友人

 廃墟と化した背の高い建物の屋上から景色を眺めていると、背後から声をかけられた。

「やはり、此処だったのですね」

 振り返らずとも、相手が誰なのかはその声で分かった。

 私の隣に腰を下ろした友人である彼女に目を向けることなく、何故この場所にいることが分かったのかと問うた。

 その問いに、彼女もまた私と同じように景色を眺めながら、

「嫌なことがあったとき、この場所で一日中景色を眺め続けると、教えてくれたではありませんか。学校に来ることがなくなり、あなたとの交際を終えた相手にも話を聞きましたが、心当たりが無いということでしたので、もしかするとこの場所かと考えたのです」

 そのような返答をした後、彼女は自分から口を開くことが無くなった。

 今の私には、慰めの言葉など無意味だと悟っているのだろうか。

 それは、正しい判断である。

 数十年も愛していた夫の浮気相手を調査する途中で生命を奪われたかと思いきや、過去に戻るという想像もしたことがなかった事態に遭遇したためにそれを利用し、夫が浮気をすることがないように未来のために手を打とうとすれば、夫は私の恋人と化す前から義理の母親と関係を持っていたという事実を知るという経験をした人間に対して、何を言うことができるのだろうか。

 おそらく、何も無いだろう。

 下手な慰めや同情の言葉を吐かれたとしても、私の気持ちが他者に分かるわけがないのだ。

 これから先、私は夫が不在の世界を生きていかなければならない。

 元々は、夫が浮気をしていない幸福な未来を迎えるために動いていたが、今後はそのような行動をする必要は無くなり、私は訪れることがない未来の記憶を持ちながら、他の人間たちと同様に、暗闇の中を手探りで進んでいかなければならなくなったのだ。

 それは、人間として自然の状態なのだが、私は不安だった。

 愛する夫との幸福な未来をその手に掴むためならば、幾らでも自分を犠牲にすることが出来ると考えていたが、その原動力を失った今、私は何のために生きれば良いのだろうか。

 愛していた相手と別れ、孤独に生きていかなければならなくなってしまったという不安を伝えると、彼女は微笑を浮かべながら、

「あなたの恋人とは異なり、私があなたから離れることはありません。有用な助言をすることはあまり出来ませんが、それでも孤独に震える日があれば、今こうしているように、私があなたの隣に座りましょう」

 そのような優しい言葉をかけてきた彼女に、私は感謝の言葉を吐いた。

 その優しさゆえに、彼女はあのような手紙を出したのだろう。

 私の下駄箱に入っていた手紙について言及すると、彼女は一瞬目を見開いたが、即座に口元を緩めると、

「何故、気が付いたのですか。文字の書き方、言葉遣いなどには細心の注意を払っていたのですが」

 鎌をかけただけだが、その言葉から、私は確信した。

 彼女もまた、私と同じように、未来の記憶を持ちながら過去に戻った人間だということを。


***


 夫の義母とのやり取りの中で、私は夫との記憶を思い出していた。

 その中で、夫と交際を開始したばかりのときに起きた、私が階段から転がり落ちた一件において、疑問を抱いたのだ。

 私が記憶している限り、階段から転がり落ちた現場に、彼女は存在していなかったはずなのである。

 過去に戻った私が最初に遭遇した出来事であり、何の行動もしていなかったことから、私の記憶に存在している出来事と異なる事態に直面するはずはないのだ。

 過去に戻ったばかりであるために、完全に頭が働いているわけではなかったのか、当時の私は細部まで思い出すことができていなかったが、改めて考えてみると、記憶に存在していなかった彼女が姿を現しているということは、奇妙な話だった。

 利き手の人差し指が折れているという点が過去と一致していたということにばかり目を向けていたが、私が記憶している限りでは、病院に付き添ってくれた人間は、夫と彼女ではなく、夫だけだったのである。

 では、何故存在していなかったはずの彼女が、あの現場に存在していたのか。

 それは、そのときの彼女もまた過去に戻ったばかりであり、現場の状況から、私が怪我をすることを知っていたからではないか。

 そして、私が夫の浮気相手を突き止めようとしている姿を見て、やがて夫の義母に辿り着いた際に負ってしまうであろう私の心の傷を想像し、それを案じたために、あのような手紙を出したのではないか。

