第3話 リディア

 儀式の後、後宮の寝所に下がってからも、アグレウスは酒杯を傾け続けていた。

 神経が昂って、どうにも寝付けそうに無い。

 近頃では、オリアスと会う度にそんな気分になる。


 ――一体、いつからこうなってしまったのか…。

 形の良い眉をひそめ、アグレウスはため息をついた。


 オリアスがまだ少年だった頃には、二人は紛れもなく仲の良い兄弟であった。

 ヨトゥンヘイムで育ったオリアスはヘルヘイムの基準からすれば元気が良すぎて守役たちを振り回していたが、天真爛漫で人懐こく誰からも愛され、アグレウスも弟に会うのを楽しみにしていた。

 ヘルヘイムとヨトゥンヘイムの文化の違いから、自分が父スリュムから嫌われている事、逆にオリアスが可愛がられている事は知っていたが、いずれそれぞれヘルヘイムとヨトゥンヘイムの統治者となる身であるので、自分と違ってオリアスが父王に愛されている事を、弟の為に喜んだ。


 だが、やがて成長したオリアスが、ヨトゥンヘイムの狂戦士ウルフヘズナルたちを身分ではなく実力で従えるほどの屈強な戦士に育つと、危機感を覚えるようになった。


 アグレウスは彼自身が野蛮と軽蔑しているヨトゥンヘイムで受け入れられる事は無いが、オリアスはヘルヘイムとヨトゥンヘイムのいずれでも、理想的な君主となりうるのだ。

 フレイヤが生きている間はスリュムは愛する妃との約束を守るだろうが、軟弱と軽蔑しているアグレウスを本当にヘルヘイムの次の皇帝と認めるのか、はなはだ心もとない。

 そして、スリュムは屈強な戦士の多いヨトゥンヘイムにあって殊更頑強で戦で傷を受けてもすぐに完治し、毒を喰らっても平気なのだと噂され、一方のフレイヤはすこぶる健康とは言えず年も夫よりずっと上だった。



 自分の立場を固める為、アグレウスはオリアスの協力を得てヨトゥンヘイム軍の力を利用し、戦によっていくつかの小国を保護下に置いた。

 そして支配を容易にするために、それらの国々の王女を側室として産ませた男子をその国々の大公の地位に就け、ヘルヘイムへの朝貢を義務付けた。

 それによってヘルヘイムは百年戦争で受けた傷を癒し、再び昔日の繁栄を取り戻して国力を回復したのだが、その為にヨトゥンヘイム兵が動員される事に不満を唱える声が、ヨトゥンヘイムで上がり始めた。


 初め、オリアスはそれらの声を宥め、鎮める役を果たしていたが、やがて兄のやりかたを非難するようになった。

 小国とは言え、王女の位にあった者を虜囚のように扱うのは酷だというのだ。

 実際、アグレウスは男子を一人産みさえすれば側室は用済みと考えており、生まれた子供たちも保護国――という名の属国――支配を容易にする為の道具としか捉えていなかった。

 その為、側室やその子供たちは軟禁に近い状態で、後宮の古い建物で不自由な暮らしを強いられていた。


 アグレウスは、オリアスの非難を意外に思った。

 オリアスの成長に危機感を抱いたとは言え、それは父スリュムが自分を廃太子してオリアスを次のヘルヘイム皇帝とする事を危惧したのであって、オリアスが敵対者となる事など考えていなかった。

 それまでオリアスはアグレウスの協力者であり、ヨトゥンヘイムとの良き仲介者であり、仲の良い弟だったからだ。

 それに、自分の妃となるのはヘルヘイム皇族の血を引く者で、後継者はその妃を母とする者であるべきだと考えていたから、それに該当しない側室や側室の産んだ子たちは取るに足りぬ者としか考えていなかったのだ。


 アグレウスは、いつの間にか自分とオリアスの間に目に見えぬ溝ができてしまっているのに気づいた。

 オリアスは時折、ヘルヘイムを訪問するほかはヨトゥンヘイムで暮らし、ヨトゥンヘイムの風俗習慣に馴れ親しみ、その価値観の影響を受け、スリュムがフレイヤと結婚する前に側室に産ませた異母兄たちと非常に仲が良いと聞く。


