第3話


 恭介は、盆休みに有給休暇をプラスして、両親と高校一年生の妹と四人でスイス・フランスの十日間の旅行に出発した。

 母は、飛行機に乗ること自体が初体験なので、座席でベルトを締め終わると緊張した面持ちで「本当に、大丈夫かしら?」と、小声で尋ねた。母は、補助輪のない自転車を初めて乗る子供を思わせる――心細そうな表情をしていた。

 父は、笑いながら「大丈夫だよ。わしなど、会社の出張で何度も飛行機に乗っているが、死んだ経験がない」と、ジョークを飛ばした。

 恭介は「母さん、僕もそうだよ。飛行機に乗っても、今のところ、僕も生きているよ」

 チューリッヒ空港に着くと、母はジェット・コースターから降りたばかりの子供のように、胸をなで下ろして喜んでいた。

 初日のスイス観光では、チューリッヒからベルンに移動して旧市街の街並みを散策した。「牢獄塔」やマルクト広場の「時計塔」や、クマ公園の「ベーレンパルク」、バラ公園の「ローゼンガルテン」などを徒歩で回って見学した。旧市街地は、アーレ川が湾曲する場所に築かれているので、範囲は狭く一日で隅々まで見物できた。昼食はレストランで、ピザを頬張り、ホテルでの夕食は、牛フィレ肉のオイル・フォンデュを堪能した。

 翌日はベルンを出て、レイル・パスを利用してツェルマットでホテルにチェック・インした。ツェルマットでは、ゴルナーグラート鉄道に乗り四十分で標高三〇八九mのゴルナーグラートの山頂に登った。山頂の展望台からは、マッターホルンを始め、モンテローザやリースカム、ブライトホルンなどの名峰や数々の氷河も同時に見渡せる絶景が広がっていた。

 山頂に立つと、妹は大きく伸びをして周囲の景色を肉眼で見まわし「ああーっ、今まで生きてきて、良かったわ」と、大きな声で喜びを表現した。

 恭介たちは、再びゴルナーグラート鉄道に五分間乗り、ローテンボーデン駅で下車した。駅から七分歩くと、リッフェル湖に到着した。湖面に映し出される「逆さマッターホルン」は、山容水態と表現するにふさわしい眺めだった。四人で、湖の周囲を歩いていると「シュヴァルツナーゼンシャーフ」と呼ばれる黒い顔の羊の群れが、のんびりと山肌を登って行くのが見えた。恭介は、爽やかで伸びやかな気分が、胸の内に広がるのを感じていた。

 下山してから、ホテルや有名ブランドのブティックが立ち並ぶ目抜き通り「バーンホフシュトラッセ」のレストランで昼食をした。スイスの伝統料理と、パスタ料理のラビオリを注文し、ワインの馥郁とした味を堪能した。午後は買い物をし、夕食もバーンホフシュトラッセでソーセージやシュニッツェルの味を満喫した。

 スイスの三日目は、レイル・パスで「氷河急行」に乗車し、クールで下車した。グラウビュンデン州の州都「クール」は、スイスでは最古の町で、ライン川上流で合流するプレスール川沿いに開けている。町は、四方をアルプス山脈に囲まれており、旧市街の石畳で覆われた路地沿いに、歴史を感じさせる建物が軒を並べていた。ここでは、聖マルティン教会やレーティッシュ博物館や、聖母マリア被昇天大聖堂を訪ねた。恭介たちはクールで中世の街並みと、アルプス山脈の大自然に触れて、眩いばかりの時間を過ごした。

 恭介の意識の内側には、安堵感があった。恭介の頭脳と神経と心臓を結びつける安らぎと、血と肉と骨の中にあり、深い呼吸とゆったりとした鼓動の中にもあった。恭介は、優越感と喜びの兆しを感じたと思うと、全身に広がって行った。

 スイスのホテルをチェック・アウトするときに、従業員が近づきドイツ語で「日本人は、礼儀正しく、清潔で金払いが良いので、大好きです」と告げた。恭介が意味を伝えると、父は「来た甲斐があったな」とほほ笑んだ。

