第4話 反魂術

 リディアが死んで初めて、アグレウスは自分の喪ったものの大きさを知った。

 暫くは他の側室を近づける気にはならず、何事にも身が入らなかった。

 富も権力も全てが空しく、それらを得るために策を弄し、心を煩わせる事が無意味に思えた。

 そうして鬱々として日を過ごす内に、反魂術をもってリディアを蘇らせるという考えが浮かぶようになった。

 反魂術は禁忌とされており、それが本当に可能かどうかもわからない。

 何より、死んだ側室なぞにいつまでも拘っているのは未練がましい――そう、アグレウスは思ったが、リディアを蘇生させるという考えは一旦は否定してもまた心に浮かび、浮かんでは消え、また打ち消しがたい強さで彼の脳裏を占めた。


 アグレウスはやがて意を決して密かに使者を方々に送り、反魂術の方法を調べさせた。

 が、禁忌であるが故に、幾通りもの説はあったが、どれが正しくどれが誤っているのかはっきりしない。

 ただ全ての説に共通していたのが、魂の入れ物が必要だという事、それは死者の遺体ではなく健康な生きた身体を使うべきである事、だがその生きた身体は魂の無い空の器でなくてはならない――という三つだった。

 それでアグレウスは生きた身体から魂を抜く方法を調べさせたが、殺さずに魂を抜く方法は見つからなかった。


 諦めかけた時に、魂を持たせずに赤子を育てる方法があるという噂を聞きつけた。

 死霊に育てさせ、少なくとも二十歳になるまでは生きた者に一切、会わせないというやり方だった。

 それが本当に信ずるに足る話なのか愚にもつかぬただの風説なのかは判らなかった。

 が、アグレウスはリディアが産んだ子を、死霊に育てさせる事に決めた。


 死霊を操る術はすぐに見つかった。が、それができるのは死後数日から、長くても十日ほどだった。

 アグレウスは自分の乳母だったドロテアに計画を打ち明け、協力者とした。

 そして複数の属国や属領に密かに兵を送って幼い子を持つ母親をさらわせ、生命を奪い、アールヴと名づけたリディアの子を育てる為の死霊とした。


 数ヶ月が経つと、アグレウスは次第にリディアの事を思い出さなくなっていった。

 側においていた期間は短かったし、ヘルヘイム皇太子としての公務に忙殺されていたからだ。

 一年が過ぎる頃には、アールヴの存在自体、殆ど忘れるようになっていた。

 命令の中止が無かったので、兵士たちはその意味も知らずに幼子の母親――身分は平民に限られていた――を攫い、相手が罪人だと聞かされている処刑人は何の疑問も持たずに彼女たちを吊るし、全てを知っているドロテアは、黙々と死霊をアールヴの守り役として送り込んだ。



