第36話 四日目 ~マレー鉄道・三民族~


 今朝は誰に遠慮することもなく屋台飯を食べられそうだ。ホテルの朝食もけして悪くはないのだが、どうせならば此の地ならではの料理を食べたいと云ってもばちあたらないだろう。

 例えば福建麺ホッケンミー。真っ赤なスープに山海の幸を嫌というほど放りこんだ濃厚で複雑な味は、朝からとるには濃過ぎるほどに濃いメニューだが一度食べると止まらないのが福建麵だ。


 屋台の小姐シャオチエは恐らく大学など出ていない、知的労働とは縁遠い、国際的活動など考えたこともない地域密着の華僑と思われるが、以前さきに述べた通り英語での注文がまったく問題なく通じる。これがマレーシアの実力だ。家では華語、町ではマレー語を話す彼ら華僑は、此の地に生まれ落ちた時から洩れなくバイリンガルだ。また、英語で授業を行う学校も多く、うでなくとも歴史的に英語が準公用語の位置づけにあるマレーシアでは英語は身近でネイティブ並みに話せる者も少なくない。インド人も華語がタミール語に変わるだけで事情は同じだ。


 多くの言語が飛び交うなかで、公用語であるマレー語は全国民が話すことが出来る。実はマレー語はインドネシア語と同じと云ってよいほど近しく、細かい用語に若干違いはあるが会話のさわりになるほどではない。両国にシンガポールをも併せれば三か国に亙り凡そ三億もの人々が同系の言語で意思疎通できる計算だ。

 と云うことは、英語と華語とマレー語をネイティブレベルで話せる中華系マレーシア人は世界で最も多くの人間と会話する語学力を持つ集団なのかも知れない。


 その抜群の語学力を持つポーリィさんは、ホテルに帰ってきた私をロビーで見つけるなり荷造りを急かした。どうやら列車の出発時間を勘違いしていたらしい。だが文句はつけるまい。今日は半島縦断し、首都クアラルンプールへ陸路移動の決行日。飛行機を使えばすぐ着くものを、私の希望で長い列車旅だ。

 当局に私がマークされているとは考えられないものの、やはり世を憚る殺人者であり犯罪組織に属する身でもある。予定外の行動で余計なリスクを負うのは悧巧とは云えない。のみならず、自身が犯罪被害に遇うリスクまで負うのだ。私のねがいはエージェントに歓迎されざる気まぐれだろう。



 タイともシンガポールとも通じているマレー鉄道は複数の路線からなり、その一つがバタワースを起点としている。クアラルンプールまで約六時間、たしかに悠長な旅と云われても仕方ない。

 昼食は列車の中で食べることになりそうなのでポーリィさんが屋台を廻って買ってきてくれた。何が出てくるかはひるのお楽しみだ。


 走りだした列車はとりたてて綺麗でも豪奢でもないが、かと云って不快でも不便でもない普通の車輛だ。乗客たちもおそらく標準的な、市井の人たち。マレー人も華人もインド人もいる中で、マレー系が最も多いのは人口構成そのままの割合なのだろう。宗教、日常言語、その他食習慣をはじめ諸々の文化を異にする彼らは長い時を同じ地に根を張りながら、その血はあまり混淆していないように思える。



 民族自決と云う美しい理念は、世界にあまねく希望と呪いを播いたのだと思えてならない。

 様々な国や地域で自立を目指す者たちと圧制者との対立が内戦を勃発させ、民族間での衝突は繰り返され、呪詛の応酬はエスカレートし怨嗟で地上は穢された。覚醒したのだ、と彼らは云う。それまで複数民族が共存していたのは理想郷に暮らしていたためではなく、だ太平のねむりに沈んでいたに過ぎないと、目覚めた以上はもはやまやかしの平和に戻れないと。


 一つの国家で、少数派であることは辛いことには違いない。思想や主義主張であれば多数派に鞍替えするのも可能だろうが、民族となれば少数派が厭だとて容易に移れるものではない。言語に絶する差別や不利益を受けもしただろう。現に今も受けている者もいる。自民族のみの共同体を作り、他民族の支配や干渉を排して、不当に奪われたほこりと幸福を取り戻そう。それは切実な、それ無くしては今日を生き延びることさえできないほどの、杖であり糧であり祈りであったのかも知れぬ。その美しい夢に人々は一縷の希望を託すしかなかったのかも知れぬ。


 幸いにして民族間の軋轢を知らずに済む環境に育った私は、彼らの考えに異を唱える資格を備えていないと思う。だが一つ、目を逸らしてはならないことがある。

 その美しい夢を実現しようとしたとき、夥しい血が流され数多の無辜の魂が傷つけられた。

 如何どうすればよかったのか、これから如何するべきなのか、答えを出すのは容易ではない。だが我々は、考えることを止めては不可いけないのだろう。


 マレーシアの歴史は一つの答えではあると思う。無論、完全解でないことは承知の上だ。此の国では、多数派であるマレー人が有利になるための法が悪びれもなく健在している。


 なかでも想い起こされるのは、1969年に発生した「5月13日事件」だ。二百人近くが亡くなったいたましいこの事件は、華人とマレー人の民族対立がその原因であり、帰結だった。

 いまだ不分明な点も多い半世紀前の事件について他国人が軽々しく口をさしはさむのはいましめらるべきだろう。くわしい論述は避けるが、兎も角その政治決着はマレー人の圧倒的勝利にわった。

