ゆたにたゆたに半透明

雨下雫

ゆたにたゆたに半透明

 第一章


 泡を吐くような笑い方をする人だった。

「ぷっ、ぷふふふっ」

 一度堪えたフリをこちらに見せながら、そのくせまったく遠慮がない、独特の笑い方。

 私は潜水艦や護衛艦が居並ぶ港に面したウッドデッキの遊歩道を歩きながら、このひと夏をともに過ごしたマサゴさんの奇妙な笑い声を思い出していた。

 思えばマサゴさんは笑ってばかりの人であった。

 きっと笑い顔が張り付いてしまったのだと思われるほど、四六時中にこにことしていた。

 四六時中にこにこしていたが、本当のところマサゴさんは愉快な状況にあったとは思えない。

 まず第一、彼は無職だった。齢三十にならんとするマサゴさんはいわゆるいい歳をしたニートというやつだったのである。

「浮遊霊ごっこだと思えば、案外に楽しいもんさ」

 将来に不安は無いのかといつか尋ねた私に、マサゴさんは一度泡を吐くように笑ってから答えた。

 心底楽しんでいるように見えたから、私もそのときは一緒になって笑ったのだけれど、今となってはそれが愉快さとは無縁の心持ちから発せられたことを私はすでに知っている。


 うたかたの消ゆるものとは知りながら浮くも沈まずゆたにたゆたに


 私はマサゴさんが詠んだ短歌のひとつを口ずさみながら、ウッドデッキの縁に設えられた欄干に身を乗り出して海を見下ろした。

 小さな波が岸壁に打ち寄せて集まった塵芥に細かな泡が混ざっている。

 お世辞にも綺麗とは言い難い海である。そのただ中に一匹の海月が見えた。

 海月は生きているのか、死んでいるのか。それすらよくわからない。波にもまれたままどこかへいく気配もない。

「ゆたにたゆたに」

 私がもういちどつぶやくと、カラリとした風が吹いて海をひと撫でした。水面が皺んで波とともに揺らぐ。私は海月の姿を見失った。

 私は見えなくなってしまった海月に、言いしれぬ不安を感じて、あたりを探したが、海月は水に溶けてしまったかのように見えない。

 マサゴさんと過ごした夏が終わっていくのだ。

 私は海月の消えた海を見て初めて、もうすでに無い時間を目の当たりにしたような思いがした。

 世界はすっかり秋になった。私はいまだそれを受け入れられそうにない。


 第二章


 なんとなく疲れてしまったから。

 たったそれだけの理由で、後も先も考えずに東京の会社を辞めた翌日のことである。

 その日、私はすでに無職の身でありながら、いつもと同じ早朝に目を覚まし、身支度を整え、なにごともなく両親に「いってきます」を告げて家を出た。

 かくも容易く人を欺ききれるものであろうか。

 玄関を出た私は、夏至に向かい明るさを増していく駅への往来を歩きながらぼんやりと考えた。

 思えば欺くも何も両親が私を疑う余地はどこにも無いのだから、疑われないのは当然といえば当然であろう。

 私が朝起きて最寄りの駅にたどり着くまでの挙動は、昨日と何一つ変わることが無い。

 疑え、気が付けという方が無理である。

 せいぜいこの日変わったことと言えば、私の心中に後ろめたさというほの暗い影が差したことと、外に出たものの行く先がないという、寄る辺ない不安が生じたということくらいである。

 こんな思いを抱えて、日がな外にいることは精神衛生上、よろしいとは思えない。

 私はこの二つの心境の変化をどうにかしたいと思い立った。

 ここで並の人間であれば、この足で職安に詣でて新たに職探しをし、しかるのち両親に無職になったことと、新たに職を探していることを伝えるのであろうが、私にはこれはまったく眼中になかった。

 二十代も折り返した、世間的にもいい大人が「なんとなく疲れたから」などという

 戯けた理由で社会に対して背を向けたと自白をしても、私の抱える後ろめたさは解消されそうもない。なにより惨めである。生き恥である。さらにその後ろめたさを抱えたまま、見ず知らずの面接官の面前でさらし者になるのも御免だった。

 言い換えれば、真実を語り、前を向いて行動することを、私のひねくれた自尊心が絶対に許さなかったとも言えるかもしれない。

 とにかく私は、この後ろめたさとは当面うまくつきあっていくことに決めた。そうしてもうひとつの不安を解消することにも決めた。

 行き先をつくること。

 それが私の出した答えであった。

 私が駅の券売機で一月分の定期券を購入すると、昨日乗ったのと同じ時間の電車がホームに滑り込んでくる音が頭上に響いた。

 私は券売機から吐き出された定期券を乱暴に引き抜いて改札を抜け、階段を駆け上る。

 鈍足の私は見事に電車に乗り遅れ、ホームのベンチに腰を下ろす。

 息を切らして続く線路の先を眺めたとき、私は急ぐ必要が無かったことに気がついて、人知れず苦笑したのだった。

 生まれも育ちも横須賀市民でありながら、横須賀中央の駅に降り立つのはずいぶんと久しぶりだった。東京の私大に入ってからは通り過ぎるばかりで降り立つ用も無かったろうと思うから、実に五年ぶりに降り立ったことになる。

