせて、生っちろいのも何とかせんとな」

「三日では難しいな」

「三日じゃと?」

 オリアスは頷いた。

「三日以内にヘルヘイムに返すと、兄上と約束したのだ」

「フン……あれの言いそうな事じゃ」


 アールヴは黙ったままスリュムを見つめ、それからギリングたちを見遣る。

 三人ともスリュムにとても似ており、同じように髭だらけだ。

 違いと言えば、ギリングはスリュムと同じく黒髪に黒髭だが瞳は薄い灰色、ゲイルロズは鋼鉄のような灰色の髪と瞳を持ち、他の二人とは違って顎ひげのみ、ベルゲルミルは赤毛と赤ひげで、瞳の色は茶だった。


「……お祖父様は、どうして顔に毛が生えているの?」

 不思議そうに、アールヴは訊いた。

 スリュムは笑った。

「これは髭というものじゃ。ヘルヘイムでは珍しいか?」

 アールヴは頷いた。

 スリュムは笑ったが、彼の長男であるギリングは眉を顰めた。

「……どうも妙な子じゃな。これでも成人しておるのか?」

「面白い坊主じゃないか。アルヴァルディの子供の頃に少し雰囲気が似ておる」


 言ったのは、三男のベルゲルミル。

 アルヴァルディとは、ヨトゥンヘイムにおけるオリアスの名である。

 次男のゲイルロズは口を噤んだままでいる。


「変わった育てられ方をしたとか言っておったが、どう変わっておるんじゃ?」

「それは……」

 スリュムに問われ、オリアスは口ごもった。

 そして、初めてアールヴに会った時の事を思い起こした。



 初めてアールヴに会った時、それまでどんな暮らしをしていたのかをオリアスは尋ねた。

『母さんはたくさんいたけど、何日かたつと消えちゃった。本当の母上は、もういないんだって』

『消えた……とはいなくなったという意味か?』

 アールヴは首を横に振った。

『身体が透明になって、光って、それから消える。そうすると、また新しい母さんがどこかから現れて、でもまた何日かたつと消えちゃう』


 その夜、アールヴを育てさせたのだと、オリアスは兄に詰め寄った。

『アールヴの話を聞く限りでは、生きた者のようでは無かったが』

『……死霊だ』

 ごまかせそうに無いと思い、アグレウスは言った。

『死霊だと? なぜ、そんな真似を……』

『あれを守る為だ』


 視線を逸らし、アグレウスは言った。

 リディアを蘇生させようとしていた事を、話す気にはなれなかった。


『守る為……だと?』

『そなたも知っての通り、ヘルヘイム宮廷内には幾つかの勢力がある。そのいずれにも属さず後ろ盾を持たぬアールヴが、いつ何時暗殺の危険に晒されるか判らぬ』

 だから誰かに買収される可能性のある乳母はつけられなかったのだと、アグレウスは付け加えた。

『……リディアが死んだのは、誰かに暗殺されたと考えているのか?』


 オリアスの問いに、鉛を呑まされたように、アグレウスは感じた。

 その噂は彼の耳には届かなかったが、その可能性は充分あると考えていた。


『それでも例えばドロテアとか、兄上が信頼できる侍女がいるだろうが』

『ドロテアは由緒ある貴族の出だ。平民の女に産ませた子の守役にはふさわしくない』

 アグレウスの言葉に、オリアスは眉を顰めた。

 暫く何かを考えてから、口を開く。

『アールヴが言うには、乳母たちは数日で消えてしまったそうだが、そう都合よく乳母にできる死霊が手に入ったのか?』


 アグレウスはオリアスを見、それからまた視線を逸らせた。

 アールヴに会わせたのは間違いだったと思ったが、既に遅かった。

 何より、ヨトゥンヘイム軍を率いて国境紛争を鎮めた功労者の頼みでは、無碍むげに断る訳にも行かない。

 そしてアールヴは余りに無垢で、問われればなんでも正直に答えるだろう。


『アールヴを守る為には、止むを得なかった』

 オリアスに向き直り、アグレウスは言った。オリアスはすぐには何も言わなかったが、その整った顔には強い非難が色濃く表れている。

『……殺したのだな、死霊とする為に』

『平民だ。いずれにしろ、数十年しか生きられはせぬ』

『平民ならば殺しても構わぬと言うのか? 兄上の愛したリディアも平民ではなかったのか?』


 アグレウスは答える代わりに視線を逸らし、虚空を見遣った。

 リディアがそのように儚い生命しか持たない者だったのだと、彼は今更ながらに思い知った。

 リディアには、それまで出会った他の女達には無い、不思議な静けさがあった。

 そして彼女を側におく事で、アグレウスは心の平穏を得ることが出来た。

 喪った時には、暫く何も手につかぬ程、落胆した。


 だがあれが愛であったのかどうかは、判らない。



 オリアスは、口を噤んだままでいた。

 死霊に育てさせたのがアールヴを守る為だという兄の説明に、彼自身、納得していなかった。

