冷たい夜

白い部屋の中、一つのベッドだけが置かれている。閉ざされた窓から吹き込む冬風がかたかたと窓枠を揺らして、活けられた白い花を小さく揺らした。

毎日変えられている花はきれいで、ほろりと花弁を木の床に溢す。


ベッドの上で眠るのは一人の少年だ。腕には点滴の管が通され、死人のように眠っている。

だが生きていることは、ゆっくりと上下する胸元と、時折苦しそうにゆがめられた表情が物語っていた。


その脇には、小さな少女がいた。黒い髪を肩ほどで切りそろえた生真面目そうな少女だった。

彼女は沈痛な気持ちを振り払うように毎日病室に来て花を変えて、兄の世話をしていた。


少女、遠廻音々が見守る前で、燐の瞳が開いた。


「お兄ちゃん!?」


瞳は天井の明かりの眩しさに細められ、しばらく現実を探すように彷徨った後、音々の顔を見た。


「音々、俺、なんで」


状況を掴めていない燐を置いて、音々はナースコールを押して、医者を呼んだ。

燐は何も分からないまま、やってきた医師の診察を受けた。


「うん、問題ないね。【万能薬】も使ったから傷とか後遺症も無いと思うよ」


傷、後遺症、その単語を聞いて、燐は自分が怪我を負ったのだと知る。

自分の腕は記憶のものよりも色が薄く、細かった。

変わった自身の肉体に、燐は時の経過を感じる。


「何が、あったんですか」


そう尋ねると、音々が何かに耐えるように目を伏せた。医者の周りの人たちも平然としながらもどこか息を呑んだような様子がある。


燐を見ていた医者――年は60歳ほどだろうか、総白髪で底の厚い眼鏡をかけている――は、自分の役目だと分かっているように冷静に話始めた。


「君は、『大氾濫』に巻き込まれたんだ」

「大、氾濫」


燐は与えられた単語をそのまま反復する。ダンジョンからモンスターが溢れる災害の名だ。

燐も社会科で習った言葉ではあるが、本のページの向こう側の言葉を現実の医者が言ったことで事実を掴めずにいた。


「『特区第一ダンジョン』が氾濫を起こして、地上にいた冒険者と戦闘になった。そして、その戦いの流れ弾が君の家を直撃した。君は幸いにも、余波を壁越しに浴びただけだったから命は助かったけど、かなりの重傷だったよ」


具体的で冷静な言葉は、燐に現実の出来事なのだと叩きつけてくる。

大氾濫は、偶然ダンジョンの地上に、これから探索に行く高位冒険者がいたため、早期に収束したが、下層のモンスターも多く進出したことで、周囲への被害は甚大だったという。

死者は1000人を超え、重軽傷者は1万人を超えたという。燐もまた、その一人であり、運よく死者の列に並ばずに済んだのだと知る。


「今は3月18日。君は一月近く眠っていた」

「は…………」


その余りの時間の経過に、燐は唖然と口を開けて驚く。

その驚愕は、小さな泣き声によって破られる。


「うっ、ううううっ……よかったよぅ、お兄ちゃんまでいなくなるかもって」


ぽろぽろと、音々は安堵を滲ませて泣く。

きっと、目覚めない俺をずっと看病してくれていたんだと思い、燐も泣きそうになる。

妹が、不安から解放されたことを我がことのように喜んで、燐も微笑んだ。


「あ、それで母さんたちは?どこにいるんだ?」


燐は音々に両親の居場所を尋ねる。

すると、音々はびくり、と体を震わしてますます泣いた。


「………お、お母さんも、お父さんも、死んじゃった……!」


「…………………………は?」


燐は音々の冗談を笑い飛ばすように笑おうとして、失敗したような笑みを浮かべた。

だが、先ほどよりも重苦しい室内の雰囲気が、それが本当だと物語っていた。


「何言って…………だって俺は生き残って…………」


「………君のご両親がいた家は、攻撃が直撃したんだ」


だから死んだ、と燐は医者が省略した言葉を推測する。

本当に燐は幸運だったのだ。攻撃が直撃した家の中にいなかったこと、間に壁を挟んでいたこと。運良く、瓦礫の下敷きにならなかったこと。そしてアリスが必死に燐の命を魔法で繋いだこと。それらの要因と、燐の知人を名乗る冒険者が【万能薬】を提供してくれたおかげで、燐は命を拾った。