 私は自腹で購入した定期券で改札を出ると、人もまばらな早朝のマクドナルドに転がり込んだ。

 窓辺のカウンター席に陣取って百円のコーヒーをすすりながら、私は駅に向かう街の人々を眺めていた。

 中学生までの時分、この街は大都会に思えたものだが、東京という街からこぼれ落ちた今、見てみれば、街はずいぶんとこぢんまりとして見えた。

 街路に点々と佇むジャズ奏者の銅像。

 子供のころと変わらず演歌歌手のポスターを張り出したレコード屋。

 低くも高くもない古いビルが居並ぶ目抜き通りは、いつの間にかデパートがつぶれて駐車場になったり、マンションが建ったりして、ガタガタの歯抜け通りのようになっている。

 都会というには慎ましく、田舎と称するには派手すぎる。

 懐かしいというには、姿が変わりすぎてよそよそしく、新鮮というには馴染みすぎていて、感慨がない。中途半端な街だなと思った。

 とはいえ東京の喧噪にくらべれば、よほど過ごしやすい。

 東京のやかましさが、人も煮え立つ熱湯だとすれば、ここはぬるま湯である。

 私はこの中途半端さにつかりながら、何をするでもなく無為に時が過ぎるのをただただ待っていた。

 ちょうど街に学生の姿も見えなくなった頃である。私は店を出て線路の下をくぐり

 抜けた先にある坂道を上り始めた。

 朝から日がカンカンと照っている。蝉の声こそ聞こえないが、世の中はすでに夏である。

 私は汗を拭いながら、のんびりとした足取りで坂を登り続けた。

 しばらく歩くと丘の上にある図書館までやってきた。

 味気ないコンクリート建てのこのハコが、私がしばらく通うことに決めた先である。

 まもなくやってくる酷暑でも、冷房が効いているから快適で、本は一生読み切れないほどあるだろうから、有り余る時間を持て余すこともない。

 なにより本を読んで過ごすことは、有意義そうである。

 すくなくとも無職の青年が無為に時間をつぶしているとは誰も思わないだろう。

 図書館の敷居を跨いだ私は今まで抱えていた不安や、世間や家族に対して感じていた羞恥のような感情からすっかり解放されていた。

 私はこのときようやく、自分が自由であることに思い至ることが出来たのである。

 居並ぶ本棚の真ん中にいて、私はしばらくこの自由の二文字を噛みしめていた。

 さあ、自由を手に入れた第一日目、どの本から読破しようか。私は背表紙を眺めて回る。

 言葉こそ発しないが、私は内心はしゃいでいた。

 ここにきて自分という人間が相当に文化的で高級な身分に成り上がったような気分になったのである。

 もちろん、私に抜きんでた文化的な素養など微塵もない。ただの無知でごく平凡な遊民というやつである。

 だとすれば、一等高級な遊民になってやらねばならない。

 そうして、私の中に奇妙な勇気のような感情がふつふつとわき始めた。

 今ならどんなに難解な本も読めるような気がする。いや、むしろ今こそ難解な本を読むべきである。

 そこで私は思い立って哲学の本が並ぶ本棚で足を止めた。私にとって哲学は難解の代名詞だった。

 アリストテレスにプラトーン、カント、デカルト、ショーペンハウアー。

 聞いたことだけはある名前が並ぶ棚である。

 哲学などさっぱりわからないから、どれから先に手に取ったものかわからない。

 わからないならどれから手に取っても同じことじゃないか。私は目をつぶって手に取ったものから読むことに決めた。

 目をつぶって背表紙をしばらく行きつ戻りつして、最終的に引き当てたのは、キルケゴールの『死に至る病』だった。

 ずいぶん陰気なタイトルを引いたものだ。

 私は内心苦笑しながら、パラパラとページをめくった。

「死に至る病とは絶望である」

 不意に背後から、私が目を留めた章題を読み上げる男の声が聞こえた

 ドキリとして私が振り向いた先に、私の開いた本をのぞき込む男が立っていた。

 ひょろりとした体躯、寝癖だらけの髪に、よれたチェックのシャツを着た風貌。それは大学に通っていた頃となんら代わり映えしない姿で佇むマサゴさんであった。

「やっぱりナゴ君だ」

 かつての後輩との再会にマサゴさんはにこにこと笑みを浮かべながら、私の両肩を掴んで無理矢理自分に向き合わせると、私の体を前後にぐわんぐわんと揺さぶった。

 一方、嬉しそうなマサゴさんに揺さぶられながら、私はひたすら狼狽していた。

 間抜けなことに、私は知り合いとの遭遇を全く予期していなかったのである。

 できれば誰にも知られず図書館で一日を過ごしたかった私にとって、この遭遇は致命的であった。

 しかし、私が狼狽えたのは知人に遭遇した面倒を思ってのことばかりではなかった。

「い、生きてたんですか?」

 私の口からとっさに出てきた一言は、久闊を叙することでも、私が平日の真昼にここにいる弁明でもない、聞きようによってはかなり辛辣なものであった。

「ぷっ、ぷふふふっ」

 私の一言がおかしかったのか、呆けた顔がよほど間抜けであったのか。マサゴさんが以前と変わらない奇妙な笑い声を上げる。

 私の中に、マサゴさんがあの日失踪したのは、時間を超えたからではないかという、突拍子もない空想が生まれた。

 それくらい訳なくできそうなほど、マサゴさんは鮮烈にして唯一無二の私の先輩なのである。


 第三章


 大学の先輩であるマサゴさんの名前は「真砂透」という。

 本当の読み方は「マナゴトオル」なのだそうだが、本人はその読み方を頑なに拒否していた。

「名前なんて使い良い方がいいに決まってるよ」

 マサゴさんはそう言って、いつも私を煙に巻いた。

 私は本当の読み方を通称として使う方がよほどに不便だと言ったのだがマサゴさんは取り合わなかった。

「ナゴ君はナゴ君の方が便利だと思うからそのままでいいと思うよ」

 マサゴさんはそう言って笑うばかりだったから、私もそれ以上糺すことはしていない。

 世の中や私の基準から、およそかけ離れたところにいる人。マサゴさんはつまりそういう人であった。

 おそらく私が入学初日、あの名も知らぬ女子大生からチラシを受け取らなければ、

 マサゴさんと出会うことは一生なかったであろう。

 桜が咲き誇る大学の構内を右も左もわからずうろついていたときのことである。

 初々しい新入生とその新入生を確保しよう声を張り上げるサークルの勧誘で、構内はごった返していた。

 生まれてこの方帰宅部一辺倒であった私は、そもそもサークルに所属するつもりなど微塵もなく、ただただ人混みを歩くことに面倒を感じていた。

 そんな私の前にどこからともなく一枚のチラシが差し出されたのである。

 ほんの気まぐれである。私は条件反射的にそのチラシを手に取ってしまった。

『仏像研究会』

 受け取ったチラシには筆でそう大書きされていた。

 仏像にはさほどの関心はない。私はチラシを手にしたまま、その場を素通りをしようとした。

「ありがとうございます!」

 喧噪の中からか細い声がした。

 ふと声の方を見れば、端正な顔立ちをした小柄な女生徒が、不安そうにこちらを見つめていた。

 その姿は端的に言って、まったく私の好みに合致するものであった。

 このとき人混みに流される私の中に、ひとつの夢が広がったことを、私はここに自白しておかねばならない。

 仏像研究会に入って、あの先輩とお近づきになり、あわよくば深い仲にもなれるかもしれない。と考えたのである。

 私は浮かれる心を静めつつ、チラシを頼りに一棟の古びた校舎へやってきていた。

 どうやら各種サークルの部室が集まる建物のようではあるのだが、どうにも活気が無く、人気もない。堅牢そうな鉄筋コンクリートで出来てはいたが、あちこちに埃が

 積もり、錆に犯され、廃墟一歩寸前といった佇まいである。

 チラシの内容によれば、この建物の一階の角部屋が仏像研究会の部室らしかった。

 廊下の突き当たりにあるドアには「研究会」油性ペンで書かれた紙が張り出されている。

 それはいかにも不気味な門構えであった。

 ところがこのとき、私はちっとも不気味さを感じていなかった。

 むしろ所属人数も少ないだろうから、あの名も知らぬ先輩とお近づきになる確率が

 上がるのではなかろうか。などと都合のいい妄想を膨らませていたのである。

 私はその怪しげな部室のドアを叩いた。

 ドアを開けた先にあった部屋はひどく殺風景であった。

 細長い部屋には長机が二つと、パイプ椅子が四つほどあるばかりである。

 その長机の上に男がこちらに足を向けて仰向けに横たわっていた。

 顔の上には開かれた美術大全集が乗っている。

 窓から差す西日が埃を輝かせながら男の上に降り注ぐのを見た私は一瞬、これは死体なのではないかとさえ思った。

「あの……すみません……ここは仏像研究会で……」

「だいぶつ……やはりだいぶつのこんりゅうしかないのか……」

 寝言なのか、あるいは起きてはいるのか、私の声に男の声が答えた。

 関わってはいけない。私はようやく夢から覚めたように思い立った。私は後ろ手にドアのノブを探しながらゆっくりと後ずさる。しかし、今一歩遅かった。

「開眼供養だ!」

 男は勢いよく起き上がると、素早く机から降りて私の前に進み出た。

「研究会にようこそ!こちらにお名前をどうぞ!」

 男はどこから取り出したか、くしゃくしゃの藁半紙を私へ差し出した。

 紙には入会届の三文字が書かれていた。

「あの、入会と決めたわけじゃ……」

「ああ、そうか。申し訳ない。ペンはこれを使って……机、そうだ机くらい使いたいよね?」

 男はボサボサの頭を掻きながら、困惑する私の手に無理矢理ボールペンを握らせると、強引に私の肩を抱いて椅子に座らせた。

 男は私の言うことを一切聞いていないようだった。あるいは聞いてはいたが、私に反論する余地を与えないようにしていたのかもしれない。

「特に定期の会合なんかはないから、好きなときに来てくれて構わない。ああ、あと会費とかもない。自由に、がうちの方針だから」

 男は私の向かいに座ると、にこにこと私を見つめた。私はすっかり言葉を失って、

 入会届と男の顔を交互に見返す。

 これが私とマサゴさんとの初めての遭遇であった。

 結局、この後、私はマサゴさんの圧に押されて、入会届にサインをしてしまった。

 珍妙な先輩もいるが、会にさえ入ればあの見目麗しい先輩もいるのだから、悪いよ

 うにはなるまいと思ったのである。

 私は毎日、期待に胸を膨らませながら、部室に通い続けた。ところが一向にあの小柄な先輩は姿を見せない。

 さらに、毎日いるノッポのマサゴさんも仏像の研究らしいことを何一つしていない。

 パイプ椅子に座って、仏像とは関係のない、小説やら新書やらを読んでいるばかりである。

 私はいよいよ不安になって、ついにマサゴさんに尋ねた。

「仏像の研究はいつするんですか」

 マサゴさんは読んでいた本から顔を上げて、私を見つめ、首を傾げた。

「僕は別に、仏像には興味ないなぁ」

「えっ?」

 私はすっかり言葉を失い、ぽかんとしてマサゴさんと顔を見合わせた。

「だって仏像はナゴ君が研究したいものなんだろう?」

 マサゴさんは苦笑しながら私に尋ねた。

 私はひどく困惑した。実のところ私は仏像にまったく興味などない。マサゴさんも

 興味がないとすれば、ここはいったい何を目的に集う場所だというのだろう。

「ここは仏像研究会……」

 私が絶句したのを聞いてマサゴさんは、また反対側に首を傾げた。

「ちがうよ?」

「えっ?」

「ここは研究会であって仏像研究会じゃない」

 私はマサゴさんの言葉を聞いて、慌てて鞄の中からチラシを出した。もう一度見返しても、教室の場所に間違いはない。

「だってここに……」

 私はマサゴさんにチラシを差し出して見てもらう。

「ぷっ、ぷくっ、ぷっふふふふ」

 マサゴさんはチラシを見ると、突然笑い出した。

「ふふふ、ふぁははははは!ビーとじゅうさん!これは!あははははははは!」

 よほどにおかしかったらしい。マサゴさんは腹を抱えながら床に倒れ込むと、文字

 通り笑い転げた。

「ここはBの一号、たぶん仏像研究会とやらは一、三、一号教室だよ」

 私はマサゴさんからチラシを取り返す。

 確かによく見れば横書きの文字はすべて数字にも見えなくはない。

「そうか、キミは何も知らずに、なあ、ぷっふふふふふ」

 マサゴさんは目に涙を浮かべながら床をたたいている。私は惨めさと恥ずかしさとでいっぱいであった。その感情が怒りに変わるまではそれほどの時間はかからなかったと思う。

「じゃあ、ここは……ここは、いったい何の研究会なんですか!」

 私はチラシを握りしめ、笑い転げる男を見下ろし叫んだ。ほとんど八つ当たりだとはわかっていたが、叫ぶくらいでは気は収まらなかった。私は足下に転がるこの男を蹴り飛ばしたい衝動を必死に押さえていたのである。

 私の鬼気迫る様子に、マサゴさんはようやく笑うのをやめた。

「研究会だよ?」

「だから、何の研究を……」

「何の研究をしたらいいか研究する会。だから研究研究会。略して研究会」

 大きく手足を広げ仰向けに寝そべっていたマサゴさんはにっこりと私に笑いかけた。

 そんなふざけた研究会が存在を認められていいものなのだろうか。いや良くない。

 大学側もそう思っていたようである。これは後で知ったことなのだが、実はこの部室はマサゴさんによって勝手に占拠されていたらしい。

「辞めます」

 私はついに馬鹿馬鹿しくなり、早足に部屋を出た。

 去り際背後でため息混じりの声が聞こえた。

「ここでも仏像の研究はできるんだけどなあ」

 私はマサゴさんのその声を振り切るように、一三一号室に急ぐ。

 このとき私は仏像に興味などさらさらないことが、自分でももうよくわかっていた。

 わかってはいたが、引っ込みがつかなかったのである。

 結論から言えば、私は仏像研究会には入らなかった。

 あのあと私は確かに一三一号室に行き、あの目当ての先輩とも再会を果たした。

 三十人程のサークルの人々は、みな人当たりもよく優しかった。

 そして優しく「人生の意味について考えたことはありますか」と尋ねてきた。

 雲行きの怪しさはこのあたりから兆していたといっていい。

 そこそこ高額な会費、週に一度の説法、その説法に正座したまま耳を傾け、目を輝かせる人々。

 そこは新興宗教が設立したサークルだったのである。

 そのことを教えてくれたのが、マサゴさんであった。

 桜がすっかり葉に変わった頃のことである。

「ナゴ君、ナゴ君」

 何の前触れもなく、仏像研究会の前に現れたマサゴさんは、素早く私の手を取った。

 私はもう関わり合うことはないだろうと思っていた人物の登場に驚いたが、マサゴさんは全く意に介す様子もない。

「ちょっと見てほしいものがあるんだ」

 そう言ったマサゴさんは、私の手を引いて早足に歩いて、強引に大学の前にある喫茶店へ連れ込んだ。

 マサゴさんは席に着くなり、勝手にアイスコーヒーを二つ頼むと、一冊の冊子を私に差し出した。

 それは『仏像研究会の研究』というレポートであった。

「なかなかおもしろい研究対象だったよ」

 マサゴさんはそう言って、にこにこと私を見つめながら暗に私へその冊子を早く読むように促す。

 喫茶店に流れるジャズピアノの音を聞きながら、私はそのレポートを読み始めた。

 レポートの内容をまとめれば、仏像研究会というのは背後に新興宗教が関わる、いわゆるカルトサークルである。ということを示していた。

 ついでに私が一目惚れした女生徒の仁科さんは、実は学生ではなく、夫も子供もいるということも記されていた。

 私は恥ずかしさと後悔のあまりに赤面し、ただ戦慄しながらページを行きつ戻りつするばかりである。

「ここにナゴ君の知っていることを加えれば研究はひとまず完成かな」

 マサゴさんはいつの間にか運ばれてきていたコーヒーを差し出しながら、優しく語りかけた。

 入学早々怪しい団体に引っかかった私をバカにする様子も憐れむ様子もまるでない。

 マサゴさんから感じられるのは、研究対象に対する無邪気な興味だけである。

 きっと私を妙な団体から救い上げる気もさらさらないのであろう。

 ただ、このとき私はその無邪気さに心を打たれた。

「研究会の退会届って、まだ出してませんでしたよね」

 私が尋ねるとマサゴさんはガムシロップを大量に入れたコーヒーに息を吹き込んだらしい。

 薄張りのグラスの中に、ひとつ、ふたつと泡が立った。

 爾来、私はBの一号教室の二人目の住人となった。

 私は講義の日程により、部室へ足を運ばないこともあったが、マサゴさんが部屋にいないことは一度もなかった。

 おそらく毎日来ているのだと思うのだが、毎日来ては何をしているのかよくわからない。

 大抵本を読んでいるか、まな板の上の魚のように机の上に眠っているか、どちらかである。

「何を研究するか決まっちゃったら、研究研究会じゃなくなっちゃうでしょ?」というのがマサゴさんの口癖であった。

 私はこの二人きりの研究会が活動しないのを、全く問題とは思っていなかった。

 私にとって部室は体のいい休憩所であり、自習室であった。

 ときどき、マサゴさんが思い立ったように「ナゴ君!埋蔵金だ!徳川埋蔵金を探しに行こう!」「ケネディ大統領暗殺!そうだ、ダラスに行こう」「こっきょうの長いトンネルか、くにざかいの長いトンネルか、ついに決着をつける!」「ヴォイニッチ手稿を解読出来る気がする!」等々、訳の分からないことを言い出すこともあったが、大抵二三日もするとその意気も尻すぼみになり、机の上に眠っていることが大半だった。

 ときどき私はからかうように、眠っているマサゴさんへ「埋蔵金はどうしたんですか」といったようにマサゴさんに尋ねることもあったが、毎回「思ったより興味なかった」と返されるだけだった。以来、私はマサゴさんのこの行動を「発作」と呼んで放置することに決めた。

 そんな研究会での日々が続いていた三年目のある年末のことである。マサゴさんは唐突に、私の前から姿を消した。

 いつものように部室に足を運ぶと、部屋に灯りが点らず、しんと冷えている。

 マサゴさんはひどい寒がりで、冬の間は汗が吹き出るほどの暖房をかけていることが常であったから、席を立っているのではなく留守なのだとわかった。

 珍しく風邪でも引いたのだろうか。

 私が初めての出来事に一抹の不安を感じながら中へ入ると、テーブルの上に一枚の書き置きが残されていた。


 ヒバゴンの存在を確かめるために八甲田山のイタコへ口寄せをしてもらってきます。帰るまで留守をよろしく。真砂透


 大学ノートの切れ端の上に、青いインクで書かれたなよなよとした筆跡。私は苦笑いした。

「比婆山は広島で、八甲田も恐山も青森……知ってますね、きっと」

 実際に行動するのは珍しいとは思ったが、これがマサゴさんとの別れになるとは、

 私は思いもしなかったのである。

 それから年が明けても、春が来ても、マサゴさんは二度と部室へ姿を現すことはなかった。

 私はさすがに慌てて、マサゴさんの足取りを探した。

 しかし、マサゴさんの行方を知るものは誰一人いない。

 ただ一つだけわかったことは、マサゴさんが消える直前に、マサゴさんが所属するゼミの忘年会で一つの事件が起こしたということだけだった。

「通称、ちはやぶる事件。あれは、なんというかひどいもんだったね」

 マサゴさんの消息を掴もうと奔走する私が出会った一人の先輩から聞かされた事件のあらましは、だいたい次のようなものであった。

 ある冬の風の強い日にその忘年会は催された。その忘年会もたけなわといったころのことである。

 マサゴさんは酒席で突然立ち上がりビールのジョッキを一気に空にすると、担当教員の目をじっと見つめ、朗々とした声張り上げたらしい。

 それはマサゴさんの作った、一首の短歌であった。


 ちはやぶるかみかぜの吹き散りぬればはげしかれとはおもはざりけり


 神風が吹いて散ってしまったので、風が激しくなれとは思わなかったなあ。

 意味としてはこのようなところだろうか。

 しかし、四十目前にして生え際が目に見えて後退しており、さらに三日ほど前に付き合っていた彼女の千早さんに逃げられた担当教員には別の意味を持って聞こえたようである。


 千早振る髮風の吹き散りぬれば禿し彼とは思はざりけり


 千早さんが彼を振った。髮が風に散ってしまったので彼だとは思わなかったのだなあ。

 所詮は学生の戯れ言と思えば良かったのかもしれない。しかし、担当の教員の虫の居所はすこぶる悪かったらしい。

 教員は激怒して、マサゴさんを徹底的に面罵した。話によれば「単位はやらん!」とさえ言ったという。

 実はマサゴさんは大学在学七年目で、この教員が単位を出さなければ卒業が出来ない身分だったらしい。

 そこで事件のほとぼりがさめるまで、どこかに身を隠しているのではないか。というのがその先輩の談であった。

「あの人もバカだよ。あの先生もさすがに四年目もやって成果がないじゃ、教える方も体面が悪いから、論文が半端でも単位出そうとしてたらしいんだ。それを不意にして、なにがしたいんだか」

 何でも、マサゴさんは毎年、未完成の卒業論文を作成しては単位を落とし、留年していたのだそうである。

「何を研究するか決まっちゃったら、研究研究会じゃなくなっちゃうでしょ?」

 私はマサゴさんの口癖を思い出す。

 マサゴさんはもしかすると研究を完成させたくなかったのかもしれない。

 ともすれば、思い立ったヒバゴンの研究だか、イタコの研究だかも、そのうち途中で辞めてかえってくるに違いない。

 私はこのとき妙に安心したのを覚えている。

 結局私はマサゴさんについて心配するのを辞めて、留守を預かることにした。

 ところが、マサゴさんは私の卒業まで帰ることはなかったのである。


 第四章


 藤棚の木陰にしっとりとした風が吹き抜けた。

 図書館の目前に広がる読書公園という小さな公園に茂った雑草が揺れた。

「僕、あれからナゴ君のこと、ずいぶん探したんだよ」

 ベンチに私と並んで座ったマサゴさんはどこか遠くを眺めるように言った。

「帰ったらナゴ君が知らぬ間に卒業してるって聞いて、ずいぶん参ったんだ。学生課に聞いても、コジンジョウホウが云々って、同じことの繰り返しさ。それにキミ、僕以外にほとんど知り合いいないだろう。だから、どこに行ったか聞く伝手もない。ナゴ君、お友達は大事にした方が良いと思う」

 マサゴさんは失踪していた自分のことを棚に上げて、つらつらと私に言った。別段、腹は立たなかった。ただ、マサゴさんが無事であったことに、私はひとまず安心していたのである。

「留守居も卒業までしか勤められませんから。私はきっちり四年で大学出ましたし」

「それで、今までどこにいたの?」

 マサゴさんは首を傾げて私に聞いた。

 自分の身の上のことはあまり聞かれたくないことなので、私はしばらく黙っていた。

「僕はあれからずっとムショクで、いまもムショク」

 マサゴさんはあっけらかんとして、自分の身の上を語った。おそらくマサゴさんは

 私の三つ上の学年を四回繰り返したのだから、すでに三十を過ぎているはずである。

 それが大学を出てからずっと無職だったとは驚きである。

 上には上が、というより下には下がというべきだろうか。私は卑しいとは思いながらも、妙な安堵感を覚えた。

「ムショク透明。透明人間なんだよ、僕」

 私は後に続いたマサゴさんの言葉に、一瞬戸惑った。

「職業の話じゃなくてですか?」

「まあ、職業の話なんだけれどね」

 マサゴさんはやおらに立ち上がると、私の前に気を付けをした。

「ナゴ君がいなくなって大学をようやっと卒業してからね、僕、一度だけ就活ってやつをしたんだよ。受かる気なんてしなかったんだけど、思いもよらず最終面接に進んだの。そこでね、質問に答えてたんだけど、ずっと腕組んで難しい顔してた社長さんが突然僕に言ったんだ。キミはムショクなんだね、って」