 何故なら、そもそも未来において夫が浮気をしているという情報を伝えてきたのは、彼女だったからだ。

 未来の彼女が夫と義母との関係を私に伝えようとしなかったのは、そのおぞましい事実に私が耐えることができないと気を遣ったためなのかもしれない。

 だからこそ、浮気相手の正体を明かすことなく、浮気をしているという事実のみを伝えることで、私が夫から離れることを期待していたのかもしれなかった。

 だが、彼女にとって予想外だったのは、私が己の目で浮気現場を確認するまでは、その情報を信じようとしなかったということだろう。

 そして、現場を押さえようとした結果、私の生命は奪われてしまった。

 自分が情報を伝えなければ、私が生命を奪われるような事態に至ることはなかったと後悔したために、私と同じように過去に戻ると、直接的な情報提供は避けながらも忠告を行い、これまで以上に私のことを気遣ってくれたのだろう。

 私の推理を伝えると、彼女は首を左右に振った。

「ほとんどの点においては、あなたの指摘の通りですが、誤っている部分があります」

 それは何かと問うと、彼女は神妙な面持ちで、

「過去に戻る前の私は、あなたが思うほどに良い人間ではなかったのです」


***


 いわく、彼女が階段での事故現場に居合わせていたのは、彼女こそが、私の背中を押して、階段から落ちるようにした張本人だったためらしい。

 その言葉に、私は耳を疑った。

 彼女は今も昔も、友人として私を支えてくれていたではないか。

 それに加えて、彼女は、私を傷つけるような人間ではなかったはずである。

 私がそのように告げると、彼女は首を横に振った。

「私にとって、あなたは唯一の友人です。あなたと一秒でも長く、同じ時間を過ごしたいと思っていましたが、あなたに恋人が出来たことを知り、私は動揺してしまったのです。このままでは、私と過ごす時間が減ってしまうのではないか、と」

 彼女は両手を開き、それを見つめながら、

「それは、醜い嫉妬による行動でした。あなたが怪我をすれば、同性である私が恋人よりも直接的にあなたのことを支えることができるようになり、それは結果として、以前よりも多くの時間をあなたと共に過ごすことができるようになるのではないかと考えたのです。私生活はともかく、学校生活において、ほとんどの時間をあなたと共に過ごすことができるようなったことは、喜ばしいことでした」

 確かに、彼女が私の代わりに授業の内容を記録してくれていなければ、私の学業成績は悪化する一途をたどっていただろう。

 他にも、教室を移動する際には私の代わりに荷物を持ってくれたりと、様々な場面において、彼女は私の助けとなってくれていた。

 彼女が存在していなければ不便な生活を強いられていただろうが、そのような生活をすることになった原因が彼女であったとは、想像もしていなかった。

 彼女は手を閉じると、儚い笑みを浮かべた。

「ですが、それは一時的なものに過ぎませんでした。学生という身分を失えば、それぞれの道を歩むことになり、必然的に共に過ごす時間が減ってしまうことになるのですから」

 それでも、彼女は学校を卒業してからも、度々私に連絡していた。

 別段、私は彼女との時間を苦痛とは考えていなかったために、用事が無ければ会っていたはずである。

 そのように考えたところで、私は気が付いた。

 夫と結婚してからは、彼女との時間がめっきり減っていたのである。

 仕事や育児を理由に、私は彼女の誘いを何度も断っていたのだ。

 だからこそ、夫の浮気という看過することができない情報を伝える機会を設けることで、私と再会することができると考えたのだろう。

 実際、彼女と数年ぶりに会うことになったのは、その情報を聞くためだった。

 私がそのことに気が付いたことを察したのだろう、彼女は軽く頷いた。

「理由はどのようなものであろうとも、あなたと再び会うことができたことは、私にとってこれ以上はないほどに嬉しいことでした」

 其処で彼女は沈痛な面持ちへと変化すると、

「ですが、あなたは私の言葉を信じようとはせず、自分の目で確認するまでは、夫の浮気を認めることはないと告げました。これまで私の話を疑うことなく聞いてくれたあなたのその反応に、私は傷ついたのです。私の唯一の友人は、そのようなことをする人間ではなかった。ゆえに、私は抱いてはならない思考を抱いてしまったのです」

 彼女は私に目を向けると、

「私が知っているあなたではないのならば、私にはもう必要が無い、ということです。私が望んでいるあなたという人間は、私の記憶の中では生き続けているのですから、その記憶を汚すような存在は、消えるべきだと考えたのです」

