第2小節目、絶望の始まりの日 (2)

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心臓をバクバクさせながら団地を下から見上げると、点々と明かりの灯る部屋の中に、自分の家がある事に気付く。

いつもなら、この時間に鍵を開けて最初に電気をつけるのは、いつだって俺の役目だった。


(ママ……ママがいる!)


俺は、何とも救われた気分になった。

再び走り出し、狭い階段を猛スピードでぐるぐると駆け上った。


息を切らしながら、鍵の掛かっていない重い鉄製の扉を開けると、ナース服を着たままの母親が立っていた。


「ママ! ママ!」


靴を脱ぎ捨て、勢いよく母親の下腹部目掛けて飛び込んだ。


「仕事に戻っちゃうの? ねえ、戻らないでよ、ママ!」


俺は母親の腰に巻きつけた腕に、ぎゅうぎゅう力をこめた。

そうしていると、罪悪感も恐怖心も、不思議と和らいだ。


母は黙ったまま、帰るなり急に甘え出した俺の頭を2回程そっと撫でてから、中腰になって俺の目をみつめ、静かに言った。


「……あらた、あのさ。

ーーーさん、死んじゃったんだ」


(死?)


俺の血の気は引き、体は硬直した。


「……死んじゃったの?」


その時は一瞬、さっきの一部始終と、倒れたままの女の子を公園に置き去りにした事がバレてしまったのだ、と思った。


しかし、今俺が直面しているのは、それとは全く別の事だった。

母は涙でくぐもった声を腹から絞り出すように言った。


「お父さん、死んだのよ」


◆◇◆


黒っぽい服に着替えさせられた俺は、夜道を母に手を引かれ、親父が放射線治療を受けるために入院していた病院に向かった。


そこは、母の職場でもあった。


もう、何度となく通い、まるで友達の家のように入り浸っていた個室の中央に配置されたベッドの上に、パジャマ姿の親父が仰向けに横たわっている。

そこまでは何も変わらない。


いつもと違うのは、体に通されていたはずのいくつかのくだがすべて外されていた事と、顔に白い布がかかっていることだった。


僕は、そのベッドのすぐ脇に置かれた、イーゼルに立てかけてある、1枚の絵の前に立った。

後光のような光を背景にした、両手を挙げて、満面の笑みを浮かべる赤ちゃんのバストアップが、画用紙いっぱいに描かれている。


それは画家だった親父が、キリスト教系の出版社から依頼を受けて描いていた、子供向けの絵本の挿絵の中の1枚だった。


(これ、完成したんだ…)


簡易式のサイドテーブルに目をやると、小さくすり減った何色ものパステルが、無造作に散らばったままになっている。


それらを交互に見ていると、昨日までの・・・

ベッドに腰掛け、時折目を細めたりしながら、大きく腕を動かしその絵と格闘する親父の様子が、生々しく頭に浮かんだ。


(つい昨日だって、僕に何度も聞いたっけ。

あらた、この色で間違ってないか? この色はヘンじゃないか?って)


ハレーションをおこしたような、強烈な色彩で、それは描かれていた。

今思えばーーーー。

その頃にはもう、親父の目は、光の量を判別するのも難しい状態だったのだろう。


けれど全体がギラギラと不思議な光りを放つ色彩の組み合わせは、描かれている赤ちゃんの、この世に生を受けた歓びに溢れているような笑い顔に、まさにぴったりだった。

しばらくそれを見つめていると、次第に涙で滲み、嗚咽が止められなくなってくる。


結局、その1枚はなんとか完成したものの、挿絵は全体の三分の一程しか描き終っておらず、その絵本が出版される事はなかった。


でも、それは親父が最期にのこした遺作であり・・・多分、傑作だった。


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