 アグレウスはオリアスを自分だけの弟だと思っていたが、オリアスに取って、兄は彼だけでは無かったのだ。


 アグレウスはオリアスの非難をかわす為、側室の産んだ子であっても母の身分が確かであれば親王・内親王の称号を与えるよう、母のフレイヤに願い出、元が王女である側室たちもそれなりに処遇する為、後宮内での部屋を移し、行動の自由を与えた。

 だがその結果――それが理由の全てという訳でも無いが――ヘルヘイムの勢力図は変わってゆき、主にザガムとダンタリオンを中心とする二つの勢力と、暫く動向を静観しようとする日和見の三つの勢力に分かれた。

 この内、ザガム派とダンタリオン派はともにアグレウスの後継者の地位を狙う者であるから次期ヘルヘイム皇帝としてはアグレウスを支持しているが、第三勢力の中にはアグレウスが危惧する通り、オリアスをヨトゥンヘイムだけでなく、ヘルヘイムの統治者として擁立しようとする者もいるらしかった。



 オリアスを盟友として信頼できなくなると、アグレウスは孤独になった。


 家臣の誰が密かにオリアスを次のヘルヘイム皇帝に推そうとしているのか判らない。

 自分の側近ですら、確かに味方なのだと信じきる事はできなかった。

 兄弟で殺しあう結果となった母フレイヤの兄二人と、密かに暗殺されたと噂される歴史の中の幾人もの皇族の肖像画が、何かを言いたげな口と憐れむような目でこちらを見下ろしているように感じた事も、一度や二度では無かった。


 一方、妃に準ずる者としてひんの称号を与えられた四人の側室たち(それぞれザガム、ダンタリオン、マルバス、フォルカスの生母)は、アグレウスの寵愛を得て妃の位を得ようとやっきになった。

 側室たちは自分の故国と自由に使者のやりとりが出来るようになったので、下手をすればヘルヘイム皇宮の内部事象が彼女たちの故国に筒抜けになってしまう。

 保護国の名目で支配しているとは言え、こちらに何らかの弱みがあると看做されれば、最悪、反乱を起こされる可能性もある。


 だが側室たちは――故国を滅ぼされたフォルカスの母を除いて――ヘルヘイムの復興に寄与してアグレウスの立場を固める為に必要な存在でもあったから、そう無碍むげにもできなかった。

 事実、彼女たちは虜囚のような扱いを受けていた頃とは違って、積極的に故国に働きかけてヘルヘイム皇家に協力するよう努めており、ヨトゥンヘイムが力ずくで征服した国々でたびたび反乱が起きているのと対照的に、良好な関係を築いていた。

 その事は無論、アグレウスの望んだ通りであるが、それまで取るに足りないと思っていた者たちに対して気を配らねばならなくなった事、寝所にまで政争が持ち込まれるようになった事で、アグレウスは心の平穏を乱されるようになった。


 アグレウスがアールヴの母となる女と出会ったのは、そんな状況の下であった。


 彼女の故国は王国の規模に満たない公国で、ヘルヘイムへの朝貢を拒否した為、アグレウスは女皇フレイヤの名の下に攻略を命じた。

 この時、オリアスは別の戦の指揮を取っており、ヨトゥンヘイム軍はヘルヘイムの将軍に率いられて戦場に向かったが、命令を無視して勝手に振る舞い、殺戮と略奪の限りを尽くした。