 つまり少数民族は此処でも敗れたわけだが、その後華僑も印僑も分離独立を求めることなく混じり合うこともないまま、わだかまりはあるにせよ、三民族は今も共存を続けている。



 午餐ひる時になり、それぞれの民族がそれぞれの料理を食べ始めた。

 我々の食べ物は、私が外でのんびり朝食をとっていた間にポーリィさんが買いこんでくれていたものだ。外食率の高いマレーシアでは当然テイクアウトも多い。麺も米飯ごはんもカレーもジュースも、頼めば何でもビニール袋に詰めて渡して呉れる。


 今日のメインは中華風の饅頭だ。白い饅頭からこぼれる餡の中には妙に大きい肉の塊。甘辛い匂いが鼻をくすぐる。

 かぶりついた歯は、だが頑丈な骨に行くを阻まれた。肉ごと饅頭を噛み切るつもりだった歯と顎は、思わぬ伏兵に痺れてしまっている。その正体を確かめようと、噛み切り損ねた肉をよく見れば大きな骨のまわりに肉と軟骨がへばりついていた。豚足だ。

 恨めしい思いで隣を見ると、ポーリィさんは涼しい顔で豚足を取り出し器用に肉と骨とを切り分けている。それなら態々わざわざ饅頭にする意味があるのか疑問が湧くが、例えば米国のハンバーガーなどにももはや分けて食べるしかないような構造のものがあるのだから、これはこれで有りなのかも知れない。


 電車の中は冷房が効き過ぎているほどで、常夏の国にいるのに寒さに顫えてしまう。冬を知らないマレーシア人は寒さを感じる器官が欠けているのか半袖一枚で平気な様子だが、四季のある国から来た旅行者ならば何か羽織るものを用意するのが賢明かもしれない。


 外には長閑のどかな水田が広がる。狭い国土で細かく区切られた水田ばかりを見て育った私の目には、その際限ないかのように緑の広がるさまは草原かと見紛うほどだが、風に揺れる穂は慥かに稲に違いない。

 風はスコールの前触れだ。窓を雨粒が叩いた。音は疎らだが一つ一つが大きい。直ぐに雨は勢威を増して天地を蔽い、青かった空は不吉に塗りつぶされた。次々と雷が落ち、稲妻が鮮烈に雨の水田を彩った。マレーシアで雷は身近な脅威だ。頻繁に電気供給を止める上、電気製品の寿命を縮める原因ともなる。人身への被害も珍しくはない。

 と同時に、雷はおそらく農家にとっては恵みでもあるのだろう。日本では稲の妻との言葉の通り、水田への落雷と豊穣の稔りとが結び付けられている。研究者によればその直観は科学的にも裏付けられるそうだ。それがマレーシアでも適用できるかどうかは浅学にして知らないが、少なくとも多量の雨をしたがえた雷神は、熱帯の豊かな稔りに効験あらたかであるに違いない。


 ふと田園の先を見ると、空が真っ青に晴れている。此方こちらは天井に穴が開くかと思うほどの大雨なのに、僅かな距離でこの落差。楽園では時間経過よりも空間移動によって、容易に天気が雨から晴れへと移るものらしい。



 クアラルンプールに着いた時には雨はもう上がっていた。あれほどはげしかった雨も雷も、今は跡形もない。

 駅舎は英国統治時代を髣髴させる、白亜の欧風建築。……なのだが、そこは通過し、停車したのは隣に新たにできた「KLセントラル駅」。旅情を満喫するためならば断然、ふるい駅舎を利用したいところだが新しいものが順次取って代わるのも世の定め。時代変化を嘆いても詮ない。

 もっとも、かつての発展途上国には旧弊なものを廃し、新時代に相応しいもの、新技術の粋をあつめたもので上書きしようとするきらいがあったのが、最近はふるいものもその価値を認め保存する傾向が出ているようだ。歓迎すべきだと思う。



 今夜の食事はナシ・カンダルだ。インド風マレー料理と云えば近いだろうか。最初に皿に米飯ごはんを盛って、その後カウンターへ。其処には沢山の種類の御菜おかずが陳列されている。鶏肉、羊肉、魚、海老、卵、数種のカレー。れでも好きな丈どんどん載せていくのだ。載せ切ったら店員に見せる。店員は皿をひとわたり眺めて、啓示に従い値段をり給う。如何いかなる計算が彼女の頭の中で走ったのかは永遠の謎だ。いずれにせよ、彼女の託宣が三百円を超えることは、まずない。


 今宵の食事の伴はビールにする。はカールスバーグ。癖のない味は日本人向きだろう。欧州ブランドながらマレーシアでは最もポピュラーで、シンガポール製のタイガーが恐らくそれに次ぐ。

 乾杯して旅の疲れを互いに労った。私は自分の趣味だから良いようなものの、ポーリィさんにとっては全く余計な鉄道の旅だった。せめてビールで心身の疲れをほぐして戴こう。


 食事をえ、店からホテルまで十五分ほどの距離をポーリィさんと歩いて戻った。夜普通に出歩けるのは、この街の治安の良さを証している。

 月の見えない熱帯の夜に、高層ビル群がぼやけたライトを街に振り撒く。ひときわ目を惹くのは双子の塔が特徴的なペトロナスツインタワーだ。機械文明の亡霊が幾つもたたずんでいるようなその光景を前にすると、サイバーパンクの世界に迷い込んだ心地になる。三民族が恩讐を胸の奥にかくしながらも共存する近代都市の、夜の幻。その夢がいつまでも破られないことをねがう。


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