 私はその場面を想像して震え上がった。きっと静かな会議室かどこかで、重役らしい人々に見つめられながら、突然、キミは無職だ。と言われたら、事実が故に私は相当たじろぐだろう。

 私が大学生のころ、就活で感じていたプレッシャーは、まさに無職というレッテルに対する恐怖であった。もし、ここで落ちこぼれれば社会不適合の烙印を押されるに等しい。

 誰かがそう言ったわけではないが、就職率を上げようとする大学も、内定を取ろうとする同輩も、親も、誰もがそう思っているような空気があった。

 もしそこから落ちこぼれた先に、突きつけられたのが「キミは無職だったんだね」という言葉だったとすれば、それは、きっと私にとっては「キミはやくざだったんだね」や「前科一犯だね」といった響きをもって聞こえるに違いない。実際マサゴさんもそうだったらしい。

「僕、すっかり赤くなっちゃった。なんでここに来ていまさらキミは無職だなんて改めて言われなくちゃならないんだと思った。だって無職だから職探しに来たんじゃないか。そう思ったらだんだん腹が立ってきたんだ。でもね、よく聞いたら違った」

 そう言ってマサゴさんは、一人で笑い出した。

 藤の蔓の隙間から見える空に、マサゴさんの笑う声が泡となって立ち上り、風に乗ってはじけて消えた。マサゴさんが、ひとしきり笑い終わった夏は、つかみ所のない静けさに満ちているような気がした。

「ムショクって、色がないって意味だったんだ」

 マサゴさんはぽつりとつぶやくように言った。

「無色透明の、無色ってこと?」

 静かにうなずいたマサゴさんは大きく伸びをした。

「つまり、僕が何かなりたい自分だとか、やりたいことだとか、そういうこともなく生きてるってことを言いたかったみたい」

「それで、面接の結果は?」

 私が尋ねると、マサゴさんはまた「ぷくっ」と空気を破裂させるように笑った。そうしてまた立ち上がり、くるくると両手を広げて回り始める。

「僕はムショクのトウメイ。透明人間だっ!」

 マサゴさんは心底愉快そうだった。まるで、自らが透明人間であることを信じているように、恥も外聞もなく、子供のようにスキップしながら公園を駆け回っている。

 しばらく駆け回っていたマサゴさんはまた私の前に戻ってくると、息を切らして私を見つめた。

「でも、ナゴ君には見えるんだねぇ」

 じっとりと汗がにじむマサゴさんの額を見て、私はまた妙な勇気を取り戻しつつあった。

 私はマサゴさんの傍らをすり抜けて、陽の燦々と照る叢の上に立ち止まる。

 マサゴさんはどうしたものかと心配になったらしい。藤棚の影から出て、私のもとへ歩み寄った。

 その一瞬、私はマサゴさんの短い影を思い切り踏みつけた。

「影踏んだ!」

 マサゴさんはぽかんとして、踏みつけられた足下の影と、私とを交互に見返している。

「私もムショクトウメイですから、マサゴさんが見えるし、影も見つけられます」

 私がにっこりと笑いかけると、マサゴさんも笑った。

「ふふっ。ナゴ君もかっ」

 マサゴさんはそう言って私の影を踏み返す。

 いい歳をした私たちは、有り余る時間を影踏みに費やした。きっといまどき、子供でもやらないようなバカ騒ぎである。ただ、恥ることさえ忘れてしまえば、それはただただ愉快なバカ騒ぎである。

 それからムショク同士の影踏みは、飽くこともなく、日暮れまで続いた。


 第五章


 あの影踏みの日から私はマサゴさんとほぼ毎日顔を合わせていた。

 といっても、お互い何かを話すでもなく、朝から閉館まで図書館にいるだけというだけのことである。

 私は適当に気が向いた本をいくつか手にとっては読書室に持って行くと、日がなそれを読むだけ。

 一方のマサゴさんも、私と似たようなもので、やはり私の一つ隣のテーブルに向かって本を読んでいるだけである。

 まるであの部室が横須賀に出張してきたかのような時間の流れがそこにある。

 ただひとつあのときと違うことは、マサゴさんが読むだけではなく、書くこともしているらしいということだった。

 マサゴさんはときどき、思い出したように小さな手提げ鞄から短冊のような紙を何枚か取り出すと、何かを書き付けていた。

 きっとまた、いつもの気まぐれに何かをはじめたのだろう。私はさほどの関心を持たずに、その様子を横目に見ていた。

 そんな日が続いた後の、ある日のことである。

 いつの間にか外では蝉が鳴き始め、夏休みなのだろう、いままでは見かけなかった

 小学生や中学生の姿がちらほらと読書室に見え始めた。

 私もこの頃になると、本ばかり読むこの生活にそろそろ飽き始めていた。

 といってもどこへ行く宛もない。私は結局机に突っ伏して惰眠をむさぼることが多くなり始めていた。

 ある昼下がりのことである。私は読み終えた小説を傍らに置くと、いつもの如く机に突っ伏した。

 静かな室内に冷房の音がよく聞こえる。最初こそ耳障りな雑音であったが、すでにそれにもすっかり慣れて、いまや子守歌のようにさえ思える。

 私が夢心地に落ちていきかけたとき、ふと私の肩を叩くものがあった。

 私は薄目を開けて振り向くと、私の頬に誰かの指がめり込んだ。

「ぷっ、くふふふふふふっ」

 見事に引っかかった私の間抜けな顔を見て、マサゴさんが笑っていた。

「いよいよ飽きてきたね」

 マサゴさんはそう言って私の背後に回るや、両脇に腕を回して私を無理矢理起きあがらせる。

「飽きたからって私をおもちゃにしないでくださいよっ」

 私は唐突に寝起きを襲われたことに苛立ち、マサゴさんの手をふりほどいて立ち上がる。

 その私の眉間の前にマサゴさんはいくつもの短冊の束を突きつけて笑った。

「飽きたからアキナイをしよう」

 織り込みチラシの裏を使った不揃いな幅の短冊が私の前でさらさらと揺れた。

「寝るのにはまだ飽きてないです」

「僕が飽きたんだもの。しかたない」

 私の抗議にマサゴさんはまったく聞く耳を持たない。

 私の手を取ると、急いで読書室を飛び出したのだった。

 マサゴさんが私をつれて早足に図書館のある丘を下る。

 たどり着いたのは軍港が一望できるヴェルニー公園であった。

 潜水艦や駆逐艦がよく見えるウッドデッキの遊歩道と、春秋の薔薇が売りの公園である。

 気晴らしに散歩でもするとでもいうのだろうか。

 私が怪訝な顔でマサゴさんを見つめていると、マサゴさんは、芝生に植わった一本の桜の木陰を見つけて、その影に二畳ほどの広さの茣蓙を広げた。

 さらに、マサゴさんはその茣蓙の上にさっき手にしていた短冊を一枚一枚並べていき、それぞれを小さな軍艦をかたどった文鎮で止めていく。

 どうやら、この短冊を売るつもりらしい。

 即席の売場には段ボールで出来た一枚の看板が掲げられた。


 名歌一枚百円也大変御買得


 売場の支度が整うと、マサゴさんは私に茣蓙の真ん中へ座るよう手招きした。

 私は首を振ったが、マサゴさんはにこにことしているばかりである。

 私はついに根負けして、茣蓙の上にあぐらを掻いて座った。

「どうだい?商いできそうだろう?」

 私は即席の店頭に並んだ、一枚の短冊を手にとってみた。

 美しいか醜いかで言えば、限りなく醜い方に近い、ふにゃふにゃとのたくった筆ペンの文字が、パチンコ屋の広告の裏側を使ったらしい短冊の上に踊っている。

 書いてある短歌の内容がよければ、玉に傷程度なのだろうが、素人の私から見ても、

 その出来はひどい物だった。


 うつせみの命を惜しみ鳴くやらむ鳴くよりほかにすることもなし


「これ、売るんですか」

 私はマサゴさんを見上げて尋ねた。

 百円だって、十円でさえ、もらって良いレベルとは思えない。むしろタダだってもらいたくない。もはやゴミ同然である。

 こんな物を並べてこんなところに座っていては、正気を疑われかねない。人目を引く前に手早く片づけた方が得策であろう。

 私は暗にマサゴさんへ、とり止めるべきという意味を込めて尋ねたのである。

「飽きなさそう?」

 マサゴさんはそのことにまったく気がついていないようだった。私はさすがに苛立ちを隠しきれず、立ち上がると悲鳴のような声を上げた。

「商えそうか考えてください!」

 私の声に公園を歩く人々の視線が一気に集まる。

 私は集めたくもない注目をうっかり集めてしまったことにおびえながら、静かにまた座り込んだ。

「飽きるか飽きないかで言えば飽きない。それならいいんだ」

 マサゴさんはへたり込んだ私にそう言って、いつものように、にっこりと笑いかける。

「飽きるか飽きないかで言えば呆れましたよ」

 私の言葉をマサゴさんは、やはり聞いていなかったのかもしれない。

 マサゴさんは私に背を向けて、どこへともなく歩き出したのである。

 私は慌ててマサゴさんのズボンの裾を掴もうとするが届かない。

 私はそのままよろけて、茣蓙の上から芝生の上に倒れ込んだ。

「それじゃ、いいアキナイを」

 マサゴさんはそう言い残すと、すたすたと駆けていく。

 私は倒れ込んだ芝を握りしめながら、ただその背中を見送るほかになかった。

 ここで止せばいいのに、私はこのアキナイを引き受けることにした。

 無責任に置き去りにされたのだから、ここで露天をやる義理はどこにもない。いま

 すぐこの露店を畳んでしまえばいいだけのことである。

 ただ、私はこのとき意地になっていた。

 このまま日が暮れる頃までアキナイとやらを続けて、一枚も短冊が売れなかったと、

 マサゴさん罵ってやろう。莫迦にしてやろうと考えたのである。

 私は横須賀の名所の真ん中であぐらを掻きながら、有らん限りの無愛想を作り、ひたすら店番を続けた。

 木陰とは言え、涼しいとは言い難い。

 汗をにじませながら、港を睨むむさ苦しい男に声をかける人もいなければ、近寄る人すらもいない。

 ざまあみやがれ。と私は内心悪態をついた。

 実際のところ、この時点でマサゴさんの企みは半ば成功していたのかもしれない。

 何しろ私はこの短冊を一枚も売れないことを楽しみに、ここで頑張っているのである。

「飽きないと言えば飽きないけどさ」

 私はそんな独り言をつぶやきながら、港を見つめ続けていたのだった。

 そうしている内にだんだんと日も傾いてきた。

 潜水艦の上に立った水兵がラッパを吹き鳴らし、夕刻を告げている。

 さすがに日も暮れてからこんなことをしている積もりはない。もう頃合いであろうと私が立ち上がりかけたとき、どこからともなく現れた一人の女が露店の前に立ち止まった。

 グレーのスーツを身につけた薄い顔立ち。おそらく私やマサゴさんとさほど歳は変わらないだろう。

 白の日傘を肩に掛けつつ、品定めするように短冊を眺めていたその女は、その内の一枚に目を留めて手に取った。

 よく見るとそれは、広告の裏紙ではなく、千代紙をまっすぐに裂いて作られたものであった。

「ねえ、これって、値段、負からないのかしら?」

 女は無愛想に私に尋ねた。

 個人的な評価としては、こんなものはタダで持って行っていただくのが一番いいと思っていたのだけれど、ここで一枚でも売れてしまえば、私の今日の座り込みが無駄になってしまう。

 私は心を鬼にして首を横に振った。

「負かりません。百円です。高いとお思いでしたら、そのまま置いて帰っていただいても構いません」

 私が答えると女は小さくため息のような吐息を漏らした。

 そうして、バッグから長財布を取り出すと、私に千円札を突きつけたのである。

 私は困惑してしまった。間抜けなことに、釣り銭の用意は全くしていなかったのである。

「すみません。いまちょっと、お釣りを……」

 私は慌てて自分の鞄の中から財布を取り出し、なんとか小銭を用意しようとする。

 ところが私の手持ちにも小銭がないのである。

「だったらいいわ。お釣りは差し上げます」

 女はまごつく私に、ピン札の千円を突きつけるようにして寄越した。

 私はまた首を横に振りながらも、結局その札を受け取ってしまったのだった。

「ねぇ、念のため聞くのだけれど。これ、貴方が書いたものじゃないのよね?」

 女は千代紙に書かれた短歌を私に向けて尋ねた。

「ええ、ここにあるのは全部、私が書いたものでは――」

 私が答えるのも聞かず、女は短冊を半分に手で裂いた。呆然とする私の前で、女は無愛想な表情から一転して、嬉々として表情になり、何度も何度も、短冊を裂いていく。

 やがて短冊は紙吹雪ほどに小さくなり、女の細い手に握られた。

 女は夕風が吹き抜けるのを待っていたのだろうと思う。

 女は風に向けて手を伸ばし、そのまま手を広げた。赤い千代紙は夕日を受け鈍く輝きながら、どこへともなく飛んでいく。

「あーすっきりした!」

 女は腕を伸ばしたまま大きく伸びをするとそのまま私に背を向けて去っていく。去り際、女は私に手を振りながら言った。

「才能ないんだからやめちまえ!」

 私は千円札を握りしめたまま、その女の背中をただ呆然と見送ることしか出来なかった。

 その後、あたりがすっかり暗くなってから、マサゴさんは公園に戻ってきた。

「どうだった?飽きなかった?」

 マサゴさんは無邪気に笑いながら私に尋ねた。

「案外、飽きませんでしたし、千円儲かりました」

 私がおずおずと綺麗な千円札を差しだすと、マサゴさんは嬉しそうに千円を握りしめた。ピン札は瞬く間にくしゃくしゃになり果てた。

「まさか売れると思わなかった。しかも千円でだ!やっぱり僕、そこそこ才能あるんだなぁ」

 私ははしゃぎまわるマサゴさんを前にことの真相を話すことはとても出来なかった。

 風に舞い消えたあの赤い千代紙の紙片は、どこへ行ってしまっただろうか。

 どうかマサゴさんには見つかりませんように。

 私は内心祈ってから、あの夕空に見た紙吹雪を美しい夏の心象風景としてそっと心の内にしまい込んだのだった。


 第六章


 月曜日の朝というのは働いていなくても気が重いものである。さらに雨が降った日の辛さと来たらこの上ない。

 なにしろ、月曜日は図書館が休館なのである。

 私は横須賀中央の改札口から、降り止む気配のない雨を見上げて、途方に暮れていた。

 晴れている日はどうにでもなる。多少の暑ささえ我慢すれば、外にいることだって出来るのである。

 ところが雨となれば、図書館以外に雨をしのぐことが出来る場所を探さねばならない。

 喫茶店かどこかに転がり込もうか。

 私が思案していたとき、背後から肩を叩く人があった。

「ナゴ君、おはよう。今日は図書館はお休みだよ?」

 それは半透明の雨合羽を羽織ったマサゴさんであった。

「それで行き場がなくって困っているんですよ」

 私はマサゴさんの方で何とか知恵を出してくれないものかと、わざと困り顔を作って見せた。

 マサゴさんも毎週月曜日はきっと難儀しているはずなのである。こういうときは歴が長いほうに委ねるに限る。

「じゃあ、僕と一緒に来るかい?」

 マサゴさんはにこにことしながら首を傾げた。

 私がうなずくとマサゴさんは、しとしとと降り続く雨の中へ、嬉しそうに歩き出した。

 マサゴさんは、途中花屋の前で立ち止まった。

 よほど大事な人に贈るものらしい。マサゴさんは店の隅から隅までを隈無く見て回り、真剣に一輪、一輪を品定めしていた。

「誰に贈るんですか」

 私が尋ねたがマサゴさんは答えない。いままで見たこともない真面目な顔をして花と対面している。おそらく三十分以上は待ったと思う。マサゴさんは結局、紫色のトルコキキョウを買い求めた。