 そのような思考を抱いた結果、夫が浮気の際に使っている宿泊施設の場所を伝え、私がその場所を見張っているときに、彼女は私を襲ったということなのだろう。

 つまり、彼女は私を殺めた犯人なのである。

 その事実に気付いたと同時に、私は彼女から離れてしまった。

 生き返ることができたとはいえ、己の生命を一度奪った人間を前に落ち着くことができる人間など、存在していないだろう。

 離れてから、このような行動は彼女を刺激するだけではないかと考えたが、彼女はその場から動くことなく、力のない笑みを浮かべるばかりだった。

「安心してください。今の私には、あなたを傷つけようなどという思考はありませんから。あなたを殺めたことを、私は海よりも深く反省しているのです。そもそも私がそれまで生き続けることが出来ていたのは、虐げられていた私をあなたが救ってくれたからなのです。あなたが助けてくれなければ、苦痛の日々から逃れるために、私は自らの手で生命活動を終了させていたことでしょう。その恩義も忘れて、自分の知っている人間ではなくなったからという理由であなたの生命を奪うなど、それは私を虐げていた人間たちと何の変わりもなかったことに気が付いたのです。ですが、そのときには、既にあなたの生命活動は終焉を迎えていました。其処で私は己の行為を後悔し、あなたに謝罪の意思を示すために、あなたを殺める際に使用した刃物で、自らの首を切ったのです」

 彼女は口元を緩め、屋上からの景色を眺めながら、

「私があなたに対する殺意を抱いたまま過去に戻っていれば、あなたの生命を奪う機会など、幾らでもありました。そうしなかったのは、ひとえに自身の行いを反省し、あなたへの罪滅ぼしとして、この人生を捧げようと決めたからなのです」

 親しい友人に対してこのような思考を抱くのは間違っているだろうが、その言葉を信ずることができる証拠は存在しているのだろうか。

 たとえ私の生命が奪われたという事件がこの時代においては未だに起こってはいないとはいえ、私と彼女の記憶の中には、存在している。

 どのような理由があろうとも、自分を殺めた人間の言葉を信ずることができるような状況は、私には想像することができなかったのである。

 私の言葉に、彼女は首肯を返すと、やおら立ち上がった。

「これが、証拠です」

 彼女は両腕を広げると、屋上の縁に立った。

 一体、彼女は何をしているというのだろうか。

 身体を軽く押されただけで地面に落下していき、絶命を避けることはできないというこの状況を、何故彼女は作り出したのだろうか。

 目を丸くする私に対して、彼女は笑みを浮かべながら、

「死を以て己の罪を償うなど、陳腐な行為ですが、あなたに信じてもらうためには、これが最も良い方法なのです」

 思わず、私は彼女に向かって手を伸ばしていた。

 このときの私は、おそらく彼女のことを、自分を殺めた人間としてではなく、一人の友人として見ていたのだろう。

 そうでなければ、彼女を助けるような真似をすることはないはずである。

 自分を殺めた人間であるということを理解しながらも、彼女に救いの手を差し伸べたことを思えば、彼女に対する悪感情はそれほど強いものではなかったのかもしれない。

 未来において、彼女が浮気相手の存在を伝えてくれなければ、過去に戻った私が浮気相手を突き止めようとすることはなく、その結果、夫が義母と関係を持っているということを知ることになり、夫との関係を絶とうとすることはなかっただろう。

 そのことに対して、私は彼女に感謝していたのかもしれない。

 義理とはいえ、母親と関係を持っている人間を愛し続け、空虚な愛の言葉を吐く相手を受け入れ続けるなど、想像しただけで気分が悪くなるようなことだったからだ。

 自分を殺めた人間の言葉を簡単には信ずることはできないが、信じようと努力することはできる。

 そもそも、彼女が凶行に及んだのは、私が夫と関係を築いたためであり、その夫との関係が終焉を迎えた今ならば、彼女が私に危害を加える理由は存在していないのだ。

 それならば、心を入れ替えたという彼女の言葉を信じても良いのではないだろうか。

 私が手を伸ばす姿を見て、彼女はこれまでに見たことがないような幸福そうな笑みを浮かべながら、

「これまで私の友人で有り続けていてくれたことには、感謝しています。そして、あなたを傷つけてしまい、申し訳ありませんでした。これからの人生において、あなたは記憶に無い人々と出会うことでしょう。どのような人間であろうとも、裏では何をしているのか、分かったものではありません。ゆえに、身辺調査はしっかりと行ってください。あなたと出会うことができて、私は幸せ者でした」

 言葉を吐き終えると同時に、彼女は屋上から姿を消した。

 自分までもが落下することがないように屋上から下界を覗くと、地面には赤々とした花が咲いていた。

 私は、その場で叫んだ。

 喉が潰れるまで、叫び続けた。

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