伊香保風  〜古志加、婚姻の宴〜

加須 千花

第一話  婚姻の宴

 ✤「あらたまの恋 ぬばたまの夢 〜未玉之戀あらたまのこひ 烏玉乃夢ぬばたまのいめ〜」


 未読の方は、ネタバレ注意!

 だって婚姻相手わかっちゃうもんね。




    *   *   *




 伊香保風いかほかぜ  かぬ


 ありと言へど


 こひのみし  ときなかりけり





 伊可保可是いかほかぜ  布久日布加奴日ふくひふかぬひ

 安里登伊倍杼ありといへど

 安我古非能未思あがこひのみし  等伎奈可里家利ときなかりけり



 伊香保の風は、吹く日も吹かぬ日もあるけれど、オレの恋だけはむ時はない。




  万葉集  作者不詳



    *  *  *



 今宵は、群馬郡くるまのこほりにある石上部君いそのかみべのきみの屋敷で、親族だけのささやかな宴が開かれている。


 蠟燭ろうそくがいつもより多めに灯され、机には、とりどりのご馳走がならぶ。

 白稲しろちね(白米)、川魚の蒸し物、若海藻わかめの酢のもの、猪肉ゐのししと小葱のひしお焼き、干し柿、くるみの蜂蜜漬け、お酢、白酒しろさけ(甘酒)。もちろん、浄酒きよさけも、須恵器すえきの杯になみなみと満たされる。


 机を囲むのは、八人の男女、六人のわらは

 この屋敷の主、石上部君いそのかみべのきみ八十敷やそしきが、まず、口を開く。


「愛する我が子たちよ。その伴侶たちよ。今日は、集まってくれて、感謝する。今日は、うちの末息子、三虎が、やっと妻を得たお祝いだ。乾杯。」


 そう須恵器の杯を掲げる。

 乾杯、と、大人は浄酒を。わらはは白酒(ノンアルコールの甘酒)で杯を干す。


 八十敷やそしきの妻である鎌売かまめが、


「三虎の妻の家は、両親、親族がなく、我が家だけですが、これは婚姻の宴。古志加は三虎の妻として、今後は扱ってください。浄嶋きよしまさま、よろしいですね?」


 と、娘のつま浄嶋きよしまを見て言う。

 浄嶋きよしまは穏やかに品良く、


「わかりました。」


 と頷く。鎌売かまめの娘、日佐留売ひさるめは、


「二人とも、おめでとう。心から祝福するわ。」


 と艷やかに微笑みながら言う。

 かたわらでは、日佐留売の子供である、浄足きよたり多知波奈売たちばなめが、


「おめでとう、古志加こじか!」

「おめでとう! 綺麗よ、古志加。」


 と可愛らしく言祝ぎの声をかける。

 いつものムッとした顔をする三虎の隣に座った古志加は、髪を高く結い上げ、さいの角のかんざし、雪白のほう(ブラウス)、紅に金糸の刺繍がされた背子はいし(ベスト)、朱華はねず色の(スカート)で、実にあでやかである。

 丁寧に化粧のほどこされた顔は、ため息の出るような美しさだが、……ガッチガチに緊張している。

 ぴく、ぴく、と先ほどから、頬が緊張で細かく震えているのがわかる。


「あ、……あり、がとう、ございます……。」


 小さくやっと返事をする。

 三虎が無言で古志加の脇腹をつついた。


「びゃっ!」


 驚いた古志加は倚子に座ったまま、飛び上がった。

 がったん、大きな音が響いた。


「何するの三虎!」


 古志加が怒って三虎をふりむき、


「ぷ。面白ぇ。」


 三虎は悪びれずニヤニヤ楽しそうに笑う。三虎の兄である布多未ふたみが、


「おう、面白ぇなあ。まさか本当に弟の妻になるとはな、古志加。綺麗だぜ。」


 とやっぱりニヤニヤしながら、古志加を見る。

 三虎は、むっ、と不機嫌そうな顔になり、兄を見た。

 布多未の妻、鏡売かがみめが、全く目が笑っていない笑顔で、


「ん?」


 と隣に座る布多未の顔をじっと見た。瞬時に布多未の額に脂汗が浮き、


「ただの言祝ぎだよ、鏡売。この世で一番綺麗なのは、鏡売だぜ。オレはいつもそう思ってる。」


 とやや早口で言う。


「ふふ。ありがとう。」


 それを見届けた鏡売は満足そうに頷き、古志加を見た。


「古志加。前に一度会ったわね? これからは、石上部君いそのかみべのきみを支える妻同士よ。鏡売と呼んで。仲良くしてね。おめでとう。」


 すると、布多未と鏡売の子供たち四人が、口々に元気よく、おめでとう、と言祝ぎをした。

 可愛い声の大合唱に、古志加も自然と笑顔になり、


「はい、ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。」


 とお礼をのべた。

 皆、ご馳走に舌鼓をうつ。


 日佐留売が浄酒でほんのり頬を赤らめつつ、


「あ〜、待った。も〜、待った。本当、長かった。まったく、待ちくたびれたわよ。」


 と三虎に文句を言う。


「姉上……。」


 三虎は苦り切った顔をするが、この姉に口答えはしない。

 そこに鎌売が口を挟む。


「日佐留売。まだです。ここで満足してはなりません。……孫よ。」


 いきなり出てきた言葉に、ぶっ、と古志加がむせた。なんとか、眼の前のご馳走に浄酒を口からぶちまける事はさけられた。

 ぐっ、ぐっ、とうめきながら、胸元を拳でたたく。

 食べ物がつまったらしい。

 三虎が、やっぱり苦い顔で、


「母刀自まで……。」


 と非難するように言うが、そこに、父、八十敷が参戦する。


「なんだ。お前だけだぞ、孫の顔を見せてくれてないのは。綺麗な新妻じゃないか。一日も早く、孫だ。」


「父上ッ!」


 三虎が辛抱たまらん、というように大きな声をだした。布多未が首をかしげ、


「お前ら、夜はお預けなのか? もったいない話だな。」

「は・げ・ん・で・お・る・わぁ!!」


 とうとうブチ切れた三虎が吠えた。

 そのかたわらで、古志加は一人、伊香保風いかほかぜ吹き荒れるただなかにいるように体温がさがっていた。

 衛士生活が長かった古志加である。三虎、その上の布多未、八十敷は、衛士団の頂点にいる人たちで、普段、一衛士にすぎない古志加は、おいそれと口をきく機会はないし(布多未はあったが)命令は絶対、と、身体に刷り込まれている。

 その人たちのご無体な発言を雨あられと浴びせられ、いろいろ限界を越えた古志加は、


「きゅう。」


 とうとう気絶し、倒れた。


「あっ、おい、古志加ー!」


 三虎が慌てて支え、場は騒然となった。




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