「ナゴ君、三百円だって」

 マサゴさんは品の良さそうな花を片手に、にこにこと私に手のひらを差し出した。

 私もさほど財布に余裕があるわけではないが、ここで断れば行き場もなくなりかねない。

 私は涙を呑んで、マサゴさんの手のひらの上に百円玉を三枚乗せたのだった。

 花屋で買い物を終えると、マサゴさんはまたどぶ板通りに向けて歩いていたかと思うと、不意に商店街に平行する裏道へとするりと入り込んだ。左手に高い崖を見る、

 薄暗い路地である。

 その路地の真ん中に、一軒の銭湯があった。

 まだ早朝のことなので銭湯のシャッターは降りている。

 マサゴさんは構うこともなく、そのシャッターを叩いた。

「おはよーございまーす」

 マサゴさんは間延びした声で叫んだが返事は聞こえない。

 営業時間外に朝風呂を楽しもうという魂胆なのだろうか。時間外でもお構いなく、

 銭湯をこじ開けようとする意気には驚かされる。

 しかし、しばらく待っても誰かがシャッターを開ける気配はない。

「留守みたいですよ」

 私がマサゴさんに話しかけたとき、目の前で勢いよくシャッターが開かれ、中から背の曲がった老婆が現れた。

 寝起きなのかもしれない、薄目を開けた老婆は、面倒そうにこちらを見ている。

「たのむから営業時間に来とくれよ」

 老婆はしわがれた声でマサゴさんに言った。

「営業時間外に行くように言われてるんです。湯上がりに僕と出くわしたくないみたい」

「そうかえ」

 老婆はまた面倒そうに言うと、マサゴさんに切符ほどの大きさの紙片を手渡した。

 それは銭湯の回数券であった。

「ナゴ君、四千四百円」

「えっ」

 またしても手のひらを差し出したマサゴさんに、私は面食らった。

「大丈夫。ちゃんと返してもらえるから」

 にこにことするマサゴさんの隣で、老婆がさっさと払えと言わんばかりにこちらをじっと睨んでいる。

 私は不承不承、言われたとおり、なけなしの千円札と小銭をマサゴさんに渡した。

「まいど」

 マサゴさんから老婆へ四千四百円がリレーされると、老婆は素早くまた銭湯の中へと引っ込み、勢いよくシャッターを下ろした。

「これで準備万端」

 マサゴさんは老婆がシャッターの向こうに消えたのを見届けると、スキップしながら汐入の駅の方へと向かう。

 私はその背に追すがりながら、私の五千円ほどの支出になんの意味があったのか尋ねた。

「田浦の君に献上するのさ」

 汐入駅を通り過ぎ、ヴェルニー公園を抜ける頃になって、ようやくマサゴさんは答えた。

「なんですか。それは」

 私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「田浦に住んでる姫君。だから田浦の君」

 マサゴさんは動じない。時々買い求めたトルコキキョウの花が雨露に濡れたのを見ながら、にこにことしているばかりである。

 姫君ということは、これから会いに行くのが女ということには違いない。マサゴさんの想い人ということだろうか。だとしたら、その想い人からの好感度を上げるための献上品を私がまんまと買わされたということになる。

 しかし、泣いてもわめいても、消えた五千円は帰ってこない。

 私は腹立ち紛れにマサゴさんの背中に吐き捨てるように言った。

「あんなところに姫はオーバーですよ」

 田浦は横須賀線でここから一駅先にある。海側の基地のほかは、谷戸に閉ざされた、坂道だらけの鬱蒼とした土地。というのが私の田浦に対するイメージであった。

 いくら懸想する相手でも、田浦に姫は似合わない。尼とかならわからなくもないけれど。

「会えばわかるよ」

 横須賀駅に着いてもまだ不機嫌そうな私に、マサゴさんは言った。

 そうして券売機の前に立ち、一駅先の切符のボタンを押すと、私に手のひらを差し出したのである。

 何もかもに諦めきった私は、肩をすくめてため息を吐くと、マサゴさんを押しのけて券売機にお金を入れたのだった。

 電車はトンネルを抜け、田浦駅にたどり着く。

 トンネルだらけで薄暗い印象がある、横須賀線の駅の中でも、田浦の駅は一番薄暗いような気がする。

 どんよりとした空の下、私たちは今乗っていた横須賀線の線路を辿るようにして歩いている。

 田浦の君の住まいはずいぶんと駅から歩くらしい。

 どこか陰気な気配が漂う中でも、マサゴさんは上機嫌である。

 雨に濡れれば濡れるほど元気になる質なのではないか。

「前世は蛙かなにかだったんじゃないですか」

 私が独り言をつぶやくと、マサゴさんは思案顔になって、虚空を見上げた。

「蛙ではないとおもうんだよなぁ。水はきっと関係してる、とは思うんだけれど。ということは魚……さかな……さかなかな……さかなかなかな」

 マサゴさんはそう言って魚の名前をぶつぶつと列挙し始めた。

「いわし、さより、たい、すずき、イカ……おしい感じがする」

 マサゴさんはそう言いながら、小さな踏切を渡って、木々に覆われた細い坂道を上っていった。

 道の傍らには人が住まなくなって幾年月も経ったであろう廃屋が建ち並んでいる。

 家々はその外形を保ちつつ、突然住む人を失った空虚さに満ちている。

 バブルの頃、開発業者が住人たちを強引に立ち退かせたものの、結局開発計画が頓挫してしまい、そのまま打ち捨てられることになってしまった夢の抜け殻。それがこの廃墟群であった。

 きっと人類が滅んだら、世の中みんなこうなってしまうのかもしれない。

 私は不気味な思いとともに、こんなところに人が住んでいるものだろうかと疑った。

 私の気も知らず、マサゴさんはどんどんと坂道を上っていく。

 道中、マサゴさんは家の軒先で雨宿りする野良猫に、一匹一匹会釈をしているのが、私には不思議に映った。

 坂道のどん突きまで来て、マサゴさんは立ち止まった。道の傍らにはやはり朽ち果てかけている二階建ての廃墟しかない。

 その廃墟にマサゴさんは分け入っていった。

 玄関にはベニヤ板が打ち付けてあるため入れない。マサゴさんは慣れた様子で家の

 裏側に回り込んでいく。

 玄関の真裏には勝手口があり、その扉はまだかろうじて機能を果たしていた。

「僕らは身分が低いからね。正面玄関からは入れないんだよ」

 マサゴさんは一つ泡を吐くように笑うと、なぜか声を潜めて言った。

 ドアを開けた先は、廃墟にしては生活感が残されたダイニングキッチンであった。

 もちろん人が住まないせいで、床板がぐにゃぐにゃとひしゃげていたり、物が散乱していたりはするが、食器棚には整然と皿やコップが並べられている。ダイニングテーブルも、埃が積もっている以外には痛んだところが見あたらない。

 埃と土にまみれた廃墟でありながら、土足でここにあがることは、どこかためらわれる気配があった。

 私が小さな三和土でもたついていると、マサゴさんは私の前に、どこから取り出し

 たのか一足のスリッパを出してくれた。

 マサゴさんに続いて私が台所に上がり、靴をそろえたときである。どこからともなく猫の鳴くような声が聞こえてきた。

「なーご、なーごは来たかぇ」

「ナゴも来ましたが、サゴもいますよお」

 マサゴさんは声のする方に呼びかけつつ、磨り硝子の引き戸を開けた。家がゆがんで立て付けが悪くなっている引き戸は人一人分ほどしか開かないらしい。

 マサゴさんは小さな隙間をすり抜けて、奥へと進んでいく。私も体を捩ってマサゴさんの後に続いた。

 次の間は十畳ほどのリビングであった。

 部屋は雨戸が締め切られ、真っ暗である。目を凝らして足下を見れば、いつのものかわからない雑誌や新聞で埋め尽くされているのがわかる。

「なーご、なーご」

 また猫の鳴くような女の声が聞こえたかと思うと、突然あたりがぼんやりとしたオレンジの光に包まれた。部屋の四隅に、設えられた廃墟に似合わない雪ぼんぼり洞に火が灯ったのである。

「ナゴじゃなくって、サゴですよ。そろそろ覚えて欲しいなぁ」

 マサゴさんが苦笑いする声の先にいたのは、畳の上に伏せる奇妙な格好をした長い黒髪の女であった。

 黒いワンピースの上に、牡丹を散らした真っ赤な打ち掛けを羽織り、頭には星のマークが打ち出された鉄帽を被っている。おそらくこれが田浦の君なのだと、私は直感した。

 田浦の君は病的なほど白い頬を膨らませながら、マサゴさんを睨んだ。

「お前が勝手に名前を変えるからややこしいんだろう?ええい、面倒だ。ナゴ一号とナゴ二号。もうそれでいい!」

 田浦の君はなぜか私、マサゴさんといった順番で指を指していく。どうやら田浦の君の中では、私がナゴ一号、マサゴさんがナゴ二号ということになったらしかった。

「そうむくれないでくださいよ。お土産を持って参りました」

 マサゴさんはそう言って、田浦の君の前へ進み出ると、雑誌の上にひざまづき、トルコキキョウを捧げた。

 田浦の君はくりくりとした瞳を輝かせてそれを受け取り花に顔を近づける。

「花言葉はすがすがしい美しさ、だそうでございます」

「うむ。ほめてつかわす」

 田浦の君は打ち掛けの裾を引きずりながら、ゆっくりマサゴさんへ近寄ると、両手でマサゴさんの額を引き寄せ口付けした。

「ありがたき幸せ」

 田浦の君が離れると、マサゴさんはいっそう深く頭を垂れた。

 マサゴさんから離れた田浦の君はいつの間にか銭湯の回数券も手にしている。どうやらマサゴさんが花に隠して一緒に手渡したものらしい。

 いつもこの二人はこんなやりとりをしているのだろうか。私が呆然と見つめていたときである。

「ナゴ一号」

 田浦の君が唐突に私を呼んだ。

「この土産はすべてお前が買ったもんだろう?くるしゅうない。褒美をつかわす」

 田浦の君は満面の笑みを浮かべて私に語りかけた。田浦の君は変な格好さえしてい

 なければ、相当な美人である。私は先ほどマサゴさんがしてもらった額への口づけを思い出しながら、何をもらったらよいか、よくよく考え込んでしまった。

「何でもいいんだよ?あるいは何ぞ不便していることがあれば何とかしてやるからさ。さあ、お前の望みを」

 私が不便していることとはなんだろう。私はさし当たって、今日のような月曜日に行く宛がないという問題に思い至った。

「私は今、月曜日の行き先に困っております」

 私の返答に田浦の君は拍子抜けしたように、目を丸くして私を見つめた。黒く潤んだ瞳に雪洞の灯りが燃えるのが映り込む。雪洞の火が揺らいだのと同時に田浦の君がどっと笑い出した。

「二号!聞いたかい!こいつ、本当に欲がないんだね!」

 田浦の君は笑い転げながら私を指さしている。

「ナゴ一号ですからね。ぷっ、ふふふ」

 マサゴさんも田浦の君に釣られて笑い出す。

 廃墟の中は二人の笑い声で、一気に明るくなったような気がした。

 環境の不気味さ取り払われたが、私は妙に恥ずかしくなってきて、その場にうつむいていた。

 確かにもっと願うことがあったのかもしれない。

 とはいえ、この珍妙な格好をした廃墟住まいの姫君になにができるというのだろう。

 私は他にあったかもしれない、田浦の君にかなえられそうな願いについてあれこれ

 考えてみたが、結局他には思い至らなかった。

「では、雨の日の月曜だけお前をここに置いてやろう」

 田浦の君はそう言って私に手招きした。

 私が進み出ると田浦の君は立ち上がり、私の首に何かを取り付けた。それは革製の

 青い首輪であった。私はあわてて後ろに飛び退いてはずそうと頑張ったがどうにも首輪は外れない。

「よくお似合いで」

 マサゴさんが手を叩くと、首輪の真ん中に何か札のようなものがぶら下がっているのに気がついた。札は傘を指した男と蛙の絵。花札である。

「蛙に小野道風じゃ十一月だから季違いじゃありませんかねぇ」

 マサゴさんはそういって札を持ち上げる。

「雨の日ってことだから間違いではないだろう?」

 二人は私を置き去りにして勝手に話を進めている。田浦の君が綺麗だとは思ったが、いくら何でも私にこんな被虐趣味はない。私はとたんに惨めになって、二人を交互ににらんだ。

