第6話
6.水曜日午後3時
久我に先導され、翔子は情報提供窓口──当初、正式名称は決まっていなかったが、このたび『CC財団情報コールセンター』という名称になった──に案内された。
報道の人間に公開するのは、はじめてなんですよ──そう久我からは、さきほど廊下で耳打ちされていた。編集長や同僚たちの狂喜乱舞する姿が想像できそうだった。人の顔は写さないという条件で撮影も許可されている。オペレーターはすべて女性で、二十人ほどはいるだろうか。次から次に電話がかかってくるようだ。
「あの、有力な情報なんかは、まだないんでしょうか?」
「そういう報告はうけていません」
久我はそう答えたが、たとえ情報が入っていたとしても、素直に教えてはくれないだろう。億を超える金額がかかっているのだ。それに、警察との関係もある。おいそれと部外者に口外はできないはずだ。
「ただ……」
しかし久我は、なにかを言おうとしていた。
「?」
「それらしい電話が、これまでに二件あったということです」
それらしい──そのニュアンスから察するに、第三者からの情報提供ではなく、犯人自らの告白があったようだ。
「一件が、昨夜のうちに。三鷹の強盗殺人です。二件目が、今朝。練馬の一家殺人」
あっさりと、久我は教えてくれた。きっと不思議な顔をしてしまったからだろう。久我はそのあと、こう言った。
「もはや、あなたも、われわれのチームの一員です」
「え?」
「密着取材をしてもらうわけですから、ありのままを書いてもらいたい。そのためには、こちら側に入ってもらいますよ。迷惑ですか?」
「い、いえ! ぜんぜん!」
光栄だし、願ったり叶ったりだし……だがそれと同時に、腹をくくらなければならないことも予感した。悪辣な者に──その一員に、自分もなってしまう……。
「昨夜のほうは、犯人である可能性は、けっして低くはないようです。ですが今朝のほうは、どうも信憑性は薄い。まあ、有力とまではいかない、ということのようです」
翔子は重要な場面に立ち合っているような気持ちになって、息があがっていた。
深呼吸して整える。ゆっくりと室内を見回した。入り口に眼をやったとき、初老の男性が入室してきた。「初老」が本来、四十歳をさす言葉だということは文章を生業とする翔子も当然のごとく知っている。が、現代において四十代はまだ若い。この場合の「初老」は、見た目の印象そのままの「初老」である。記者会見のときにも眼にした人物だった。たしか、警視庁の刑事だったはずだ。名前までは覚えていない。
視線が合った。
「どうも。記者さんでしたよね?」
「は、はい。竹宮翔子といいます」
「長山です」
刑事──長山は、穏やかに名乗った。
「長山さんが、ここでの情報を統括することになっています」
久我が説明してくれた。
「定年間際の身としては、楽な仕事ですよ」
長山は言った。皮肉もこもっていたし、謙遜もこもっていた。
「竹宮さんは取材をする立場ですが、できるかぎり情報を共有してください。警察官という職務上、言えないこともあるでしょうが、彼女はここのスタッフと同等だと思っていただきたい」
久我が、長山にそう告げた。
ここまで特別あつかいされていいものだろうか……翔子は、小躍りしたいのを我慢した。
わかりました、と応えてから長山は席についた。翔子も、すぐ後ろに立った。一分もしないうちに、電話が音をたてた。
「もしもし」
そう言ったきり、しばらく会話はないようだった。むこうの話を熱心に聞いているのではない。相手が無言を通しているのだ。長山のほうも、無理に話をうながす様子はなかった。あくまでも、むこうの言葉を待っている。何人かのオペレーターもそれに気づき、長山を注目している。翔子にも、緊張がはしった。
「もしもし? 昨日の方ですか?」
ようやく、長山が呼びかけた。
「お金は、必ずお支払いしますよ。あなたは犯人ですか?」
相手は、なんと答えたのだろうか?