 それが済むと満足した彼らは勝手にヘルヘイムの駐屯地に戻ったが、大公一家はヨトゥンヘイム軍の暴虐を恐れて自害した後だった。


 いかにも遺恨を残しそうな戦のやり方に、アグレウスは頭を痛めた。

 フォルカスの母の故国のように、度重なる降伏勧告を無視して抗戦を貫いたのであれば、見せしめとして滅ぼす事にも意味がある。

 降伏すれば保護国とし、国としての体面とそれなりの自治を認める飴と、従わなかった国を徹底して滅ぼす鞭の使い分けである。

 だが、一度朝貢を拒否しただけで蹂躙するのは、やりすぎと言える。


 この時の失態の原因は、ヘルヘイムにおけるオリアスの影響力を抑える為、オリアスではなくヘルヘイムの将軍にヨトゥンヘイム軍を指揮させたアグレウスの認識不足にあった。

 彼自身、戦場に出た事がないので、ヨトゥンヘイム軍がどれほど獰猛か、知らなかったのである。

 もっと言えば、ヨトゥンヘイムの戦士は屈強だが誇り高く、自分より弱い者を手に掛けたりはしないのだというオリアスの言葉を、アグレウスが信じたのも失策の原因となった。

 オリアスが言ったのはエインヘリャルと呼ばれる強く名誉ある戦士の事であり、全ての兵士がそれに該当する訳ではなかったのだ。

 オリアスは虐殺の話に憤り、全てのヨトゥンヘイム軍を一旦、引き上げさせて別の駐留軍を送り込んできた。

 個別に詮議して卑劣な振る舞いを犯した者は処罰したとオリアスは語ったが、どんな罰を下したのか、アグレウスは聞く気になれなかった。


 戦――と言うより殆ど一方的な殺戮――の後、わずかに生き残った公国の廷臣たちをヘルヘイム宮殿の一室に集め、アグレウスは善後策を講じようとしていた。

 大公一家は死に絶えてしまったが、その血を引く者は貴族の中に残っているかも知れない。

 だが、あれだけの暴虐が尽くされてしまった後で融和策を取るのは、却って逆効果となる可能性の方が高いだろう。

 であれば、生き残りの者たちの口を封じ、度重なる降伏勧告を無視したゆえに滅ぼしたのだと噂を流す方が上策か…………。


 そう、アグレウスが考えを巡らせていた時、視界に入ったのは一人の少女――実際には、少女のように見える華奢で小柄な女――だった。

 その簡素な服装から、少女が貴族ではなく、ここに連れて来られた誰かの侍女である事はすぐに見て取れた。

 実際、少女の隣で絶望に満ちた暗い顔で震えているのが、彼女の女主人であるらしかった。

 少女は女主人を励まそうとしてか、微かに微笑さえ浮かべて何かを静かに語りかけていた。

 他の者たちが皆、絶望と恐怖に震えている中で、少女の周囲の時だけが平穏に流れているかのようだった。


 その態度に興味を覚え、アグレウスは少女をそば近くに連れて来させた。

 細い両腕を武装した兵士に掴まれているにもかかわらず、少女は恐れを見せなかった。

 祖国を蹂躙した敵に対する憎悪もそこには無かった。

 わずかに目を伏せ、ただ静かにそこに立っていた。


『何を話していた?』

『お嬢様をお慰めしておりました』

 問われて、少女は答えた。その声も、震えてはいなかった。

『この期に及んでまだ助かる見込みがあるとでも思っているのか?』

『わたくしのような者にはわかり兼ねます』

『戦で何があったか、知らぬのか?』


 その問いに、少女は顔を上げ、アグレウスを見た。

 清楚な美しさをたたえた白い顔がわずかに曇り、ゆっくりと目を閉じる。


『とても恐ろしいことが起きたのだと、伺っております。火の手が上がるのは……この目でも見ておりました』

 言って、少女は再び俯いた。

『私が憎いか?』


 訊いてから、アグレウスは意外に思った。

 なぜそんな事を訊いたのか、自分でも判らない。


『お恨み申してはおりません』

『私があそこで震えているそなたの女主人を殺しても、か?』

 その言葉に、少女の唇がぴくりと震えた。

 それでも、少女は顔を上げ、アグレウスをまっすぐに見た。

『お恨みは致しません。ただ……とても哀しゅうございます』

 少女の薄い亜麻色の瞳には、静かな光があった。

 この女は、全てを受け入れ、覚悟し、だがまだ諦めてはいないのだ――そう、アグレウスは思った。


 アグレウスは少女――名を、リディアといった――を側室とする事を決め、他の者たちは殺さずそのまま幽閉した。


 その夜から、アグレウスは常にリディアに夜伽よとぎを申し付けた。

 嬪たちの寵愛争いで失われた平穏を、彼女がもたらしてくれるからだった。

 だが身分の低い女に寵愛を奪われた事で嬪たちは憤り、さまざまな手を尽くしてリディアに嫌がらせを行った。

 それでもリディアは何も言わなかったので、アグレウスはその事を知らずにいた。


 やがてリディアは彼女に似た男の子を産み落としたが、我が子をその腕に抱く間もなく鬼籍に入った。

 嬪たちの誰かによって毒を盛られたのだという噂が密かに囁かれたが、それがアグレウスの耳に入る事は無かった。

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