第10話 「俺を捨てないで。置いてかないで」と言われて

 どうしよう!


 知らない人みたいだ。


 優しかったはずの夫は、私を組み伏せて無理矢理コトに及ぼうとしている。


 こ、怖い……。


 夫を初めて、怖いと思った。


 私は仕事から帰ったばかりで、家に入った途端に急に夫に迫られていた。

 愛し合って気持ちが通い合っている時の夫の情熱さには、胸がときめいただろう。

 熱く奪われる唇だって、きっとドキドキして。


 だが、颯斗くんがしている複数の人との浮気を知ってしまった今では、……。

 結婚してからもたくさんの女性を抱いて愉しんで、素知らぬ顔で家に帰って来ていた。


 ……イヤ。

 抱かれたくない。


 力では夫に敵わない。

 逃げたい。

 まさか颯斗くんに虫唾が走る日が来るとは思わなかった。


 悔しさと怖さ、怯えて逃げ出したい気持ちがない混ぜになり、私は怒りすらも湧いてきた。


 疲れきった体を奮い立てて、これからされようとしている行為を避けようと抵抗する。


 夫とセックスレスになって随分経っていたから、油断してた。


 颯斗くんは私のことを抱くわけないと気が緩んでいたんだ。


 力強い腕に掴まれベッドに押し倒されて、眼前に男の顔をした颯斗くんがいた。


「……やめて」


 私は叫ばずに、ゆっくりと静かに諭すように颯斗くんに訴えた。

 視線は外さない。

 決して。

 暴力とも言って過言ではない一方的な愛撫には屈しない。


「なぜ? 子供を作るにはセックスするだろ」

「私、子供は欲しくない」

「前は欲しいって言ってたじゃないか」


 体を抑え込まれて首元に口づけが落とされ、夫が私の服を脱がしにかかろうとする手を掴んだ。


「もう一度言うよ? 颯斗くんやめて」

「小夏は俺の奥さんじゃないか。夫の俺が妻を抱いてなにが悪い!」

「外ですましてたじゃない! 今さらやめて」

「子供が欲しいんだ」

「私は颯斗くんとの子供は欲しくない」


 柊くんが、『もし小夏が言いたいと思う切実な場面に出くわしたら、香恋と藤宮の不倫関係を俺たちがしってること、バラして構わない』って言ってくれた。


「はっ? 何言ってんの?」

「離婚して」

「えっ? 離婚? どうしてさ?」

「本当に理由に思い当たらない? 分かっているんでしょう? 妻の他に恋人を作って裏切ったら、不貞行為なんだよ」

「俺は別れない」

「浮気も不倫も離婚の立派な原因になるんだよ。私は颯斗くんしかいなかったのに……」


 颯斗くんの力が緩んだ。

 その隙に私は颯斗くんの支配下から逃げ出した。


「小夏……」

「やめて。近づかないで」

「ごめん。裏切ってごめん。反省するから、逃げないで。俺を捨てないで、置いてかないで。一人にしないでくれ」


 颯斗くんが急に子供みたいにベッドの上でうずくまって、泣き出した。


「どう、愛したら良いのかわからないんだ。俺は母親に捨てられてるから、要らない子なんだよ。小夏は見捨てないって思ったのに……」


 まるで駄々をこねる子供だった。

 私は手を差し伸べそうになる。


「小夏は柊と園田が好きなんだろう。二人だって小夏を大切にしてるのを知ってる。俺はお前らが羨ましかった。どうして、俺はいつも孤独なんだ。満たされないんだ。小夏を抱いても、香恋を抱いても。他に一夜の相手はいくらでもいたって、俺に寄って来るのは火遊びしたい女ばかり。本気で愛してくれる女なんて一人だっていない!」

「私は颯斗くんが好きだったよ」

「嘘だっ! 小夏の心にはいつだって柊のヤツがいた。お前が俺と結婚したのは柊への募った想いと叶わないって気持ちから逃げるためだったろ? 慰めたから、なびいただけだ」


 私は打ちつけられた衝撃で、どうしようもなくなった。

 体が動かない。

 なにか言おうと、告げようとする口も開かない。上手く喋れない。


 発したい言葉が見つからない。


「離婚なんかしない。俺と離婚したらどうせ柊か園田とよろしくやろうって魂胆なんだろ? 邪魔してやる」

「……っ。……颯斗くん。……わた、私」


 色んな感情がごちゃ混ぜになって、まとまらない。


 颯斗くんは、私を好きなの? 愛してるの?


