第7話

        8.木曜日午後8時


 次に三鷹の犯人かもしれない男から電話があったのは、翌日の夜だった。八時を過ぎ、長山がそろそろあがろうとしていたときだ。

「もしもし?」

『本当……なのか?』

 男の声は、すがるように言った。金に困っているというより、生きることに疲れているようだと感じた。

「なにがですか?」

『か、金だよ! 本当に、懸賞金とはべつに一億くれるのか!?』

「はい。こちらの代表が、そう言っています」

『俺がその金を受け取ったら、なにも証言せずに逃げるかもしれないぞ……』

「それでもかまわないと」

『あんたは……代表の部下なんだよな?』

「いいえ……自分は、ここの職員ではありません。警察官です」

 それを聞いた男は、息を大きく吐き出したようだ。

『捕まえる気なのか!?』

「それはありません。私にはできない」

『だが……べつの仲間が逮捕するんじゃないのか!?』

「それは、罪を認めて──あなたが犯人だと仮定していますが、あなたの証言が真実であると認められ、ちゃんと懸賞金が支払われてから、正規の捜査員が逮捕します」

『い、一億だけ持ち逃げしたときは、どうなんだ!?』

「それは、今回の制度とはべつです。ここの代表が個人的にお支払いすると言っている。その金をどう使おうと、持ち逃げしようとあなたの自由です」

 長山は言葉を選びながらしゃべりかけていたが、どう解釈しても、男に持ち逃げしてもいい、とアドバイスしているようなものだった。

「ただし申告しないと、脱税もしくは無申告犯として罪に問われるかもしれません。その場合、調査するのは警察ではなく、税務署でしょうが」

 一応、伝えておいた。

『だ、代表にかわってくれ……』

「いまはいません。ですが、一億の話は進めてかまわないと言われています」

『本当にくれるのか!?』

「受け取り方法を決めてくれれば、すぐにでも」

 男は前回、金融機関での送金には難色を示していた。とはいえ、直接の手渡しも危険があると考えているようだ。

『……じゃあ、いまから言う場所へ、持ってきてくれ』

「わかりました」

 男は、埼玉県越谷市の公園の名前を告げた。都内でないことに一瞬戸惑ったが、長山は了承した。この男に、警察の管轄を考慮してくれとは言えなかった。一億を渡すことは久我個人の好意によるものだから、当然のこと警察の業務ではない。埼玉県警への根回しもできないのだ。

 明日の午後二時──と約束し、通話は切られた。

「犯人からですか?」

 あれから、ずっとくっついている竹宮翔子が、好奇心に瞳を輝かせていた。

「かもしれない、というだけです」

「お金を渡すんですか?」

「そうなりますね」

「一億……」

 彼女は、つぶやくように言った。その言葉には、なにか続きがあったのかもしれない。だが、霧散するように途切れていた。

「どうやって、引き渡すんですか?」

「直接」

「いま確認していた場所ですか?」

 長山は、即答しなかった。彼女がついていくと申し出ることがわかっていたからだ。

「一人で行くんですか?」

「約束ですから」

 もしこれが身代金の引き渡しだったとしたら、警察が一人で行くと約束しても、一人で行くことは絶対にありえない。が、今回はそうもいかないだろう。

「わたしも行きます」

 つれていってください──ではなかった。

「い、いや……」

 まさか、そんなに強く言われるとは思ってもみなかったので、とても困った。

「本当の犯人かもしれないんです。あなたを危険なめに遭わせるわけにはいきません」

「お願いします! 邪魔はしません」

 彼女は頭を深く下げた。調査の密着を許した手前、こうまでされると断れなくなった。

「わかりました。ですが、安全なところにいてもらいますよ」



 翌、金曜日。午後二時──。

 約束の場所で長山は待っていた。ちゃんとした名前のある公園だから、もっと大きなところを想像していたが、ささやかな広さしかない。住宅街にある、ごく普通の公園だ。

 長山は、ベンチに座っていた。その前には、ジュラルミンケースが一つ。世の中には、一億円を入れるためだけの専用ケースがあることを知った。本当にピッタリ一億が収まった。金は昨日の時点で、すでに用意されていた。久我は、また連絡があることを確信していたということだろう。それとも一億程度は、いつでも所持しているのだろうか。

 財団の用意した車で、長山はここまで来た。車内には竹宮翔子がいるはずだ。このベンチ付近は、車からでも見渡せる。とにかく近寄らないようにと注意だけはしておいた。

 チラッと車のほうに長山は眼をやった。助手席にいるはずの翔子の姿は、しかし無かった。心のなかで舌打ちするものの、時間はすでに五分ほど過ぎている。ヘタにこの場を離れるわけにはいかなかった。

 公園には滑り台をはじめ、ブランコ、ジャングルジム、砂場、と基本的な遊戯はそろっていた。見れば、二つあるブランコの片方に、翔子が腰掛けていた。平日のこんな時間にスーツ姿の女性がブランコに乗っているのは、違和感だらけだった。せめて主婦の格好をしているのであれば、まだ風景に溶け込むこともできる。もしくは、オフィス街の公園であったなら。