「ああ、もう、泣きそうじゃないか。そんなに悲しむなよう。そろそろ雨も止むから

 さ。一号も泣き止んでおくれ」

 田浦の君が言うと、あたりが急に静かになった。

 今まで気にしていなかったが、雨が止んだのである。

 雨音が消えると同時に、私の首輪はいつの間にか消えていた。

「それは月曜の雨の日だけ、私とお前に見えるようになってる。ほんとうは二号には見えないはずなんだがねぇ」

 田浦の君は不思議そうにマサゴさんを見遣る。マサゴさんは、ただはにかんだような笑みを浮かべているばかりであった。

 そんなマサゴさんの様子を見て行いた田浦の君が唐突に無表情になった。

 ほんとうになんの前触れもなく潮がさぁーっと引くような変化であった。

「ところで二人は、いつ頃お帰りになんの?」

 田浦の君はそう言って、ころんと畳の上に倒れ込むと私たちに背を向けた。

「おや、もう飽きられましたか」

 マサゴさんは田浦の君の急変には慣れているらしい。肩をすくめて、一つため息をついた。

「飽きてしまったよ。とっとと帰ってほしい」

 私は一体今までの流れのどこに、飽きる要素があったのかさっぱりわからなかった。

「田浦発二十時十一分の電車で帰ろうと思います。ナゴ君も同じ電車でいいかな」

 マサゴさんは私に尋ねた。私は頷いたが、ここについたのは昼前のことである。

 二十時まではまだずいぶんと余裕がある。

 なんの前触れも無く、私たちに飽きてしまったというこのお天気屋の姫君をあと八時間飽きさせないように頑張るか、諦めてここから出ていくのか、私はことの成り行きを見守るしかなかった。

「そこに時計があるから。回しとくれ」

 田浦の君は私たちに背を向けたまま、部屋の隅にある古い振り子の掛け時計を指さした。

 風防は外れ文字盤もかすれた時計の振り子は、十二時五十八分頃を指したまま、完全に止まっている。

「御意に」

 マサゴさんは低く返事をすると、古雑誌の海を踏み分けて時計に手を伸ばす。

 針をゆっくりと回すと、締め切ったはずの部屋の中に生暖かい風が吹いて、雪洞の灯りが消えた。

 部屋の中は来たときよりも真っ暗になり、目を閉じているのか、開いているのかもわからないようになった。

「ナゴ君、目の中の暗闇を確かめてから、外を見てごらん。やり方は簡単だ。目をぎゅっと瞑ってから、ゆっくり、大きく開く。ぎゅっと瞑って、ゆっくり開くだ」

 マサゴさんの声が、砂嵐のノイズの中から、遠ざかったり近づいたりして聞こえた。

 私はマサゴさんに言われたとおり、強く目を瞑り、ゆっくりと開いていく。

 薄く開いた瞼の隙間から、白い光が差し込んで来て、それ電車の近づく音と風になった。

 私が完全に目を開き終えると、そこは田浦の駅であった。目の前には下り電車が止まっている。

「きっかり二十時十一分だ」

 隣に立っていたマサゴさんが、ズボンのポケットから取り出した懐中時計を満足そうに確認してから、またポケットへと滑り込ませた。

 私は狐に摘まれたように、言葉を失ってマサゴさんを見た。

「田浦の君は気まぐれなんだよ。あれはきっと猫と暮らしてるからだと思うんだけど。ナゴ君もそう思わない?」

 私たちはどうやってここまで来たのか、どうして時間が進んでいるのか、私はマサゴさんに訪ねようとしたが、うまく声がでない。

 ぱくぱくと口を閉じたり開いたりしているのを見て、マサゴさんが泡を吐くように笑った。

「だいぶ酔ったみたいだね。大丈夫、そのうち慣れるから」

 マサゴさんはそう言って私の肩に手を回すと、電車に乗り込んだ。

 田浦の駅がトンネルの向こうに遠ざかっていく。

 この暗闇の向こう側はもしかすると私が住んでいる世界とは違う世界なのではないか。

 私は目まぐるしく過ぎていく、トンネルの蛍光灯をからしばらく目が離せずにいた。


 第七章


 田浦の君との衝撃的な遭遇から、しばらく雨は降らなかった。

 あれからマサゴさんもおとなしく図書館で本を読んでいるばかりで、アキナイをしようとはもう言い出さなかったし、私の無職生活は平静を取り戻していた。

 頬杖をついて読書室の窓を見渡せば、青空に大きな入道雲が広がっている。

 窓越しに聞こえるアブラゼミのやかましさは日に増していて、夏はいよいよ盛りに向かっているようにも見えた。

「だけど暦の上ではもう秋なんだよなぁ」

 青く茂る木々の緑も、やかましく鳴くあの蝉たちも、ここを頂点にゆっくりと衰退していく。

 終わる気配の無いものにも、いつかは終わりが来るのだろうか。

 あるいはその終わりを見据えたとき、それは夏でなく秋なのかもしれない。

 私は炎天下に虫取り網をもって読書公園を駆け回る子供の姿を見下ろしながら、若くありながら衰微していく我が身を思った。

 老いなど微塵も感じるところがない私も、実は秋にさしかかっているのだろうか。

 私が言いようのない不安と感傷に苛まれていたときである。私の頬を何かの紙片が撫でた。

 振り向くとマサゴさんが、にやにやと何かたくらむようにして、私を見下ろしている。

「ナゴ君、クラゲを見に行こう」

 マサゴさんは私の前に二枚のチケットを差し出した。それは江ノ島水族館の入場券であった。

「なんですか、藪から棒に」

 私は頬杖をついたままテーブルの上に乗ったチケットを退けて言った。

 何が悲しくて野郎二匹で湘南きってのデートスポットにカチコミに行かねばならないのか。

 私は純粋に面倒だと思った。

 このころすでに無職生活一ヶ月と約半月である。

 私の精神はすでに、怠惰という名の贅肉ででっぷりと肥えていた。

 暑い中出かけたくない。何もしたくない。寝ていたい。それが私の飾るところのない願いだったのである。

 一方、マサゴさんはそんな私の気も知らず、一方的にまくし立てる。

「ようやっと思いついたんだよ。田浦の君に会いに行った日にさ、ナゴ君、僕の前世が蛙なんじゃないかっていったろう。僕、蛙はどうにも納得がいかなくって、それでいままでずっと図鑑を眺めながら考えてたんだ。おそらく水は関係していそうだから、魚類じゃないかと思ったんだけどどれもやっぱりしっくりこない。イカが惜しいと思ったから見てたんだけど、それもやっぱり違う。タコでもない。貝でもない。それでね、昨日やっと、やっと思いついたんだよ。クラゲだ。僕の前世はクラゲだと思う」