 幼い頃に受けた心の傷が原因で、私を裏切っていたっていうの?

 ――それは許してあげるべきこと?

 私が傷ついたのは仕方のないことで、乗り越えるべき夫婦の問題……って。


 修復できる関係なの? 私たち。


「俺を捨てないでよ、小夏」


 こんなに涙を流して泣き続ける颯斗くんを初めて見た。


 同情、愛情、惰性……。




『ねえ、小夏は旦那の藤宮に抱かれるわけ? 俺は嫌だよ。同情心でセックスしちゃだめだ。受け入れて流されて、また傷つくのは小夏だ』


 園田くんに言われたことが、思い出される。




『小夏。今度こそ俺と人生を歩もう。一緒に同じ方向を見て、互いに尊敬し合って楽しい毎日を過ごせると思うんだ』


 柊くんのプロポーズにも似た、くすぐったい言葉が蘇る。



「今日は私、どこか探して泊まるね」

「……どうして」

「冷静になったら、話し合おう。しばらく別居して離れるのがお互いにとっても良いんだよ。……気が進まないと思うけど、颯斗くんは心理カウンセリングとか行ってみた方が良いと思う。……ごめん、きっと私じゃ力不足で解決できない。あなたを受け入れられない今の私じゃ、救ったりなんか無理だと思う」


 私は手早く荷物をスーツケースとボストンバッグに詰めていった。

 とうぶん、……もしかしたらもう二度とここに戻って来れないかもしれないから、必要な物はどんどんバッグに入れていく。


 涙で視界がゆらゆらと歪んでいる。

 喉の奥がツーンと痛かった。


 二人の住まいが賃貸マンションで良かった、揉める種は少なくって良かっただなんて頭によぎったのが、すごく驚いて。

 そんな冷静で大人な思考は、冷たく感じた。


 この結婚を終わらせようって、決意していたからだ。


 自分の気持ちを押し殺して、どこの恋人と過ごしてきたのか分からない夫を迎えられるほどの度量は私にはない。


 自由でいたいと、自分の人生は私の心に素直になってわれがままになりたいと願ってしまう。


 道を一緒に進みたいと結婚した大好きな颯斗くんが、信じた夫が私の知らない人になったみたい。

 ……ううん、元から私は颯斗くんの本質が見えていなかったんだね。


 夫と妻の縛りから、離れよう。

 私には、この人との結婚なんか向いてなかったんだ。

 颯斗くんは私じゃ満足できなくて。心の拠り所が他にも必要だったんでしょ?


 急に颯斗くんとの楽しかったことばかり、……思い出された。


 私は、用意してあった記入済みの離婚届と結婚指輪をダイニングのテーブルの上にそっと置いた。


 寝室をのぞくと、捨てられ雨の中で震える子犬のような颯斗くんがいた。


「許せないものは許せないと気付いたの。……さようなら」

「……話し合い、するんだろ? 小夏。お前がいなくちゃ駄目なんだって俺は!」

「どう……駄目なの?」

「真っ暗だ。色のない世界に一人ぼっちにしないでくれ」

「私以外にいるよ。颯斗くんはさ、大切に出来る人を……心から本気になれる相手を見つけて」


 私は重い荷物が軽くなった気がした。


 スッキリしていた。


 本当に離婚するんだ、私。


 これから独りになったら、寂しいし独りで生きていく不安もあるかもしれない。

 だけど、心に素直になろうと思う。

 そして誰かに頼りにしてもらえるぐらい、強い女になりたいと願った。

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