 長山は周囲を見回した。園内には、自分たちの姿しかなかった。いまならまだ余裕があるから、携帯で彼女にもどるよう伝えることにした。

 携帯を取り出したときに、人の気配を感じた。視界のすみに、人影が見えたのだ。なにげない素振りで、長山はそちらのほうを向いた。慎重な足取りで、男がこちらに近づいていた。

 年齢は、六十前後といったところだろう。白髪頭で老けた印象はあるが、歩調と真っ直ぐな背筋、なによりも長山の刑事としての見立てが、そう判断していた。

「か、金は持ってきたのか!?」

 男は立ち止まると、声を放った。しきりに周囲を気にしている。

「重いですが」

 長山は、ジュラルミンケースに視線を向けた。一億の重さが十キロ。ケースの重さが二、三キロ。想像していたよりは軽い。

「中身を見せてくれ」

「どうぞ」

 長山は、ベンチの上でケースを開けてみせた。札束の群れに眼がくらみそうだった。長山でそうなのだから、男はもっと金に魅了されたことだろう。

「本物なのか!?」

「手に取ってみてください」

 男に束の一つを渡した。男は受け取ったが、ろくに確認することもなくそれを返した。

「わかった。あんたを信じよう」

「ここで話を聞かせてくれますか? それとも後日にしますか?」

「また電話する」

 男はそう言うと、なにも持たずに去っていこうとした。

「これはいらないのですか?」

「いらん。十八億くれれば、それでいい。だが……俺が家につくまでに、だれかに尾行されていると感じたら、もう電話はしない。金もいらない」

 男は、本当に手ぶらで帰ってしまった。一億を、みすみす逃してしまったことになる。

 どういうことだろう? 金に執着があるわけではないのだろうか? それとも、こちらをまだ信じていないのだろうか……。

 わからない。わからないが、金のために三人も殺した凶悪犯とは思えない行動だった。

 長山は、ため息をついた。犯人かもしれない人間と相対したのだから、やはり緊張していた。警察業務ではないので、銃器は携帯していない。久しぶりに、刑事らしい空気感のなかに身をおいた。

 ふと、園内を見回した。そういえば、竹宮翔子はどうしただろうか?

 ブランコに姿はない。車にもどっているのかと、そちらに瞳を動かした。

 いない。

「まさか……」

 急いで携帯を操作した。ダメだ。電源が切られている。

 もしや、いまの男のあとを──。

 男は尾行を感じたら、もうかけない、と言った。いや、そんなことは重要ではない。未解決事件が未解決のままになってしまうのはしのびないが、あの男が十八億を棒に振るだけだ。

 もし男にみつかり、逆上されたら……彼女の身が!

 翔子をつれてきたことに、長山は後悔をしはじめていた。


        * * *


 犯人と思われる男は、住宅街を抜け、繁華街を歩いていた。もう少し行けば、駅に到着する。土地勘のない翔子でも、まわりの雰囲気や案内板でそうだとわかる。

 身長は低く、あきらかに小柄だ。年齢は六十代なのか、七十代なのか……。いずれにしろ、三人もの女性を拳銃で殺害した人間だとは想像もつかない。

 そういうものかもしれない……凶悪犯とは──。

 男の足取りが変わった。それまで淡々としていたものが、急に意思を込めたように早足となった。翔子は引き離されないようについていく。気づかれてはいけないから、間隔も空けなければならない。

 慎重に、慎重に。

 男は、表通りから路地のような小道に入った。この先に、なにがあるのだろう?

 角を曲がった。二十秒ほど遅れて、翔子も曲がる。

 心臓が止まりそうになった。

「!」

 男が、真ん前に立っていた。

「なんか用か!?」

 刺々しい声が襲いかかった。犯人かもしれない男が、眼の前にいる。それだけで、翔子は殺されたような心境になった。

「い、いえ、な、なんでも……」

「つけてたろ!? 刑事か!?」

「ち、ちがい……ます! よく見てください! 警察官には見えないでしょう!?」

 必死に弁解する。

「たしかに見えんな……だが、どこかで眼にしたことがある……」

 たぶん、あの会見の模様をテレビで観ていたのだ。

「いいか、俺はもうなにも言わん! 金もいらん!」

 激昂したように男は言い放った。

「ま、待ってください!」

 振り切って逃げていこうとする男を、なんとかとどめた。

「はなせ!」

 高齢とはいえ、女の力では止められなかった。

 しかし離れていく男の身体が、ふいに制止した。

「うう……」

 くの字に曲がったまま、動かなくなった。胸を押さえて、苦しんでいる。

「どうしました!?」

 翔子は駆け寄る。

「な、なんでもない!」

 男はそう言うが、そのままにはしておけない。

「救急車を呼びます!」

「よ、呼ぶな!」

「で、でも……」

「しばらくジッとしてたら……よくなる」

 男は、かたくなに病院へ行くことを拒否した。殺人犯だからだろうか?

 いや、たしか三鷹の事件では、犯人を特定できる指紋や毛髪などは採取されていなかった。病院に行こうと行くまいと、逮捕にはつながらないはずだ。

「じゃあ、家はどこですか? 送っていきます!」

「信用できん!」

「そんなこと言ってる場合ですか!」

 翔子は自分でも、こんなに強く声を張り上げたことに驚いた。

「行きます! どこですか!?」

 男も面食らったようにおとなしくなった。肩を貸して、翔子は男の家へと向かった。

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