 スイスからフランスのパリには、TGVに乗車して移動した。フランスではパリのホテルにチェック・インすると、最初にノートルダム大聖堂に向かった。この大聖堂は、ローマ・カトリック教会の寺院で荘厳なゴチック建築物だ。建物の中に入ると、彫刻やステンド・グラスによって、聖書の物語や聖人の事績が演出されていた。崇高な美しさに圧倒されつつも、恭介はヴィクトル・ユゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』の情景を思い出した。物語は、ノートルダム大聖堂で鐘を突く醜い男・カジモドが主人公の陰惨な悲劇だった。恭介は、ユゴーが何故、神聖な大聖堂を舞台にして血塗られた物語を描いたのか――と、朧げに考えていた。

 大聖堂を見た後は、カフェ、レストラン、デパート、ブランド・ショップ、アート・ギャラリーが立ち並ぶ、お洒落な街「ル・マレ」を散策した。母が街中を歩き疲れた様子なのでヴォージュ広場に出て芝生に座り、しばらく噴水や赤レンガの建物を見て過ごした。家族で満ち足りた時間を過ごしていた。まるで、恭介たちの心の色を映したように、空は明るくて澄んだブルーだった。「カルチエ・ラタン」では、リュクサンブール公園の花壇で咲き誇る花々や見事な彫刻を見学した。

 セーヌ河畔を歩いていると、ミラボー橋にたどり着いた。橋の上では、アコーデオンで一人の老人がシャンソンを奏でていた。父は気分が高揚したのか――ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる。我らの愛を 私は思い出すべきだろうか 悲しみの後にいつも喜びが来ることを 夜が来て、時の鐘が鳴る 日々は去るが、私は残る――と、ギヨーム・アポリネールの詩『ミラボー橋』の冒頭部分を暗唱した。恭介は、時の流れを美しくも愛おしく、感じていた。

 夕方になりエッフェル塔を見学した。――鉄の貴婦人――の異名で呼ばれるこの塔は夕映えのする姿で、恭介たちを見下ろしていた。

 フランスの二日目は、ルーブル美術館に出かけた。館内では、三十八万点を誇る収蔵品のうち、三万五〇〇〇点にも及ぶ美術品が公開されていた。古代エジプト、古代オリエント、古代ギリシャ・エトルリア・ローマ、イスラム、彫刻、工芸品、絵画、素描・版画の八ジャンルに分類されており、レオナルド・ダヴィンチの『モナ・リザ』やギリシャ文明の『サモトラケのニケ』や『ミロのヴィーナス』の彫像などの美術史上に残る有名作品や、『ハンムラビ法典』が記された石棒や『皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式』などの絵画が展示されていた。

 ルーブル美術館の館内は、さながら叡智の宮殿を体現していて、世界史を学んだ者にとっては、人類の文明の宝庫にも思えた。歴史の記憶をたどりながら、じっくり見学すると、一日や二日では回り切れそうもなかった。恭介は、贅沢な時間を過ごしているのを心地良く、味わっていた。ルーブル美術館では、絵画や彫刻を鑑賞した後で、館内のコントワール・デュ・ルーヴルで、パイのアングレーズ・アプリコを買い求めた。

 美術館を出てチュイルリー庭園やコンコルド広場を見た。コンコルド広場では、古代エジプトのオベリスク『クレオパトラの針』が目を引いた。広場は威風堂々としていたが――フランス革命中に、ルイ十六世やマリー・アントワネットに対するギロチンによる処刑が行われた場所でもあった。

 当初の計画では、広場を出てすぐにシャンゼリゼ通りに行く予定だったが、観光ガイドを見た母が「オルセー美術館に行ってみたい」と希望したので、シャンゼリゼ通りの散策は、翌日に持ち越しとなった。

 オルセー美術館は、十九世紀の美術品を専門に収蔵しており、多くの印象派の絵画を目にできた。ミレーの『落ち穂拾い』、マネの『オランピア』、ルノワールの『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットの舞踏会』、ゴッホの『ローヌ川の星月夜』、アングルの『泉』などの名画が惜しげもなく公開されていた。

 三日目は、有名ブランド・ショップが立ち並ぶシャンゼリゼ通りを歩いた。妹は、小声でシャンソンの『オー・シャンゼリゼ』を口ずさみ、楽しそうな表情を見せたが、恭介には酷く音痴に聞こえた。