思わず、ゴクッ、と唾を飲み込んでしまった。
「責任者、ですか? 一応、私がそういうことになっているんですがね。自分は、長山と言います。え? 代表……ですか」
「かわりましょう」
翔子のとなりに立っていた久我が、長山から受話器を取った。
「お電話かわりました。代表の久我です。ええ、必ずお支払いしますよ。確証がほしい、ですか。わかりました。前金として、一億お支払いしましょう。それでいいですか?」
金銭感覚が麻痺しそうな会話が、鼓膜をゆらした。
「いえ、べつにあなたが犯人であろうとなかろうと、犯人につながる情報をもっていようといまいと、関係ありません。ぼくのポケットマネーでお支払いします。口座を言ってくれれば、すぐに振り込みます」
長山の表情にも、驚きがあった。
「え? 金融機関も信用できないというわけですか。では直接、お支払いするしかないですね。大丈夫ですよ。べつに、あなたを犯人と決めつけるわけではありません。それも信用できない……困りましたね」
すると、久我が受話器を長山にもどした。
「またかけるそうです」
涼しげに、久我は言った。
「い、いまの……」
翔子は問いかけた。
「三鷹の犯人かもしれない人物です」
「い、一億というのは……」
本当に支払う気だったのか、真意を知りたかった。
「ええ、払うつもりですよ」
「懸賞金とは、べつにですか?」
「もちろん」
やはり、金銭感覚が狂ってしまう。
「そ、そんなことしてたら……」
破産してしまいますよ──その言葉は、のみ込んでいた。
久我の資産は、想像を絶しているのだ。
「もし、いまの人物から電話が来たら、一億の話をすすめてもらって結構です」
「本当にいいんですか? イタズラかもしれない」
「かまいません」
長山の危惧も、意に介していないようだった。
「一億をドブに捨てるかもしれませんよ」
「たかが一億、ドブに捨てても惜しくありません」
久我の瞳が、悪に輝いたような気がした。翔子は、はじめて金持ちの傲慢さと、野心のようなものを久我のなかに見た。
そして、実感した。
悪辣な者にこそ、金は流れる──ということを。
7.水曜日午後4時
三鷹ディスカウントストア射殺強盗事件。2003年の七月に起こった。閉店後に侵入した犯人よって、三人の女性店員が射殺されている。開けられた金庫から、売上金など三百万円が盗まれていた。被害者を襲った弾丸は、7.62㎜。当時、闇で多く出回っていたトカレフが使用されたと思われる。発射された五発とも被害者に命中し、さらに至近距離で明確な殺意を感じさせることから、最初から殺害するつもりで押し入ったと推理される。これまで、捜査線上には数百人がリストアップされていた。強盗の前科のある人間が大半だったが、いずれも重要参考人までにはいたっていない。
練馬の事件と同様に、その残虐性から外国人犯行説が広くとなえられていた。長山も、事件発生当初はそう考えたものだ。正式に捜査を担当したことはない。が、警視庁に所属する警察官ならば、解決を願わない者は存在しないはずだ。
「長山さんは、当時から刑事だったんですよね?」
「ええ。新宿にいました。刑事課で盗犯担当でしたので、前科者の情報などで捜査本部に協力したことがあります。すぐに、べつの署の生安に移動したので、その後はよくわかりませんがね」
「証拠とかは、なかったんですか?」
竹宮翔子の質問が、とても素朴に感じられた。
「指紋や慰留物などはなかったはずです。弾丸の線条痕からも足はつかなかった」
「お手上げだったんですね」
足はつかなかった──に、かけたのだろうか。その表現に、少し皮肉が込められていたような気がした。だが彼女の表情からは、そんな深い意味はなかったようだ。
今回の懸賞金がかけられた四件のうち、概要のわかる三件の説明を終えたところだった。そのなかで、やはり三鷹の事件に彼女の関心はあるようだ。犯人らしき人物からの電話を知っているのだから、それも当然だ。
「どう思いますか?」
場所は、コールセンターのとなりにある部屋だった。ビル一棟が財団のものだから、とにかく無駄に広い。使用していない空き室のほうが多いのだ。
長山は、翔子からの問いに、すぐには答えられなかった。
「一億円の話にのってくると思いますか?」
「さあ……」
あの電話の主に金が支払われるかどうかは、どうでもよかった。