 マサゴさんはなぜか興奮気味であった。

 といっても自分の前世など確かめようがない。

 私はマサゴさんのオカルトな趣味につきあうつもりはさらさらなかったのである。

「クラゲなんてそこら辺の海に浮いてるじゃないですか。何も水族館まで見に行くことはないですよ」

 私はそう言って、窓の向こうに見える海を指さした。

「ちゃんといろんな種類をみないとさ、どのクラゲだかわからない。もしかしたら深海のクラゲかもしれないだろう。そしたら、やっぱり水族館だ。水族館に行くしかないっ!」

 マサゴさんは突然私の前の机を強く叩いた。

 いよいよ、誰かがあまりの騒がしさから職員を呼んだらしい。

「あのぅ、お静かにお願いします」

 痩せぎすの丸渕めがねの男性職員に注意され、私たちは静かに頭を下げた。

「とにかく行こう。一緒に行って。一回でいいから」

 マサゴさんは私の耳元にささやくようにして懇願した。これ以上騒がれては私も居場所がない。チケットはあるのだし、とりあえずついて行くだけなら構わないか。

「わかりました。行きます。行きますから、静かにしといてください」

 私が不承不承ながら承諾すると、マサゴさんは小さくガッツポーズをした。

「じゃあ、明後日の日曜日、九時に横須賀駅の前で」

 マサゴさんはそう言って、二枚あるチケットのうちの一枚を私に差しだし、どこかへと消えていった。

 その八月の日曜日も変わらず晴れ渡っていた。

 私たちは予定通りの時間に横須賀駅で合流し鎌倉駅から江ノ電に乗った。

 さすがの日曜日で、江ノ電は観光客でごった返している。

「私たちせっかく無職なんだから、平日にでも行けばよかったじゃないですか……」

 私は通勤ラッシュのように寿司詰めにされた電車の中で、マサゴさんへブツブツとボヤいた。

「確かに言われてみればそうだねぇ」

 マサゴさんはいまさらそのことに気がついたようである。

「でも、水族館に平日のイメージがあんまりなかったんだもの」

 私はマサゴさんのイメージとやらのせいで、いらぬ苦労を重ねながら、ようやくのことで水族館までたどりついた。

 私はせっかくここまで来たのだから、一通りの水槽を見て回るつもりだったのだが、

 マサゴさんはそれを許さなかった。

「クラゲだ!今すぐクラゲだ!僕らはクラゲを見に来たんだよ!」

 鰯の群を見上げていた私をマサゴさん一喝すると、恥も外聞もなく私の手をとって、ずんずんと先へ引きずっていった。

「いい大人なんだから、ひとりで見ればいいじゃないですかぁ」

 私は抗議したが、マサゴさんはぎゅっと私の手を握って放さない。結局私は魚もラッコもペンギンも見ることはなく、クラゲの水槽だけをみる羽目になったのである。

 クラゲの水槽は順路の後の方に位置していた。

 水族館の目玉展示らしく、水槽の前は家族づれやカップルでにぎわっている。

 私はその中で、空いているところを見つけては、何とはなしにクラゲを眺めていた。

 青い水槽の中を半透明のクラゲはひらひらと触手をたなびかせながら泳いでいる。

「ゆたにたゆたに……ゆたにたゆたに……」

 傍らにマサゴさんが何かを呪文のように唱えているのが聞こえた。

 マサゴさんはこの水槽のエリアに来てから、鬼気迫る形相でクラゲを凝視している。

 水槽のガラスに張り付きそうなほど顔を近づけては「ちがう」「おしい」「これか……これなのか……んん……違う……」など品定めするように水槽を移動していく。

 その姿は、誰の目から見ても狂っているようにしか見えない。

 おかげで客も近寄らないので、必然空いている場所ができる。そこに私が転がり込むという一連の流れがいつの間にか生まれていた。

 私がマサゴさんと他人のフリをしながら、クラゲの観察を続けていたときである。

 マサゴさんが突然私の袖を引いた。

「見つけた。見つけたよ、ナゴ君。間違いなくこれが僕の前世だ」

 マサゴさんは私の袖を引いて、また無理矢理につれてきたのは、なんの珍奇さもない、ミズクラゲの水槽であった。

「また、いちばんポピュラーなやつでしたね」

 私は苦笑しながらマサゴさんに語りかけたが、マサゴさんは恍惚としてクラゲを見つめていた。

 ミズクラゲは意志があるのか無いのか、水槽の上方を目指したり、逆さに沈んでい

 たり、思い思いの姿で、水中を漂っている。

 その姿は自由であり優雅でもある。だから人はクラゲに引き付けられるのだろう。

 しかし、マサゴさんの背中越しにみるクラゲの姿は、どこか頼りなくもある。

 もし、マサゴさんの前世が本当にクラゲだったとするならば――。

「今も僕は半透明のまま。漂いつづけるまま」

 マサゴさんはどこか寂しげにつぶやくと、ミズクラゲの水槽に色とりどりのライトが当てられた。

 クラゲは青に染まり、赤にそまり、緑に染まり、怪しく漂う。

「透明というには白すぎる。白と呼ぶには色がない。僕は何色になればいい。何色になれば、どこへ歩いていける?」

 マサゴさんは、私には意味がわからない問いを、クラゲに投げかけていた。

 クラゲは答えない。ただ、怪しい光の中を、体をすぼめたり広げたりしながら、漂うように泳ぐばかりである。

 私は水槽を見上げるマサゴさんの眦に涙が一粒浮かんでいることに気がついた。

「マサゴさん、そろそろは行きましょう」

 私は何かに取り憑かれたようなマサゴさんの姿に言いようのない不安を感じた。私は憑依したクラゲの霊を振り落とすように、マサゴさんの肩を揺すったのである。

 私の声にマサゴさんは、我に返ったようだった。

 恍惚とした表情から、いつものようなにこにことした表情に戻ったマサゴさんは、夢から覚めたように大きく伸びをした。

「何か、夢を見ていたような気がする。前世の霊との再会ってやつかな」

 マサゴさんはそう言ってまた「ぷっ、ふふふ」と小さく笑うと、今までのクラゲに対する執着を忘れてしまったかのように、あっさり水槽へ背を向けた。

「ナゴ君、帰ろう。ここは長く居ちゃいけない」

 ここまで無理矢理連れ回しておきながら、また急に帰ろうなどというのは、あまりに勝手な言動にも思われたが、私はマサゴさんの言葉に私は素直に従うことにした。

 私自身、早く帰らなくてはいけないような気がしていた。

 私は振り向きざま、長く細くたなびくクラゲの触手を見た。それは柔らかくありながら、何か自分の魂のようなものを絡め取ってしまいそうな、不気味なものにも見えた。

 マサゴさんと私はなぜか意気消沈しながら、クラゲ水槽のコーナーを後にして出口を目指した。

 その途中のことである。マサゴさんが唐突に立ち止まり、凍り付いたように動かなくなった。

 また、何かに取り憑かれでもしたのだろうか。

 私はうつむいていた顔を上げて、マサゴさんの視線の先を追った。

 そこに居たのは、私たちと年格好の似た男と腕を組んで歩く、見覚えのある女の姿だった。

「ああ、アキナイのときの!」

 私は思わず声を上げた。

 それは千代紙の短冊を無惨に破り、夏の紙吹雪に変えた、あのスーツの女だったのである。

「知り合い、ですか」

 私はおずおずと、マサゴさんに尋ねたが、マサゴさんは答えない。露骨に女から目を逸らすと黙ったまま早足に歩き出した。

 私はあわててマサゴさんの背中を追いかけるが、その歩調は駆け足でなければ追いつかないほどに速い。

 私はマサゴさんを見失わないように必死だった。

 機嫌が悪いから、一人で勝手に帰るだろう。とはとても思えないほどに、マサゴさんが取り乱していることに私は気がついていた。

 あの女の姿を見つけたときの、マサゴさんの横顔は、能面のようであった。

 あれほどに表情を消したマサゴさんの姿を私は今まで一度も見たことがなかった。

 私はただひたすらに不安に苛まれていたのである。

 マサゴさんは水族館から出ても早足に歩き続けた。江ノ島には目もくれず、江ノ電の駅に戻ることもなく、すたすたと国道沿いに歩き続けた。

 腰越の小動岬を越えて砂浜に出て、マサゴさんはようやく歩調を緩めた。

 炎暑に焼かれた私たちはすでに汗みどろになっていた。

 マサゴさんも実は疲れていたと見えて、小刻みに肩を震わせ息を切らしている。

 私たちはお互いに何も語らず、ただ波の音を傍らに聞きながら砂を蹴り続けた。

 浜の中程まで来た頃、マサゴさんは片隅にある流木を見つけて、歩み寄ると尻餅をつくように腰掛けた。私も続いて尻餅をついて隣へ座る。

 夏の日にきらめく相模湾は、先ほど見てきた水槽の色とは全く違う色を持ってそこにある。

「水族館の水槽は偽物の海だ!」

 すでに暑さに酔い始めていたらしい。何の脈絡もなく私は叫んだ。

 マサゴさんは何も言わない。ただ黙って、莫として輝く本物の海を見ていた。

「偽物だ!まがい物だ!金返せ!払ってねえけど!返せぇ!」

 私は脈絡もなく叫び続けた。阿呆のように叫び続けたら、マサゴさんも馬鹿のように叫んでくれるような気がしたのである。

 私はマサゴさんが初めて見せた、深刻な様子に耐えきれなくなっていた。私はここに来て、私の不安の正体に気がつき始めていたのである。

 マサゴさんが深刻で居ては私は困ってしまう。

 マサゴさんが阿呆だから、私は阿呆でも安心していられる。

 マサゴさんに脈絡がないから、私も脈絡無く過ごせる。

 マサゴさんはこの社会から脱線した私が見た、一つの免罪符であった。

 その免罪符がなにかシリアスな現実に直面している。身勝手なことに、私はそれに耐えられない。

「夏の夕空に飛んだ千代紙は、とても、綺麗だったね」

 マサゴさんは、波音に消え入りそうなほど弱々しい声で、唐突につぶやいた。

 私はぎょっとして、マサゴさんを見やる。マサゴさんは、笑っていなかった。

 汗を流しながら、死んだように、海を見ていた。

「――見てたんですか」

 私の問いにマサゴさんはゆっくりと頷いた。

「最初から最後まで、全部、見てた」

 マサゴさんは、ゆっくり言葉を切りながら言った。

 あの女のしたことがよほどに耐えかねたのだろうか、あるいはもっと前から因縁があるのかもしれない。しかし、私はそのことを聞く勇気が、どうしても出なかった。

「ナゴ君、この世にはね、二種類の人間がいる、と、僕は、そう、思うんだ」

 マサゴさんはまた低く、聞き取れないほどのかすかな声で言った。私は黙って相づちも打たなかった。ただ、波の音にマサゴさんの声がさらわれてしまわないように、

 じっと耳を澄ませていたのである。

「生きている人間と、死にたくない人間。だいたいきっと、この、二種類だ」

 ぽつり、ぽつりと、吐き出されるマサゴさんの言葉を、私は理解できなかった。

 生きているなら、死にたくないに決まってる。

 それは物事の表裏であって、対立する事実ではない。

 どうして、それが今ここで発せられたのか、その分類に何の意味があるのかも、私にはわからない。私はただただ苛立ちを感じた。

「二種類じゃない。それじゃ一種類です。同じものじゃありませんか、そんなの」

 私はマサゴさんにムキになって反論した。

 そのときマサゴさんは、初めて笑みを浮かべた。それはいつものにこやかな笑みではない。虚ろな苦笑にも似た笑いである。

「偉いなぁ、ナゴ君は」

 マサゴさんは虚ろに笑い続ける。やはりいつもの笑い方ではない。その笑いには、泡が立たないのである。

「だけどね、僕もナゴ君も、ほんとうには、生きていないと思うよ。いつか、言ったように、僕らは、ほとんど、浮遊霊だ」

 マサゴさんは砂のように干からびた笑いを残したまま、ゆっくりと立ち上がった。

「帰ろう」

 マサゴさんはそう言ってまた歩き出した。

 私は黙ってマサゴさんの後を追い、最寄りの駅から江ノ電に乗り込んだのだが、疲れていたからかもしれない。鎌倉駅の雑踏にその背中を見失ってしまった。


 第八章


 あの日曜日から、マサゴさんは図書館に姿を見せなくなってしまった。

 あれほど憔悴した姿を見せた後である。私はどうにかしてその安否を確かめたいと思ったが、確かめる術は何一つ無い。

 私はマサゴさんが失踪した大学の時と変わらず、マサゴさんのことをほとんど知らないといってよかった。

 マサゴさんが不在のまま、やがて八月が終わり九月に入った。

 子供たちの夏休みは終わっても、私の夏休みは終わらない。ただ、永久に続く休みではないことに、私は少しづつ焦り始めていた。

 実家暮らしとはいえ、私のなけなしの貯金は少しずつ目減りし始めている。それと表裏を為すように、私の経歴に大きな穴が広がっていく。

「浮幽霊とでも思えばいい」

 私を勇気づけていたマサゴさんは同じく「僕らは浮遊霊と同じだ」と、気弱な言葉と残して、文字通り幽霊のように消えてしまった。

 私はある夜、家のベッドから白い天井を見上げながら、腕を伸ばした。

 あの日、湘南の海岸で日焼けした腕は黒々としてそこにある。

「生きている人間と、死にたくない人間」

 マサゴさんと同じ言葉を繰り返し、不安に駆られた。

 私は本当に生きているといえるのだろうか。

 確かに、心臓が動いているだとか、脈があるだとか、脳が働いているだとか、そういった意味では生きているかもしれない。

 しかし、私たちは浮遊霊と同じだと、マサゴさんは言った。事実ではなく比喩であるにしろ、その言葉は私の前に強力な説得力を持って残り続けている。

 死にたくない事実はそこにあるが、私は本当に生きているといえるのだろうか。

 マサゴさんはどこへ消えてしまったのだろう。

 嘘でもいいから、元気を取り戻して、目の前に現れてほしい。そうでなければ、私はこのまま本当に幽霊にでもなってしまいそうだ。

 私がベッドの上で一人のたうち回っていると、外に雷鳴がとどろいた。とたんに激しい雨音が窓の向こうから聞こえてくる。

 私が騒がしい窓に背を向けようと、寝返りを打ったとき、首元に何かが揺れた。

 それは蛙に小野道風の花札であった。

 激しい雨が打ち付ける中、私は暗く不気味な谷戸の坂道を登り、田浦の君の住む廃墟へとやってきていた。

 田浦の君は相変わらず、鉄帽に赤い打ち掛けという珍妙なスタイルで畳の上に身を横たえている。

「あら、今日はナゴはいないんだね」

 田浦の君はどこか退屈そうな声で言った。

「消えてしまったんです。突然」

 私が答えると、田浦の君は私を小馬鹿にするように鼻で笑った。

「形あるものが突然消えたりしない」

 そう言って田浦の君は大きくあくびをする。田浦の君はすべてお見通しといった様子であった。

「あれはね、久々にやる気になったんだ。珍しく真人間になろうとしてんのよ」

「真人間、ですか」

 私がオウム返しに言ったのが、なぜかおかしかったらしい。田浦の君はにやにやと笑みを浮かべながら、私のまねをした。

「真人間、ですか。そう、真人間よ。前にもね、一度真人間になろうとしたことがあったの。あれが大学を出た頃だ。ひょっとして、あのときもお前、アレが消えたと思ったんじゃないの」

 あのとき、というのは、きっと書き置きを残してマサゴさんが消えたときのことだろう。そのとき、マサゴさんは何をしていたのだろう。真人間とは何のことなのだろう。

 私の中に疑問だけが降り積もる。

「説明が面倒だわ。そこに映写機があるから、勝手に見るといい。赤いボタンをぽちっと押すだけ」

 田浦の君はそう言って、私の背後を指さした。

 私が振り向くとさっきまで無かった、古びた映写機が田浦の君の方を向いて置いてある。

 私が雑誌の海を踏み分けて、映写機のボタンを押すと、カラカラという音とともに雪洞の明かりが消えた。

 映写機が発する光の筋を追いかけた先に、田浦の君の姿はない。代わりに銀幕があるばかりである。

「映画、クラゲ人間真人間を目指す!はじまり!はじまり!」

 背後で大正琴の音とともに、田浦の君の声がした。鉄帽はそのままに、装いはいつの間にか男物のダークスーツになっている。

 どうやら、活弁士のつもりらしい。

 田浦の君は白黒の音のない映像に合わせて大正琴を引き鳴らし、銀幕の映像に声を添えていく。

「こちらは華の都の東京の、とある学生の物語でございます。どことなく冴えないこちらの男子学生は名を真砂透と申します。冴えないのは、何も容姿ばかりではございません。勉学についてもからきしだめ。高校の頃までは、先生の言うことをよく聞いて、神童とも申されておりましたが、蓋をあければ煙がもくもく、もとの黙阿弥、おじいさん。あれは合わない、性分じゃない。講義を逃げては、転科、転科を繰り返す。そんな生活を繰り返しておりました。あっちへふらふら、こっちへふらふらを繰り返す、ある人は彼をクラゲ人間を呼んだのでございます。やがて、日は経ち時は経ち、真砂青年、六度目の転科をして、文学に目覚めました。最初が法律、次が数学、経済、歴史、演劇、そして国文学。これならできると、六度目の転科でございます。ここで現れましたるは、見目麗しき女学生。名は有川千早。和歌の授業を受けておることには真砂青年と同じ学生といえまするが、いやいや、まったく出来が違う、志が違う。母子家庭から、這い上がり、その才気で給費学生となりました、才媛中の才媛でございます。

 同じ教室におる他は、袖振り合うことすらない、この二人。ところが、有川嬢には一つの秘密がございました。おっと出て参りました。この四十目前にして、頭の禿散らかったこの男こそ、悪党中の悪党、F助教でございます。この禿頭、自らが必修の科目を担当しておることをよいことに、学生たちに威張り散らし、脅し散らし、わがまま勝手をする、所謂ところのアカハラ代官だったのでございます。この男が、眉目秀麗、有川嬢を見初めたからには、さあ一大事。すっかり助平心を出しました。俺の女にならなけりゃ、単位はやらぬ金は出ぬ。この男、有川嬢が受けている給費を盾に、交際を迫ったのでございます。いやまったくの、悪事、犯罪そのもの。すっこんじまえ!と思ったお客様。心配ご無用。この物語の主人公でございます、真砂青年がここでさあーっと登場いたします。ある日、教室に忘れ物を取りに戻った真砂青年。有川嬢に関係を迫る、F助教を発見いたします。さすがのF助教はそそくさと退散。恨めしそうに舌打ちをして去ってゆきました。「いったい何があったんだ。あんな禿頭と君じゃ、まったく釣り合わないじゃないか」と真砂青年。押し黙っていた有川嬢もついに真相を打ち明けたのでございます。あっちへふらふら、こっちへふらふら、クラゲ人間ではございますが、人並みの優しさも、正義感もございました。気骨こそございませんが、そこは腐っても干からびていてもクラゲ。刺せば痺れる鋭い毒針も持っておるのでございます。「ふてぇ野郎だぁ!ええいとっちめてやらあ!」と意気捲く、真砂青年でございます。といっても腕っ節はクラゲでございますからどうにもなりません。水っぽい頭を絞りまして、有川嬢に録音機を持たせまして、F助教の悪事を一部始終隅から隅までずずいと押さえましたらば、大学のお上にこれを直訴いたしました。お上もこれは一大事と、有川嬢の給費を安堵する旨確約したのでございます。危機を脱した有川嬢、危機を救った真砂青年を救世主と誉め称え、ついには恋に落ちました。これ、これ、吊り橋効果と言ってはいけませんよ。真砂青年の真心と、有川嬢の勇気とが愛に結びついたといわねば。さて、ここでめでたしめでたし、といきたいところですが、そうは問屋が卸さない。F助教の反撃が始まったのでございます。F助教、これが曲者、陰謀家でございました。大学内のありとあらゆる醜聞を、死なばもろとも、自分の分も含めて洗いざらい世間にぶちまけると、水面下でふれまわったのでございます。これにおびえて、腰砕け。クラゲのごとく骨もなく、お上は事件を有耶無耶にして、有川嬢への安堵状をさらさらないと、白紙にしたのでございます。そんなことさえ露知らず。真砂青年、酒席に立って、勝ったつもりで、いい気になって、助平親父を面罵する。ただ面罵するだけでなし、ちょっぴり洒落を利かせます。

「ちはやふる神風の吹きちりぬればはげしかれとは思はざりけり」ところがどっこい、すでに形成大逆転。今日の官軍、明日は賊軍。たちまちこれはお上の問題とするところとなりまして、真砂青年、有川嬢と、か弱き二人は野に打ち捨てられててございます。かくなる上は身を寄せ合って、二人で生きる他ありませぬ。真砂青年奮起いたしまして、有川嬢の学費もろとも稼げるほどの立身出世を決意したのでございます。有川嬢も応援しております。がんばれ真砂!がんばれ真砂!転科、いや天下のクラゲ人間、ついにクラゲを卒業し、真人間になるのか。ところが、所詮、クラゲはクラゲ、なにをやっても続かない。結局立身出世どころか、明日の米にも事欠いて、打ちひしがれるその背中。ああ情けなや!情けなや。ついに有川嬢は去ってゆきます。取り残されたクラゲ人間。ああ、俺はクラゲ人間。ゆたにたゆたに漂うて、一人孤独にどこへゆく。おわり」