「今は、おじいちゃんが来てくれてるから、みんなで―――――――――」


何かを喋る音々の言葉も耳には入らなかった。

燐はただ、己の内側に潜っていた。


(…………俺、喧嘩したまま)


母に酷い言葉を浴びせた。父の手を取らなかった。二人に背を向けた。

帰ったら謝ろうと思っていた。でももうそんな日は来ない。

白い家は無い。二人もいない。


そう思った途端、燐の視界が黒く染まっていく。

体の内がねじられるように締め付けられる感覚を覚え、燐は身体を折った。


「うわあああああああああああああっっ!なんで―――ッ、あああああああああああああっ」


妹の手を振り払い、弱った体で激情を奏でる。

振り回した手が花瓶に当たり、陶器が割れる甲高い音が響いた。


医者が燐を押さえつけようとする手にすら気付かず、騒がしい周囲の騒乱も無視して燐は叫んだ。

その目に涙は無かった。

ただ、身の内から湧き出す感情を絞り出した。

燐はやがて、力尽きたように眠った。


「お兄ちゃん…………」


暴れて力尽きたように眠る燐と彼を取り押さえる医者や看護師たちを見て、音々は呆然と呟いた。

音々は後悔していた。両親のことを話すべきでは無かったと。

音々にとっての燐という存在は、頼りになる兄だった。いつも音々を助けてくれる偉大な兄だった。

だけど、そんな兄も、音々の二つ上。まだたったの13歳の子供だった。


「音々ちゃん、お兄さんは夜には目覚めると思うから、一緒にいてあげて」


医者に言われた言葉に、音々は静かに頷いた。


□□□


目覚めた燐は、静かだった。看護師たちの警戒を裏切るように静かでただじっと窓の外を眺めていた。

1時間ほど何かを考えこんでいた。

そして、ベッドに寄りかかるように眠る妹の頭をそっと撫でた。

うぅん、と小さく寝言を漏らす妹に自分が使っていた毛布を掛けてやる。そして燐は立ち上がった。


一か月動かさなかった身体はとても重く、歩くだけでふらつく。

それでも一歩ずつ前へと進み、廊下へと出た。

真夜中だからか、廊下の電気はまばらについており、どこか恐ろしい雰囲気を醸し出している。以前の燐なら何か思ったかもしれないが、今の燐にはただの明暗の差でしかなかった。


燐は胸元に温かさが宿っているのを確認して、エレベーターを使い外へ出た。


燐は正面玄関には向かわず、病棟の側面に向かった。フェンスと壁の隙間の場所で、職員が駐車場に向かう際にしか使わない場所だった。


冷たい風が吹きつけ、木々がざわめく音がする。それすらも、一月ぶりに聞いたからか、新鮮に感じた。

ほんの少し、暖かくなった空が運ぶ空気が、春を迎えるように色づいた木々が確かな時の経過を伝える。


だが燐の心はあの時に取り残されている。

ダンジョンが溢れた。それは珍しくもない災害だ。

夜に沈んだ水平線の先で、冷たい人工島の波の向こうで何度も何度も繰り返されている人と迷宮の殺し合いだ。

怪物どもが地底の底で顔を上げ、陽光の元で血肉と悲鳴に酔い、喉を震わせる。

惨劇に濡れる大地を潤す血は誰のものか。そんなことが世界中で起こっている。


それがこの人工島でも起こったというだけ。


「アリス」


燐は呼ぶ。己の内に宿った者の名を。


胸元の紋章が光り、妖精が燐の前に現れる。


「あの、燐。ワタシは一緒にいるから……」


いつもの笑顔はなく、どこか申し訳なさそうにアリスはそう言った。

燐はモンスターも人の感情を慮ることができるのかと、感心した。

そして、燐はアリスを右手で掴んだ。


「え、何っ!?――――痛っ」


そして壁に叩きつけた。

指がコンクリートの外壁を叩いて血が滲む。それすら気にならないほど、燐は今己を抑えていた。


「偶然か?」


低く脅すように問いかける。


「はあ?何がよ!」


燐に怒りをぶつけられていると知ったアリスは、理不尽だと怒り、言い返す。

慣れない気遣いをしたのにその返答がこれかと、アリスは憤慨する。

何を言われているのか分からないと、本気で思っていた。


「俺が、ダンジョンに行って、お前に見つかった日にっ、偶然ダンジョンで『大氾濫』が起こって、偶然流れ弾が俺の家を潰して両親を殺した!そういう偶然だと思っていいんだな!」