「ほう、そんな古い曲を知っているのか」と、妹の顔を見て感心して見せた。

「『オー・シャンゼリゼ』はイブ・モンタンが歌っていた曲ね」

「イブ・モンタンが歌っていたのは『枯葉』という曲だよ」

 シャンゼリゼ通りには、シャンソンが良く似合うのは――、確かだ。この街が、思わず歌い出したくなるムードの街なのは、恭介にもよく理解できた。

 妹は、シャンゼリゼ通りにあるルイ・ヴィトン本店に立ち寄ると、財布の紐が緩くなり、バッグと財布などの小物を購入した。店を出た後で、お洒落なレストランで昼食をとり、地下入口から地下道を通ってエトワール凱旋門に登った。螺旋階段で上まで登ると、パリの素晴らしい街並みが三六〇度展望できた。

 四日目は、ホテルを出て午前十時から始まる「サン・トゥアンの蚤の市」を開催しているのを見物した。古物商たちが、骨董品、宝石、家庭用品、ファッション、電気用品まで販売しており、大勢の客で賑わっていた。

 次に恭介たちは、モンマルトルの丘にあるサクレ・クール寺院を訪ねた。ロマネスクとビザンティンの折衷様式のバシリカ大聖堂で、外壁は石灰岩が使われているので、純白の美しい姿を鑑賞できた。モンマルトルでは、有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ」に立ち寄った。ここの外観は、赤い風車が目印で店の中に入ると、フレンチ・カンカンや大道芸を楽しめた。ムーラン・ルージュでは、各種のショーを見ながら美味しいディナーを堪能した。妹が「まるで、映画の世界みたいね」と感嘆すると、母もしきりに頷いていた。客たちは、全員がスーツなどの正装で来ており、マナーに従って料理を口に運んでいた。

 五日目は、母が憧れていたヴェルサイユ宮殿を訪ねた。東京ディズニーランドの二倍の敷地内に、広々とした庭園とバロック建築の宮殿が壮麗な姿を見せていた。豪華な家具調度品が配置されたマリー・アントワネットの部屋や王の寝室も内覧できた。母も妹も何度も「すごいわね」「素敵ね」と感嘆の声を上げていた。父は、何故か腕組みし「うんうん」と頷いていた。

 フランスでは、ルーブル美術館、オルセー美術館、ヴェルサイユ宮殿と、どこに出かけても日本人の団体旅行客を見かけた。美しい美術品を見ているときも、関西弁の中年女性が「鈴木さん、ちょっとこっちに来て見てみ。これが、モナ・リザの絵らしいわ。綺麗やなあ。ほんまにええなあ。来てよかったなあ」と、大きな声で友人に呼び掛けるのを聞くと、微笑ましい光景でありながらも、興醒めでしかなかった。

 どこにいても、人・人・人の人ごみの中で、多くの日本人に出会った。恭介は、観光気分の傍観者の立ち位置でパリを堪能したかったが、それを妨害するかのごとく、大声で話す日本人に遭うと、気が滅入った。

 恭介たちは、ヴェルサイユ宮殿を出ると、メトロのサン・ジェルマン・デ・プレ駅で下車して、哲学者のサルトルなどの多くの文化人に愛された名店『カフェ・ド・フロール』に立ち寄り、昼食にグラタンとクロワッサンを注文した。食後のコーヒーは、馥郁たる香りが心地よく思えた。恭介はカフェを出ると、周りの景色を注意深く眺めた。首をめぐらすうちに、街並みだけではなく、太陽の日差しや空に漂う雲にも気づいた。不思議にも、自分の周囲にある空気までが見える気がした。

 夜はパリの三ツ星レストラン『ラルページュ』で食事した。十三皿の料理はいずれも洗練されており、恭介たちに至福の時間を提供した。どの料理も、厚みのある味と香りで、恭介の鼻孔と口の中が満たされていた。

 カフェやレストランのほかに、恭介たちはフランスの大手百貨店『ギャラリー・ラファイエット』を訪ねた。ここでは、可憐なパリジェンヌたちだけではなく、中高年層の主婦やサラリーマンなど多様な人たちがショッピングに訪れていた。

 恭介は、ここではマルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』に描かれていた十九世紀のパリの街の魅力を思い出し、自分が今、そこに来ているのを嬉しく感じていた。

 帰国前に土産物を買いに出かけると、免税品店では、土産物の香水や洋酒や煙草を大量にまとめ買いする日本人観光客の姿が目に付いた。旅行は、機中泊を含んで八泊十日となったので、一か所に長居ができなかったものの、それなりに充実していた。