『本日をもちまして、かの若様が二十歳におなりになられますが、いかがなさいますか?』

 二十年後のその日、ドロテアはアグレウスに尋ねた。

『誰の事だ?』と訊き返すのと殆ど同時に、アグレウスはアールヴの事を思い出した。

『もう二十年か……。早いものだな』

 もっとも、と、アグレウスは続けた。

『たった二十年なのだから、驚くには当たらぬか』

 そのたった二十年の間に、千名を超える罪も無い若い母親たちが殺されたのだとドロテアは思ったが、口には出さなかった。


 反魂術でリディアを蘇らせたいという気持ちを、既にアグレウスは失っていた。

 一人の側室を蘇らせるためにヘルヘイムの皇太子が禁忌を犯したとなぞと知られれば、家名に傷がつくだろう。

 それでも、アールヴがどのように成長したのかには興味があったので、会いに行く手筈を整えさせた。


 アールヴは小さな離宮で育てられていた。

 かなり古く手狭でもあったので、使われなくなった離宮だった。

 アグレウスはドロテアのみを伴い、離宮に入った。

 長く捨て置かれていたせいで、空気が澱んでいる。


『こちらでございます』

 奥まった一室に、外から鍵のかかった厚い木の扉があった。

 ドロテアは鍵を開け、扉を押し開けた。ギギーッと、耳障りな音を立てて、扉が軋む。

 薄暗い部屋の中で、ぼうっと光る女の姿があった。

 十日ほど前に殺された死霊で姿を保てる限界に近づいており、ほとんど消えかけている。

 その死霊が髪を梳いている相手がアールヴだった。

 扉が開いたので、じっとこちらを見ている。


 その姿に、アグレウスの脳裏に二十年前の記憶が鮮やかに蘇った。

 亜麻色の髪、髪よりも薄い亜麻色をした瞳、無垢な白い肌、ほっそりとした、華奢な身体――全てが、リディアに生き写しであった。


『ああ、坊や……!』

 アグレウスがアールヴに歩み寄ろうとした時、死霊が悲痛な叫び声をあげた。そして、アールヴを抱きしめる。

 だがその腕は見る間に霞んでゆき、最後に一度、明るく光った後に消え去った。


『……今のは何だ?』

『死んでから十日たちましたので、霧散いたしましたのでございましょう』

 アグレウスの問いに、ドロテアは答えた。

『そうでは無い。私が訊きたかったのは……』

『どうやらあの死霊は、若様を自分の子だと思い込んでいたようでございます』

 ドロテアの答えに、アグレウスは微かに眉を顰めた。

 平民の分際で無礼だと思ったのだ。

『死霊にいたします時に若様を大切にお守りするよう暗示をかけましたから、おそらくはそのせいでございましょう』

 拉致され、自分の身に何が起きたかも判らぬ内に殺された女たちが取り乱す事無く乳母の役目を果たす為には、強めの暗示をかける必要があったのだと、ドロテアは説明した。


『……誰?』

 それまで二人のやりとりをじっと聞いていたアールヴが、幾分か不安そうに訊いた。

 薄い亜麻色の瞳で、まっすぐにアグレウスを見つめている。

『我が名はアグレウス。そなたの――父だ』

『父?』鸚鵡返しに、アールヴは言った。『父さんの事?』

『父上とお呼びなされませ』

 思わず、ドロテアが横から口を出した。


 アグレウスは軽く溜息を吐いた。

 生きながら魂を持たないのがどのような者であるかは判らないが、アールヴはとてもそうは見えなかった。

 これはただの無知な子供だ。

 平民に育てさせたので、平民のように育ったのだ。

 赤子を死霊に育てさせれば魂を持たずに育つなど、やはり愚にもつかぬたわ言だった。


 無駄な試みだったとアグレウスが踵を返しかけた時、アールヴが歩み寄って来て袖を引いた。

『もう、行っちゃうの? まだ来たばかりなのに?』

 すぐには何も答えず、アグレウスはアールヴを見た。

 死霊たちは数日から十日ほどで霧散し、新しい者が送り込まれる。

 それがアールヴにとっての日常だったので、来てすぐに去る者は珍しいのだろう。

『……そなたには、きちんとした守役をつける。数日で消えたりはしない者を……な』

『もりやくって、何? 消えないって、どうして?』


 そう、アールヴは訊いた。

 大きな澄んだ瞳でまっすぐにこちらを見上げ、物怖じをせず、好奇心でいっぱいのようだ。

 初めに見せていた不安げな様子はもう無い。

 外見はリディアに似ているが、その表情や態度は子供の頃のオリアスを彷彿とさせた。


『そなた、私が恐ろしくは無いのか?』

『怖くない。だって父さん――父上だから』

 言って、アールヴは微笑んだ。



 アグレウスは、物心ついて初めて父スリュムに会った時の言を思い出した。

 山のように大きな身体で胸は厚く腕は太く、浅黒い顔は真っ黒な髭に覆われている。

 銅鑼を打ったような声で『お前がスリヴァルディか?』と声をかけられた時は、心底、恐ろしかった。

 スリヴァルディはスリュムが名づけたヨトゥンヘイムでのアグレウスの名であるが、スリュムの野太い声と恐ろしげな姿のせいもあって、その名は幼かったアグレウスの心に悪い印象しかもたらさなかった。