言われている意味が分かったアリスは、言い返そうと口を開いた。

自分が両親を殺す手引きをしたのではないかと、被害妄想じみた怒りを向けられて、アリスも怒っていた。そんな訳はないと、言い返そうとした。


だけど、言葉は形にならなかった。


「……あ、えっと、ワタシは知らないわ」

その歯切れの悪い言葉に、燐はますます表情を険しくする。

睨みつけて拳に力を込める。


「うっ………!」


殺意を向けられたアリスは耐え兼ねて話始めた。


「けど、偶然じゃないかも」


消えるように呟いた最後の言葉が、燐の眼差しを険しくした。


「どういう意味だ」

「ワタシは普段は人間なんて認識しないの。脅威じゃないし、撃退は私の役目じゃないから」


それは、ダンジョンのモンスターとしての言葉だ。

死なない妖精にとって、冒険者はちょっとした障害程度の認識であり、その対処もモンスターがするものだ。だから妖精は、人間を識別しない。

自分には関係のない物だと割り切っているためだ。


「でも、燐には興味を引かれたから、宿ったの。ワタシはダンジョンの末端端末だから、ワタシと同じことをダンジョンが思ったかもしれない」


妖精はダンジョンのシステム側の存在だ。そんな彼女が思ったことが、本体ともいえるダンジョンそのものが思わなかったとは言いきれない。


「お前はダンジョンの部下みたいなものなんだろ!何で分からないんだ!」

「知らないわよ!ワタシはダンジョンを維持するだけだったし。お母さんがいることは分かるけど、何を考えてるのかもしたいのかも知らない!」


怒りを滲ませて叫ぶ燐に対して、アリスも悲鳴のような絶叫を返した。


「なら、俺が意図的に狙われた可能性は?」


そう尋ねた燐に対して、アリスはいい淀んだ。

それは燐の瞳を見てしまったから。

何かに縋るように揺れる、暗い虚ろな瞳。

だがアリスは覚悟を決めて、契約者に対して誠実であることを決めた。


「ある。普段から冒険者が内部のモンスターを倒してる『特区第一ダンジョン』で大氾濫が起こるのは変よ。でも……」


言葉を濁したのは、アリスの最後の抵抗だ。その行き先に光は無いと彼女は頭の片隅で察していた。


「答えは、ダンジョンの奥か」


だが燐は選び取った。

ダンジョンに意思があるのか、あるいは製作者は存在するのか。未だに解き明かされていないダンジョンの謎だ。

どうやってモンスターを生み出しているのかも、どこから来たのかも分かっていないダンジョン。その答えがあるとすればそれは、未開拓領域のさらに先。


ダンジョンの最奥。世界中に数多存在するダンジョンのいずれも、未だに誰も最奥に辿り着いたことは無く、段階的に強くなるモンスターの配置を考えれば、一番奥に最も大事な何かがあるのは容易に想像できる。


「でもそれは…………」


それは、燐が生きているうちに解き明かされるかどうか分からない謎だ。アリスはそう言いかけて止めた。燐が何を選ぶか察してしまったからだ。


「俺は冒険者になる」


燐はアリスの目を見て言い切った。それはアリスに言っているようで、自身に言い聞かせる誓いのようだった。

燐の両親は、ダンジョンの意志に殺されたのか、あるいは親を失い錯乱した少年が生み出した妄想なのか。その答えはダンジョンの最奥に隠された。

その可能性に目をつむることは出来ない。一度思ってしまえば、泥のように纏わりつき、燐に囁くのだ。

―――真実を知れ、と



少年が捨てた夢は、今再び拾われた。

劫火で焼かれたその夢は、真実への執念で繋がれ、歪に再構築された。

ああ、なんということか。こんなこと、望んでいなかったのに。

妖精の小さな喉は震え、後悔の音色を奏でようとする。

だがそれを噛み締めて、彼女は竪琴のような声で、決意を誓う。


「なら、ワタシも手伝うわ。燐が死ぬ日まで」


妖精は、燐の手から抜け出して、その目を覗き込む。

1人と一匹は、暗い月の下で誓いを立てた。


―――――――――――――――――――――――――――――――

始めまして、蒼見雛です。

読んで下さりありがとうございます。

ここから燐とアリスの冒険の始まりです。

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