 その上、死霊を得る為に多くの平民の女を犠牲にしたのは許せる事では無い。

 だが、ただでさえスリュムとアグレウスの折り合いが良く無いのに、兄に対する父の心証を悪くするような事を、口にする事はできなかった。


「アグレウスの事だ。どうせろくな育て方はしていまい」

 言ったのは、ギリングだった。

 文化や価値観の違いから、ヨトゥンヘイムでは一般にアグレウスの評価は低かったが、特にギリングはアグレウスを嫌っていた。

「幾人も側室を持って、子供をこしらえるだけ拵えて、後は放っておいたんじゃろう。全く、無責任な奴だ」

「違う……! 父上は、無責任なんかじゃない」


 ギリングの言葉に、きっとなってアールヴは言った。

 ギリングは一旦、意外そうな顔をしてから、再び髭だらけの顔を顰めてアールヴに歩み寄った。

 ぴくりと、アールヴの肩が震える。


「だったら坊主はなんでそう、半病人みたいなをしているんじゃ? 貧相で痩せこけて生っちろい」

「それは……」

 困惑げに、アールヴは口ごもった。そして、助けを求めるようにオリアスを見る。

 オリアスは宥めるように軽く笑った。

「そなたは少し、偏食が過ぎるのだ」

「……父上は悪くない。私が偏食だから……」


 ギリングに向き直って、アールヴは言った。

 その表情には、ギリングに対する恐れの色もあったが、後へ引かぬ決意も現れていた。


「ちびの癖に大した坊主だな。兄者に口答えしおった」

 言って、ベルゲルミルは笑った。

 ギリングはフン、と鼻を鳴らす。

「……なるほど。見た目と違って意外に肝が据わっておる」

 スリュムは満足そうに言って、アールヴの頭を大きな手で撫でた。



「……フレイヤは息災にしておるのか?」

 その夜、スリュムの部屋で、差し向かいで酒を酌み交わしながらスリュムはオリアスに訊いた。

「ああ。文を預かっている」

「何じゃ、そんな物を持っているなら早く出せ」


 父の言葉に、オリアスはクスリと笑った。

 スリュムは月の明かりにかざして、愛する妃からの文を熱心に読んだ。

 それから、わずかに眉を顰める。


「フレイヤも、アールヴの事を案じておるようじゃな」

 オリアスは何も言わず、スリュムが続けるのを待った。

「どうもあれは発育が良くないようじゃな。身体がちっこいだけでなく、ここの中身が子供のようじゃ」

 言って、スリュムは自分の頭を指で示した。

「教育が足りなかったのだ。あれでも、かなり改善した方だ」

 盃に浮かぶ月の光を見つめながら、オリアスは言った。

「何でも平民の女に産ませた子だそうじゃが、だから放っておいたのか?」

「判らない……。この頃は、大層可愛がっているようだが」


 生まれてから二十年ほどは廃屋のような離宮に閉じ込めていたのだから、初めの内は確かに放置していたと言われても仕方あるまいと、オリアスは思った。

 死霊に育てさせたというのも尋常では無い。


「じゃがまあ、無駄に小賢しいよりは良いかも知れんな。何より、肝が据わっているのが良い」

「伯の兄上のお陰で、偏食は直りそうだ」

 スリュムの言葉に、オリアスは再び軽く笑って言った。


 オリアスは三人の異母兄をそれぞれ伯の兄上、仲の兄上、叔の兄上と呼んでいた。

 アグレウスの事は、単に兄上と呼ぶ。

 次男ゲイルロズと三男ベルゲルミルは同腹でギリングだけ母親が異なるが、ゲイルロズは岩のように無口な男で、誰とも殆ど言葉を交わす事が無い。

 ずけずけと物を言うギリングと、何を言われても平然としているベルゲルミルは傍目にも相性が良かったが、ゲイルロズが他の兄弟と不仲という訳ではなかった。


「もう成人してしまったのじゃから、今から喰わせても大きくはならんじゃろうな」

 幾分か残念そうに、スリュムは言った。

 寿命の長い王侯貴族の子女は百歳で成人と看做されるようになるが、身体的な成長は、平民と同じく二十歳頃に完成する。

 その日の午餐の折、アールヴは自分が偏食だとアグレウスが非難されると思い、それまで殆ど口にした事の無い肉や魚も食べた。

 だが食べられる量はわずかで、再びギリングを呆れさせた。

 それで無理にでも食べようとしたのを、「食あたりでも起こされたら困る」と、オリアスが止めたのだった。


「それで、あの坊主が何か特別な力を持っておるように言って無かったか?」

「明日、改めて確認する」

「何じゃ。勿体ぶっておらんで話せ」

 オリアスはスリュムに向き直り、まっすぐに相手を見た。

「父上にも確認して欲しい。そして、この事は他の者には話さないで欲しいのだ」

「誰かに知られると、問題になるのか?」

 父の問いに、「或いは」とオリアスは呟いた。

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