「もし犯人だったとしても、簡単には支払われないんですよね?」
それは、久我がさきほど約束した懸賞金とはべつの一億の話ではなく、懸賞金十八億のことを言っているようだ。
「もちろんです。その話が本当かどうか、こちらで深く精査します。その結果、情報提供者が犯人であると確定しても、われわれはすぐに逮捕できません」
「懸賞金が支払われてからなんですよね?」
「そうです。正確には、支払いの契約が結ばれてから、ということになります」
まだ始まったばかりの制度だから、警察としても難しい対応を迫られることになるだろう。犯人を知っているのに逮捕できない状態が長期間続いたとしたら、警察の存在意義に関わってくる。契約前に逮捕はできなくとも、身柄の確保はしておくことになるはずだ。この制度を定着させるためには、その部分を明確にしておくことは必要なのかもしれない。だが、犯人は金目的で名乗りをあげるのだ。そういう狡猾な人間に、警察官が遠慮するというのはいかがなものか……。
おそらく、と思う。長山の立場では、上の魂胆など計り知れないが……上は上で、苦悩しているはずなのだ。この制度は、警察の威信を失墜させるものだ。多額の──途方もない大金で、凶悪犯を釣ろうとしている。警察が、この制度を容認するということは、正規の捜査の敗北を認めることだ。
財団へ──久我
「あの……」
遠慮がちに、翔子がなにかを切り出そうとしていた。
「はい?」
「捜査活動……に、わたしも……」
彼女の言わんとしていることはわかった。
「捜査ではなく、私の役目は裏付け調査ですよ」
「そ、その調査に……わたしも同行させてもらえませんか?」
困ったことをお願いされた。
「ダメですか?」
警察の捜査にマスコミの人間が密着することは、それほどめずらしいことではない。テレビ改編期の目玉番組として、警察への密着企画をどこの局でも放送している。
しかし彼女はテレビではなく、雑誌記者だ。テレビの場合、警察としても良いPRの場として、むしろ利用している部分が強い。が、雑誌となると、どうだろう。誌によってはガセネタも多いから、テレビや新聞にくらべて下に見ていることはまちがいない。
久我の意向もあるし、許可したいところだが、警察的には遠慮願いたいところだ。せめて彼女が、新聞記者であったなら……。
「まあ、いいでしょう」
長山は決断した。
「本当ですか!?」
今回の話は、警察の長い歴史のなかでも特別なことだ。政治的な意味合いも強い。いち公務員が判断できることではないのだ。それは長山だけにとどまらない。特命捜査対策の室長もしかりだ。室長は、広報課および刑事部長におうかがいをたてるだろう。だが、そこでも決断までにはいたらない。
刑事部長は、警視総監に話をもっていく。総監も、判断しかねるだろう。そうなると、警察庁へゆだねるかもしれない。警察庁は警察庁で、話を振られても迷惑するだろう。前例のないことは、許可をしない。が、そもそも財団と組んだ段階で、前例から大きくはずれている。頭の固い首脳陣の思考は、すでに停止していると思っていい。そのままたらい回しにされれば、話は与党の幹事長クラスにまで行き着くかもしれない。久我が政治家たちにこの制度をのませた時点で、彼らは同時に《毒》も飲んでいる。
久我の意向をむげにはできないはずだ。
「ですが、すべてを記事にされても困ります」
「わかってます! 長山さんの指示には従いますから」
聞き分けの良い生徒のように、翔子は返事をした。長山は、まるで教師になったような心境になっていた。
* * *
セミの声であふれている。
あれは、いつの夏だったか……。
場所も、いまではあやふやだ。土にまみれた感触だけが、身体に染みついている。
あのときから、自分は《悪》の側に堕ちたのだ。たとえ、悪魔を成敗するためだとしても……。胸の奥に、まだ黒々とした怒りは残っている。それを吐き出したくて、こんなことをしているのか……。
いや、ちがう。それは自分が《悪》だからだ。
あの土のなかに、ヤツは眠っている。いつか眼を醒ます夢を、幾度となく見た。
セミの声。遠い、遠い……。
あばかれる日が、いずれ来るだろう。
それを恐れているのか……待ち望んでいるのか……。
自分でも、わからない。
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