       ※

 プラザ合意によるドル高への協調介入の後で、日本では円高になったため、円高対策として日銀は低金利政策を強いられた。その結果、株価が上昇し、余剰資金を手にした投資家たちは、不動産に投資し続けた。恭介には――風が吹けば桶屋が儲かる――と同様の当然の帰結に思えた。テレビ番組では――株価と地価のバブルは、永遠に続きさえすれば何らの問題がなく、経済全体を良くする好循環につながる――と主張し、あおり続けるコメンテーターの姿が目に付いた。

 恭介の目には、マルチ商法の新規加盟者の勧誘で――無限の連鎖が続けば、報酬も無限に増え続けると主張するのと同質の危うさと、嘘くささが潜んでいるかに映っていた。彼らは――バブルによる好景気――には悪い意味はなく、意図的にバブルを破裂させる危険を提唱しているかに思えた。

 一九八九年十月、朝刊の一面に――三菱地所がロックフェラー・グループの株式を五十一%取得し、マンハッタンにあるロックフェラー・センターを一二〇〇億円内外で買収した――と、記されていた。

「アメリカの反感を買わなければいいのですが……」恭介は、分譲マンションの事務所で亀山に、不安を漏らした。

「渋江さんの読みは、鋭いと思います。ロックフェラー・センターは、アメリカを象徴するビルなので、神経を逆なでしそうですね」

 バブルで膨れ上がった経済状態に対して、いかに幕引きするかに恭介は注目していたものの、政府の大胆な施策には耳を疑わざるを得なかった。

 一九八九年十二月になり、日銀の三重野康総裁は――株価と地価を半分に下落させる――と宣言すると、矢継ぎ早に金融引締め政策を実施した。恭介は――羹に懲りて膾を吹く――の譬えと同様の過剰反応ではないか……と、心底恐ろしくなった。不可測で蓋然性のない現実に向き合うと、人は経験則に照らし合わせ、大胆な施策を講じるケースがある。恭介は、政策のあまりの大胆さに一抹の不安を感じた。

 それは、恭介にとっても個人的経験をはるかに超える事象であるため、正確にとらえられず、時間と共に考える意味自体が損なわれそうな気がしていた。とてもじゃないが、一人の人間の知力では、答えが見つかりそうもなかった。

 休日に、心斎橋商店街を歩くと、アーケードはクリスマスの装いで、イルミネーションが点灯されており、クリスマス・キャロルが、あちらこちらの店内から漏れ聞こえてきた。恭介には、どこか悲しげなものに思えた。

 極端に膨らんだ泡を破裂させると、実体経済に重篤な障害が生じ、企業や個人が蓄積した資産価値を失わせるのは必至となった。それは、多くの企業の倒産や、個人の自己破産……、さらには日常生活が立ち行かなくなった人々に対して――破滅あるいは、自殺への悪路を歩め――と、促しているのも同然に思えていた。

『かちかち山』のタヌキのように、泥の船に乗せられる――と、直感していた。次世代に夢を紡ぐためには、繊維をうまくねじり合わせ、丈夫な経済の糸をつくりあげる必要があった。

 経済学では正常価格は、市場価格のような需給関係で変動するものとは異なり、長期的に見て安定的な価格を指摘していた。恭介は……、いきなり半額にする政策に危険を感じた。恭介にとっては、正常価格とは、売る意思のない売り手と、買う意思のない買い手との間で取引された抽象の価格ではなかった。むしろ、時代を背景とする社会情勢下において、妥当で合理的な適正価格=正常価格に推移していくべく、調整する方向性こそが必要だと分析していた。

 一九八九年の年末に三万八九一五円の最高値をつけた株価は、年が明けると四万円を突破すると、エコノミストたちは予想していた。だが、予想に反して一九九〇年の正月の大発会から、株価が下がり始めた。何かが……狂い始めていた。

 従来なら、正月はご祝儀相場で株価が上昇するのが当然と思われていた。恭介は不吉な予兆のように考えて「株価に連動して、地価も、近いうちに下がりますよ」と、周囲に触れ回ったものの、誰一人として恭介の意見に賛同しなかった。

「株価は、市場の期待を受けたり、商流の変化に反応したりして、乱高下するのはよくある展開だ。特別視するほどではない。日銀の三重野総裁も、国民の資産を急激に失わせるリスクの大きさを知っているはずだ。仮に、大きく下落したとしても、政治家や大蔵省の官僚たちは、二の矢、三の矢で対応し、国民が受ける傷を小さくする」