 アグレウスが次にヨトゥンヘイムの王宮を訪れたのは、オリアスが少年の頃だった。

 その時にはもう、スリュムを恐ろしいとは思わなかった。野蛮で下品だと、軽蔑する気持ちの方が勝ったのだ。

 そしてオリアスがスリュムに懐き、スリュムと同じような容姿をした異母兄たちとも仲良さげに振舞っているのが、不思議でならなかった。



『宮殿内に部屋を用意させよ。それに、守役も定めねばならぬ』

 ドロテアに命じてアグレウスは部屋を出ようとしたが、アールヴは離れようとしない。

『すぐに迎えの者を遣わすゆえ、それまで待っているが良い』

『迎えって……』

『ここを出て、宮殿に移るのだ』


 アグレウスの言葉に、アールヴは再び不安そうな表情になった。

 生まれてから一度も離宮を――それどころかこの部屋さえ――出た事が無いのだから、他に移れと言われて不安になるのは無理も無いと、アグレウスは思った。

 騒がれても厄介だし、眠りの魔法でもかけて迎えが来るまで大人しくさせようかとアグレウスが考え始めた時、アールヴが口を開いた。

『父上と一緒なら、怖くない』


 決意を固めたように真摯な表情で、アールヴは言った。

 その瞳はまっすぐにアグレウスを見つめ、しっかりと袖をつかんだままだ。

 彼を我が子だと思い込んだ死霊たちに何を聞かされたのか判らないが、父であるならば自分を守ってくれるのだと、信じて疑わないのだろう。


 ――この者は、私の他に寄る辺を持たぬのだ……。

 改めて、アグレウスはその事を思い出した。

 彼の他の子供たちは母親とその故国を後ろ盾として持ち、母の故国から来た侍女や小姓たちにかしずかれて育った。

 母の故国を滅ぼされたフォルカスですら、母と共に故国を逃げ落ちてきた者たちを召し使っている。

 だがリディアは何も持たず、息子に何も残さなかった――少なくとも、富や権力という意味では。


 アグレウスは、改めてアールヴを見た。

 外見の印象は十二、三歳程度だが、知的水準はせいぜい五、六歳に思われる。

 育てたのが平民である上に数日毎に乳母役が入れ替わるので、教育らしい教育は何も受けていないのだろう。

 言うまでもなく、ヘルヘイム宮廷内での、そしてヘルヘイムとヨトゥンヘイムの間の勢力図や水面下での権力闘争とも無縁だ。

 魂を持たない空の入れ物にはならなかったが、幼子のように無垢で、アグレウスの他に頼るべき相手もいない。


『ならば私と一緒に来るが良い』

 アグレウスが言うと、アールヴは満面に笑みを浮かべて頷いた。

 リディアを反魂術で蘇らせる為の器にはならなかったが、彼女の代わりに心の平穏をもたらしてくれるかも知れない――そう、アグレウスは思った。



 アグレウスがアールヴを自ら連れ帰ったので、その事はすぐ、宮中で噂となった。それまでは身分の低い側室の産んだ子など、誰も気にかけなかったのだ。

 アールヴは人の多い場所を怖がって与えられた部屋に引きこもり、アグレウス以外の男も恐れた。

 それでアグレウスは、アールヴの守役に若い侍女ばかり数名を選んだ。


 初めの内、アールヴは環境の変化に戸惑っているようだったが、数日もすると慣れて、旺盛な好奇心を見せるようになった。

 平民に育てられた為に読み書きはできなかったが、教えればすぐに覚えた。

 良く笑い、表情豊かで、素直な子だった。

 アグレウスが会いに行けばいつもとても喜び、帰る時には哀しげに引きとめた。

 時には駄々をこねる事もあったが、諭せば大人しく聞き入れ、癇癪を起こすような事は無かった。


 アールヴと共に過ごす時、アグレウスは公務や政争の悩みや煩わしさから解放され、穏やかな気持ちで過ごす事ができた。

 それはちょうど、少年の頃のオリアスと共に過ごした時間と同じだった。

 アグレウスは、その貴重な時間を失いたくないと思った。

 成長したオリアスが彼の立場を脅かす者となってしまったように、嬪たちに産ませた子供たちが母の故国を後ろ盾として宮中で勢力を伸ばしたように、気を許せない相手になってしまう事は耐え難かった。


 アグレウスはアールヴに読み書きは覚えさせたが、礼儀作法を学ばせず、護身の為の最低限の武術や魔術も教えなかった。

 部屋から出さず、彼と守役に定めた数名の侍女の他は誰にも会わせなかった。


 アグレウスは、アールヴをいつまでも純粋で父親だけを頼りにする子供のままでいさせたかったのだ。

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