 田浦の君の語りが終わり、映写機の光が落ちると、また雪洞に灯りが点った。

 ほとんど映像と合致していない、下手な講談のような語りと、でたらめな大正琴の音色に私は圧倒され、しばし口を開けたままぽかんしていた。

「まあ、さしずめ、有川嬢と再会でもしたんでしょうね」

 いつの間にやら、田浦の君は打ち掛け姿に戻り、畳の上へ突っ伏すような姿勢になっていた。

「いきさつはわかりましたけど、マサゴさんは別にクラゲじゃないでしょう?」

 私の言葉に田浦の君はぴくりと耳を動かした。

「もののついでだから、いいものを見せてあげようか」

 田浦の君の声が聞こえたときには、すでにその姿は私の傍らにあった。

 優に三十センチはあるであろう高下駄を履いた田浦の君は、左手に長いビニール傘を手にしている。

 何事かとたじろぐ私の前で、田浦の君はいきなり私と腕を組むと傘を開いた。

 一瞬の出来事に、私は驚いて目を瞑る。

 目を瞑っていたのは、ほんの瞬きほどの時間である。その一瞬の間に、私の体は見知らぬ砂浜に立っていた。

 田浦の君を訪ねた頃空にあった雨雲はどこにもなく、星空の中に円かな月がぽっかりと上っている。

 街の灯はどこにも見えない。あるのは砂浜と、海と星月夜だけ。夢のような世界の空に、一つの影が浮かんでいた。

 それは半透明のビニール傘を差した、赤い打掛け、カーキの鉄帽。田浦の君である。

 田浦の君はゆっくりと私の傍らに舞い降りると、不敵な笑みを浮かべた。

「月の明かりに真砂が煌めいた夜はね、海月が浜に恋をするのさ」

 田浦の君はそう言って、また私の腕をとった。とたん、ふわりと私の体が宙に浮いて、海の真上にやってきた。

 静かな波の海の上に、無数のミズクラゲが浮いているのが見えた。クラゲは月の光を浴びながら、潮に乗って浜へ浜へと流されているようにも見える。

「私はね、そういう夜に生まれた、あのクラゲたちの夢を叶えてやるんだ。そうして、いくつものクラゲ人間が、世に生まれる」

 田浦の君はクスクスと笑う。その笑みはどこか企みに満ちているようにも見えた。

「案外、親切なんですね」

 私があえてそう言うと、田浦の君は大きく頷いた。

「ああ、親切さ。きっちりお足はいただくけれどね」

「対価ってことですか?」

「そう。対価。といっても私は、おもしろければそれでいいんだ。対価はね、おもしろさ。そのおもしろさを加えるためにね、私は浜に上げるクラゲにはひと匙だけ呪いを盛ってやるの」

 私は呪い、という言葉にぞっとしたが、その言葉を口にした田浦の君は心底胸がすいたかのような嘆息を漏らした。

「メメント・モリ。死を記憶せよ。たったの一言さ。これだけで、浜に上がって立ち上がったクラゲがね、腰砕けになって右へ左へ踊りだすんだ。そのおもしろさと来たら!ははは!」

 田浦の君は高笑いを空に響かせながら、月夜の海面をすれすれに飛んでいく。そして毒を一滴、一滴、丁寧に落とし、染み込ませるようにささやくのである。

「メメント・モリ。死を記憶せよ」

 田浦の君は波に揺れるクラゲのすべてに行き渡るように海の上を飛び回る。

 ひとしきり飛び回り終えると、田浦の君はまたもといた砂浜に着地した。

「おまけはこれでおしまい。さぁてと。じゃあ、公演料くださいな」

 田浦の君は満面の笑みを浮かべて私に右手を差し出した。

 私はしてやられたと思いながら、ポケットの財布を探したが、どこにも見あたらない。

「いくらなんですか。公演料」

 私の問いに田浦の君はまた、くすくすと笑っていった。

「お金なんてもらったっておもしろくもなんともない。もっと別な、おもしろいもので、お足はいただくわ」

 田浦の君はそう言って私の心臓めがけて傘を突きつける。

 私は瞬時、田浦の君が海へとばらまいた言葉を思い出す。

「死を記憶せよ?」

 冷や汗が一筋落ちたのを見届けて、田浦の君は首を横に振る。

「もっと、おもしろいもの。お前の大事なもの。たとえば、そう、秘密なんか素敵そうね」

 田浦の君がにこにことして、私を傘で小突く。私は後ろにつんのめって、砂の上に尻餅をついた。

 きらきら光る細かな砂粒の上を後ろ手に這いずる私の目の前で、半透明の襞がくるくると回る。やがてその半透明のビニールはバサッと音を立てて私の視界を塞いだかと思うと、突然足場がなくなるような感覚に襲われた。

 視界が突然真っ暗になり、私が会社を辞めるまでに聞いてきた、思い出したくない

 声が蘇ってくる。

「いい加減にして」

「やる気あんの?」

「真剣さが足りない」

「何回言わせんの?」

「そんなんじゃ、どこ行ってもやっていけないから」

「成長がない」

「見込みがない」

「いまのままなら、辞めてもらうから」

「役立たず」

 ――違う。

 私は疲れたんだ。

 負けたんじゃない。

 無能だったんじゃない。

 私が会社を、社会を捨てたんだ。

 私は、逃げたんじゃない。

 捨てたんだ。二度と戻るもんか。

 耳鳴りとともに暗闇は消え、私の足に地面の感覚が戻る。私の目にはいつの間にか涙が溜まっていた。

 涙をこぼしながら私は目を開ける。私はいつの間にか自宅の玄関の前に立っていた。


 第九章


 夢のような出来事から帰り、玄関をくぐるとその先には現実が待っていた。

「あんたいままでどこに行ってたの」

 玄関に待ち受けていた現実。それは私の秘密をしった両親であった。

 月夜の海を飛び回っていた。などと言えば、現実のこの傷が癒されるだろうか。あるいは、マサゴさんと過ごした図書館での日々を語れば、傷は塞がるのだろうか。

 私はうつむきながら、両親の問いに黙秘を続けた。

「これからどうしようと思ってんの。あんたもう三十になるんだよ」

 私はついに耐えきれず、手近にあった鞄を抱えて、家を飛び出した。

 電車も走っていないような真夜中のことである。私はまだ蒸し暑さの残る秋の夜を当て所もなく駆けていく。

 明け方、私がたどり着いたのは結局いつもの図書館の前にある読書公園であった。

 まだ雨露の湿り気が残るベンチに、私は倒れ込んだ。

 いつかは来る日であるとは知っていた。ただ、まさか田浦の君のつまらない講談の代償として、このツケを支払わされるとは思いも寄らなかった。

 さあ、これからどうするか。頭を下げに帰ろうか。あるいはここでホームレスでもやるか。

 そう考えたとき、今更ながら、日中はホームレスのようなものだったんだなと思い至った。

 恥を忍びながら、世を捨てて掴んだ仮初めの自由。その実体はデイタイムホームレスといったところである。

 別にそうなりたかった訳ではない。

 強く望んで脱出しようとも思わない。

 なりたい自分などない。

 このとき不意に私の中に、もうなんだかもういっそ死んでしまいたいような気分が芽生え始めた。

「この世には三種類の人間がいる。生きている人間と、死にたくない人間、あともう一つ、死にたい人間っていうのもいますよ。マサゴさん」

「それはちょっと違う。三番目のはいるようでいないんだな。これが」

 私の独り言に、聞き覚えのある声が答えた。

「死に至る病とは絶望である」

 それは私の顔をにこにことのぞき込むマサゴさんの姿であった。

 私は慌てて飛び起きて、再会したマサゴさんの姿を上から下までじっくりと見つめる。

 江ノ島で姿を消したときに纏っていた、負のオーラのようなものはそこに一切見えない。

 この図書館で再会を果たしたときと変わらない、飄々とした雰囲気で、マサゴさんは目の前にある。

 目を白黒させる私の姿がおかしかったのかもしれない。マサゴさんは泡を吐くように笑った。

 そうして私に一枚の葉書を差し出したのである。

 招待状

 名越権兵衛殿

(ナゴ君とばかりよんでいたから名前を忘れてしまいました。御免)

 このたび営まれます真砂透の葬儀に、故人と大変親しかった貴殿をご招待いたします。

 会場は猿島。集合は三笠公園にお願いいたします。

 なお、一生に何度も無いことでございますので、

 欠席は受け付けておりません。あしからず。

 故人兼喪主真砂透


 相変わらずふにゃふにゃと、筆圧の弱い文字が、青いインクで綴られている。

「何ですかこれ」

 私は葉書から顔を上げてマサゴさんを見つめる。

「葬式の招待状」

「見ればわかります」

「大丈夫。生前葬だから」

 マサゴさんはあっけらかんとして私に言うと、突然私の手を取って、立ち上がらせた。

「葬儀の日までは幾分時間があります。そこで、ナゴ君には、ひとつ手伝ってほしいことがあるのです」

 そう言ってマサゴさんは叢の中へ屈むと、何かを掴んで高々と掲げた。

「さあ、葬式の前に古墳を作りましょう」

 それは二本のスコップであった。


 第十章


 マサゴさんと私がスコップを片手にやってきたのは、三浦富士と呼ばれる山の頂上であった。

 富士という名こそ冠しているが標高にすれば二百メートルもない、小高い程度の山である。

 山の頂上は、標高の割には景色がよい。左手に東京湾、右手には相模湾を一望でき

 るこの場所で、私たちはせっせと土を掘り返していた。

 かれこれ一時間ほど掘り返していたと思う。土は硬く思うように積み上げることができない。

 私たちが積み上げた土はせいぜい膝ほどの高さである。

 私はどうしてこんなことをさせられているのか、いよいよ呆れてきた。

「なんで古墳なんか作らなくちゃいけないんだ……」

 私が不満を漏らすが、マサゴさんは、子供の砂遊び程度のこの土の山を満足そうに

 見下ろしていた。

「いやだなぁ。ナゴ君。古墳なんか二人じゃ作れないよ」

 高い青空に向けて大きく体を反らしながら笑った。

 私は言葉にこそしないが「あんたが言い出したんじゃないか」という万感の恨みを込めて、マサゴさんを見つめたが、マサゴさんはびくともしない。

 その代わりに、ここまで背負ってきた大きなリュックを開き中を漁り始めたのである。

「古墳はできないけど、この山を古墳にすることはできる」

 マサゴさんはそう言って、曰くありげな絵付けが為された一枚の皿と、五十音表と、国語辞典を取り出した。

「なんですか、これ」

「副葬品だよ」

 真砂さんはリュックから取り出したその品々を、私たちが掘り返した穴に並べていく。

「もし、ここが千年、二千年たって掘り返されたら、きっとこれが出てくる。そうしたら、きっとここに誰かが住んでいたか、あるいは墓なんじゃないかと思うに違いない。そうしたら、ここは僕らの作った山ってことになる」

 私は黙ってマサゴさんの妄言を聞いていた。

 人骨でも出てこなければ、墓だとは思われないだろう。この副葬品のグレードではせいぜい、ゴミ捨て場がいいところだ。そう言う意味では貝塚に近いのか。それはそれで、おもしろいけれど。

 私はまた呆れかえって、ため息をつくと、マサゴさんは一度穴に並べた皿を手にとって眺め始めた。

「これね、真砂家の家紋なの」

 マサゴさんは皿の縁に描かれた、何かの植物を象った印を指さした。まさか先祖伝来か何かの、高価な皿を持ち出したのではあるまいか。

「大丈夫、お宝とかじゃない。僕が昨日、かっぱ橋の店で買ってきたやつだから」

 マサゴさんんは「お宝の方がよかったんだけど」と前置きしてから、ぽつりと昔を懐かしむような表情で語り出した。

「僕の家、結構、由緒正しい家なんだ。別に、殿様とか、貴族とかってわけじゃないよ?

 ただ、家系図が遠くまでさかのぼれるってだけの庶民だ。だけど、父はね、そのことをものすごく大事に思っていた。僕、一人っ子でね、だから、よくこの家を絶やしちゃいけないってよく言われてた。僕もね、子供の頃は、結構真に受けててさ、僕が真砂家を守るんだって思ってた。でもそれは、僕が守ろうと思う意志というよりかは、

 既定路線というか、予定調和というか、そういうものを信じてた結果だったんだ。つまり、ご先祖様から長くここまで落ちてきた血の流れがあって、僕はそれに乗るだけでいいんだと思ってた。だから、きっとなんとなく、やってれば、仕事して、結婚して、子供ができて、おじいさんになるんだと、そう思ってた。そういう流れの上に生きているんだと思ってた。だけど、実際はそうじゃなかった。その流れは、流れじゃない。一人一人の頑張りで築き上げられたものだってわかったのは、結構大人になってからだ。そうしたらね、僕がもってる真砂って名前がだんだん重たくなってきた。それで重たいから、僕は家族の名前を捨てた。僕はマナゴって名前を捨ててマサゴになることに決めた」

 マサゴさんがかすかな笑い声を立てたとき、北から乾いた風が吹いて、土埃が舞った。マサゴさんが持っていた皿にも容赦なく風が吹き付けるなか、マサゴさんはそれを手放した。

「それが本当に大事なものかどうかはわからない。少なくとも僕にとっては大事なものじゃない。でも、僕の勝手で、ご先祖様たちが築き上げたものが無かったことにされてしまうのは気の毒だ。だから、この山は古墳だったことにする。名前は無くても家紋だけは、ここに残していく」

「実は大事に思ってるんじゃないですか」

 私はマサゴさんのいじらしい姿に苦笑した。本当に大事に思っていなければこんな

 阿呆な儀式など不要なのである。マサゴさんは、きっと、大事に思っているからこそ、それをここに眠らせて、改めて決別したいのだと、私は勝手に解釈した。

「ところで、辞書と五十音表って、マサゴさんの家と何の関係があるんです?」

「無いよ。全く無い」

 マサゴさんはあっけらかんとして答えた。

「むしろこっちの方が一番重要なんだ。ちょっと待ってて」

 マサゴさんはそう言うと、またリュックを漁り始め、中から千代紙で出来た短冊と、筆ペンを二本取り出した。

「さあ、始めよう。ナゴ君もやるかい?」

 マサゴさんは私に、取り出した短冊と筆ペンを握らせる。

「ここで最後の仕上げです。ここから、作った短歌をばらまきます」

 マサゴさんは短冊に向かい、何かを書き付けていく。書き終わると、自信ありげに私へと寄越した。


 寂しさに宿を立ち出て眺むるは我がものとせしふじのいただき


「相変わらず才能の無さが光ってます」

 私が率直な感想を述べると、マサゴさんは「辛辣だなぁ」と言って笑った。

「まあ、下手でもなんでもいいや」

 マサゴさんは短冊の端を持って高々と掲げる。そのうちにまた、乾いた風がしおれたようになっていた短冊に吹き付けた。マサゴさんはそれを待っていたかのように手を離す。短冊は風に流れ、海の方へと飛んでいくと、やがて見えなくなってしまった。