「はたして、そうでしょうか? 彼らが、経済の流れを理解していたら、日本経済が極端なまでに、実態を乖離したものにならなかった気がします。経済状況を全体の流れではなく、定点でしか観測しなかった結果ではないでしょうか?」

「何を言う。君も知っているように、銀行融資は不動産を担保にしている。地価を暴落させれば担保割れが生じて、資金繰りの悪化を招く。もし、不良債権を抱えれば、銀行は処理に労力を費やし、融資を制限せざるを得なくなる。そうなると、国内のあらゆる企業の業績を悪化させるのは、必至だ。大蔵省の官僚や日銀の職員は、日本を代表するエリート集団だ。彼らは、絶対に無茶はしないよ」

 経済通で知られる田丸は、恭介の意見を自信満々に、真っ向から否定した。係長が否定したので、恭介はむしろほっとしていた。現実の人生は、混沌とした理不尽で満ちていたが、頭の中の想像は、奇妙なぐらい整然としていて矛盾がなく思えた。それが、錯誤や経験不足による場合もあるので、恭介は納得せざるを得なかった。

 恭介は、日本は少子高齢化社会になりつつあり、さらに老齢年金の問題が浮上し、先行きに暗雲が立ち込める――と予測して、日本の将来は楽観視できないと考えていた。同期入社で、友人の如月は「人口構造も、経済も、生き物と同様に、危険を察知すると、従来のパターンを変化させて適応できるぐらい柔軟だ。日本人は、生真面目で危機意識もあり、集団志向で勤勉な国民なので、備えを万全にして、復活を遂げているはずだ。何事も、悲観的にしかとらえない君の方が問題だ」と、言い捨てた。

 人に共感する力は、努力しても身につけるべき能力であり、対人関係に最も必要なスキルだと、恭介は考えていた。だが、それに反して、如月は、他人に共感しないタイプでありながら、自己演出がうまく、上司に売り込むのも巧妙だった。恭介は、悔しい反面で如月の性分が羨ましかった。

 一九九〇年の首都圏の分譲マンションの価格は平均年収の十倍を超え、東京都心では二十倍近くに跳ね上がっていた。全国的に一億円を超える土地資産保有者が増えていた。さらに、エコノミストの試算では、現時点で東京の山手線内側の土地価格で、アメリカ全土が買える算出結果が判明していた。

 大蔵省銀行局も、日銀の方針に合わせて、地価抑制策を講じ始めた。経済は血の通わない数字のゲームとは異なり、国民の血と汗の結晶でもあった。恭介には、地価を半分にするのが妥当だとしても、あまりにも短兵急に思われた。政策によって、国民の財産を侵奪するのも止むなし――とした場合に、悪人を処罰する構えで臨むのは、酷薄すぎる気がした。もっというと、恭介には、世界情勢が激変するなかで、驕り高ぶるあまりに――ゆるやかで確実な変革――を選ばなかったかに見えていた。

 池の中に投じられた小石は、波の輪をどんどん広げて、問題を大きくしていく。だが、それを予感しながらも、多くの波紋を一人の手で扱うのは到底、無理だった。誰一人として、耳を傾けてくれなかった。

 経済学上の計算は、皮算用・胸算用ではなく、純粋に数学的に割り出したものでなければならなかった。それゆえ、恭介は胸の中に生じた不安を簡単には拭えない気がしていた。

 一九九〇年三月、大蔵省から金融機関に対して通達が出され、不動産融資の――総量規制――が行われた。銀行は不動産融資を煽り、地価高騰に拍車をかけた張本人だったが――暴走車に急ブレーキをかけた状態――と、同様に危険にさらされるのが決定づけられた。

 蓄財には才能が必要なように、質素に生きるのにも才能が必要となる。だが、贅沢な暮らしの後の耐乏生活には、出血の痛みと苦しみを伴うのが――恭介には、容易にありありと想像できた。国民の生活は……抽象観念で描く幻想ではなく、残酷なまでに人々の日々の暮らしの現実で成り立っていた。

 恭介の目の前の……現実世界は、驚くほど複雑微妙に構築されていて、善悪、美醜、貧富、愛と憎悪、天国と地獄の間を、無限の振り子のごとく揺れ続ける巨大な装置なのではないか――と思うと、めまいを感じずにいられなかった。

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