「僕は死にたくない人間なんだ。だから、どうにかして永久に、生きられる道を探したい」

 マサゴさんはじっと、短冊が消えた虚空を見つめていった。

「ご先祖様は血を残し、僕は言葉を残すことに決めた。もしかすると、誰かがあの歌を拾って、残してくれるかもしれない。そのとき、たとえ文明が滅んでいても、ちゃんと言葉が伝わるように、僕は文字と辞書とを埋めて置くんだ」

「残りませんよ、きっと、何も」

 きっとあの短冊は誰にも受け取られることもなく、木に引っかかり、土に埋もれ朽ちて消える。あるいは、波に飲まれて四散する。きっと、これは無意味なことだ。

「枕屏風に貼って残すかもしれない。それがやがて家宝に、ひいては国宝になるかもしれない」

 マサゴさんは頼りない反論を並べ立てる。きっとマサゴさんも心から、それが現実になるとは信じていないのだ。

「なりませんよ。だって、枕屏風なんて、いまどき誰も使わない」

 私の言葉にマサゴさんは、もう反論はしなかった。ただ、にっこりと笑うばかりなのである。

「大事なのは事実じゃない。想像だと思う」

 マサゴさんはまた筆を取って、下手な短歌を書き付ける。

 ゴミのポイ捨てか、未来への贈答品か。

 私も後に続いて、短冊に一首を書き付けて、風に乗せた。


 言の葉も身をも朽ちなむをしければ我が身一つの秋にはすまじ


 第十一章


 副葬品を埋め、下手な短歌をばらまいた私たちは、日暮れとともに三笠公園へやってきていた。

 暗がりにみる、日露戦役の殊勲艦三笠が、灰色の威容をちっぽけな私たちに示している。

 マサゴさんが言う、葬儀の会場の猿島へは、ここから船がでているのだが、すでに最終便は終わっていた。

 私はどうやって向こうへ渡るのか、マサゴさんへ尋ねようとしたときである。

 不意に景気のいい突撃ラッパの音が背後に響いた。

 振り向くと高下駄を履いた田浦の君が、東郷平八郎提督像の頭の上で、ビニール傘とラッパとを両手に持って、絶妙のバランスを保って立っている。

 あたりを見回せば、先ほどまでいた人間の姿はどこにも見えなくなり、いつの間にか公園には私とマサゴさんと田浦の君だけになっていた。

「こちらは真砂透氏の葬儀会場入り口。三笠公園でござい。そちらは参列者?」

 東郷提督の頭の上でライトアップされた田浦の君は、私を指さして高く、不気味に笑う。

 私はお代と称して秘密を暴かれた恨みが蘇り、田浦の君を屹度睨んで言った。

「香典は持ってきてないぞ!このゼニゲバ女!」

 私は柄にもなく、田浦の君を罵ったが、田浦の君が高笑いを止める気配はない。

 一方、私の隣に立っていたマサゴさんは、田浦の君に対して、深々と頭を下げた。

「このたびは、私めの葬儀の為にご尽力いただき、まことにありがとう存じます」

「うむ。くるしゅうない」

 どうして、この人は、こうまで田浦の君にへりくだるのか。私が苛立っていることに、マサゴさんも気がついていたらしい。マサゴさんは私に耳打ちする。

「代償は僕がもう払ってある。それに、今回は田浦の君の力が必要な最初で最後の時なんだ。だから、おとなしくしてて」

 マサゴさんはさらにオーバーにへりくだる。像へと進み出るとひざまづいて、まるで演劇のような調子で尋ねたのである。

「恐れながら、猿島までの船のご用意はいただけましたでしょうか」

「うむ。ぬかりない。あれを見よ」

 田浦の君は勢いよく左手を上げて、三笠を傘で差してから、その傘の先端をゆっくりと、ずらしていく。傘の先端を追った先に見えたのは、桟橋に横付けされた、ピンク色のスワンボートであった。

「ありがたきしあわせ」

 マサゴさんはまた深々と頭を垂れたが、私は一瞬で青ざめた。あんな池や湖で使うようなボートで海が渡れるはずがない。

 しかし、マサゴさんは平然とボートに向かっていく。

「あんなので海に出たら確実に死にますよ。死にたくないんじゃなかったんですか。あるいはいまここで水葬になるんですか。私は嫌です。御免被ります」とほとんど詰るように押しとどめたが、マサゴさんはまったく聞こえない風である。

 結局、マサゴさんはスワンボートに乗り込み、私もそれに続いた。

「大丈夫だよ。田浦の君は、性格は悪いが、人は殺さない」

 マサゴさんはすっかり田浦の君を信頼しきったように、にこにこと笑みを浮かべたまま、ペダルを蹴り出した。

 波音に混じってバシャバシャとスクリューが回る音が聞こえ出す。

 そのやかましい水音に続いて、戦艦三笠の甲板から、高らかに『軍艦行進曲』の演奏が聞こえてきた。

 見上げれば、田浦の君がマストの上に立って、ビニール傘を指揮棒のように振り回している。

 マーチのリズムに合わせながら、マサゴさんはペダルをこぎ続ける。そのうちに、曲は間奏を経ていつの間にか、マーチ調の『海ゆかば』に変わった。

「水葬だ……。やっぱり水葬になるんだ……」

 ブツブツと言う私をよそに、岸はだんだんと離れていき、田浦の君の演奏も遠ざかっていく。

 三笠の影がだいぶ小さくなった頃、背後で田浦の君の声が聞こえた。

「汝お足無くば靴の中を探すべし。足は靴の中にこそあるべし」

 お足とは代金のこと。舟の代金は払ってあるとマサゴさんは言っていたが、私の分は払って居るとも限らない。

 秘密などという、金銭でも物質でも、サービスでもないものを奪う、妖怪か何かの類である。ともすれば、私の命も奪われかねない。

 私は慌ててスニーカーを脱いで中を調べた。しかし、お足になりそうなものはどこにもない。

「ナゴ君、考えすぎだよ。田浦の君はナゴ君が思うより親切――」

 私を落ち着かせようと語りかけたマサゴさんに、突然波飛沫が襲いかかった。

 やはりスワンボートは喫水の浅い舟で、海を渡るには全く不相応の舟なのである。

 マサゴさんはもちろん私もずぶぬれになり、塩辛さにむせかえった。

 さらに悪いことには、波を被ったボートの底には水が溜まり始めている。

「ナゴ君、そこに柄杓が!」

 悲鳴を上げる私に、マサゴさんはペダルを漕ぎつつ、片手で舵を握りながら、私の足下を指さした。

 いつからそこにあったのだろう。確かに柄杓が落ちていた。私は藁にも縋る思いで柄杓で水を掻き出すが、水かさは一向に減らない。

 よく見れば、柄杓の底には大きな穴が空いていた。柄杓の柄には糸で木の札が括り付けられており、そこには海から顔を出した幽霊が柄杓で船に水を汲みいれる様子が描かれていた。


 船幽霊対浮遊霊。

 沈むが早いか

 浮くが早いか。


 添えられた一文に私は怒り狂い、柄杓を海に投げ捨てると、ヤケクソ気味に濡れたスニーカーで水を必死に掻き出した。

「沈みたくない、沈みたくない、沈みたくない」

 必死の形相の私が可笑しいのだろう。マサゴさんはこらえきれずに吹き出した。

「ぷっ、ぷぅふふふふふぁはっははっははっはは!」

「笑うな!漕げ!回せ!急げ!」

 月の無い夜の海に、漕ぎ出す一羽のスワンボート。

 白鳥にしては醜いその船は、アヒルのように足をばたつかせ、浮きつ沈みつを繰り返しながら、私の悲鳴とともに、何時間も潮にもまれ続けたのだった。

 あれから何時間、沈没の恐怖と戦ったかわからない。

 私たちは奇跡的に、目的地の無人島である、猿島へたどり着いたのだった。

「死ぬかと思った……」

 迫り来る海水との格闘で、疲労の極地に達していた私は、マサゴさんに抱えられながら、たどり着いた洞窟の陰に入ると大の字になって倒れ込んだ。

「田浦の君も大満足だったろうねえ」

 マサゴさんもそういって私の隣に倒れ込む。

 暗闇の中に、波の音だけが響いている。

 私は静かに息を整えながら、その音を聞いていた。

「じゃあ、そろそろ葬式を始めよう。つかれちゃったから、このままでいいよね」

 マサゴさんの声に私はうなずいた。おそらく見えていないことはわかっていたが、返事も待っていないであろうことも想像がついていたのである。

「というわけでナゴ君、弔辞を読み上げてください」

「ありませんよ、そんなの」

 私は苦笑する。そもそも用意しろとも言われた覚えがない。

 私のつれない返事に、マサゴさんの「ぷっ」という笑いが答える。

 マサゴさんの吐いた泡は、洞窟の天井にぶつかってこだまになり、やがて消えていく。

「じゃあ、しょうがないな。弔辞は全部僕がやろう」

 暗がりに腕を伸ばして、自分で自分の弔辞を読み上げ始めたのである。

 マサゴトオル君

 君の人生を一言で申し上げるならば、意志薄弱というのが一番お似合いと言うものでしょう。

 とにかく君は継続すること、極めること、というのにまったく不向きな人間でありました。

 あれをやっては挫折し、これをやっては飽きてしまう。中途半端にこなしては、何となく出来たようになって満足する。それがいつもの君の行動パターンという奴です。

 人は君をクラゲ野郎と呼びました。人といっても、千早さんだけだけどね。

 君の中途半端な行動はいつも人々に不幸を振りまいていましたね。

 おかげで大学の在学期間は八年に及んだあげく中退。歯を食いしばって、君の為に家族のためにがんばると言った仕事は三ヶ月で逃亡。奮起して始めた資格の勉強は三日で挫折という、輝かしい成績を残されましたことを、この骨無し野郎!という言葉に代えて、改めて面罵したいと思います。

 君は実に救い難い人間でありました。しかし、僕はその言動の原因を知っております。

 端的に申し上げれば、君は心から何かになりたいとか、なろうだとか、そういうことを思ったことが無いのであります。

 ただただ、今日という一日を、辛くなく、苦しくなく、痛み無く生きられるかというのが君の行動指針でありました。

 君はよりよい明日を自分の手で切り開くなどということを決して、志向いたしませんでした。

 しかし、よりよい明日を志向しないならば、君は衰えていくだけです。弱っていくだけです。居場所を失うだけです。

 しかし、君は逃げ回る方便をきちんと見つけておりました。

 人間はいつか死ぬ。

 それが君の宗教でした。

 豊かな者も貧しい者も、楽した者も、苦しんだ者も、愛するも者も愛してくれた人も、いつか死ぬ。

 君は逃げ回った果ての、最後の砦に、避けられぬ死という方便を使いました。

 今が楽ならばいい。痛まなければいい。もし逃げ回った果てに、ツケが込んで首が回らなくなったのならば、潔く自ら死を選ぼう。

 だって、いつ死ぬかは誰にもわからないじゃないか。だったら、自分で死んだって、病気で死んだって、殺されたってなんだって一緒だ。

 しかし、これは実に愚かな宗教でありました。

 だって君は痛みにとことん弱くて、ここまで逃げ回ってきたのだから。

 君が初めて首を括ろうと試みた日。一回目の君の葬式の日。君はあまりの苦しさにおびえましたね。あの日ほど。死にたくないと思った日は無いことでしょう。

 こうして君は最後の砦も失い、ついに軸足を失うかに見えました。

 しかし、君はここで新しい信念を得たのです。

 死にたくない。これが君の新しい信念になりました。

 死なない第一、楽する第二、恥と外聞第百八。

 そうして君は今日まで、死なずにやって参りました。

 ところがです。先日の千早さんとの遭遇で、君の胸に、かつての愚かな宗教心が復活してきたのです。

 それは皮肉にも、人並みに生きてみたいという、願望がきっかけでありました。

 君はあの江ノ島の水族館で、ほんのひとときだけ、世間的にもまともな、ほめられる人間というやつになる夢をみたのです。

 それはもう帰らない、千早さんからの愛を取り戻したいという、夢をつかの間見続けるための挑戦でありました。

 そうして、真人間になるための戦いを、君は再度挑み、また敗れ去りました。

 そうして、自分の虚ろさをまた思いだしたのです。

 こんな虚ろな自分がどうして生きておるのだろう。

 君は問いました。

 その問いに答えたのは田浦の君でした。

 わからないなら死ねばいい。

 死ねるものなら死ぬがいい。

 薄弱なお前に出来るものならばね。と。

 田浦の君はそう言いましたね。

 そして、君はこうしてこの場所で、二度目の葬式を上げることになりました。

 僕はそのことを大変喜ばしく思います。

 君はもう立ち直りつつあります。

 あともうすこし、苦しんでみてください。

 それでは、さようなら昨日までの死にたい私。

 二度と会うことがないように、石棺に蓋をしてしまおう。


 マサゴさんは朗々と洞窟の壁に声を響かせながら弔辞を読み上げ終えると、突然立ち上がった。

「うたかたの消ゆるものとは知りながら浮くも沈まずゆたにたゆたに」

 マサゴさんは同じ短歌を二度、独特の波打つような節を付けて読み上げた。

「何ですかそれ」

「辞世」

「やっぱり、死ぬんですか」

 私が心配になって尋ねると、マサゴさんは暗闇に私の手を掴んでマサゴさんの首へと当てた。

 私はマサゴさんの体温に驚いて、あわてて手を引っ込める。

「ナゴ君。お願いがある」

 マサゴさんはまた私の手を取って、首もとへもっていく。

「僕の首を絞めてほしい。出来るだけ強く。死んじゃうくらいに」

「そんなこと……」

「できれば殺さないでは欲しいんだけど」

 マサゴさんは苦笑混じりに私の手の甲に自分の手を重ねた。マサゴさんの脈が伝わる。

 死にたくないことを思い出すために。

 死にたくないことを忘れないために。

 私はマサゴさんを押し倒すと、ついにその手に力を込めた。

 マサゴさんの表情は相変わらずよく見えない。ただ行き場を失った、喉の鳴る音が聞こえるばかりである。

「ナ、ゴ、く、ん」

 マサゴさんの腕が弱々しく私の腕にとりすがる。

 暗闇にマサゴさんの絞り出すような喉の音が鳴り続ける。脈が激しく反発するような感覚が手のひらに生まれる。

「い……」

 マサゴさんが首を横に振って、私の腕を叩く。

 私は力を込めるのをやめない。もしかしたら私はマサゴさんを殺してしまうのではないかという思いが生まれた、そのとき、マサゴさんの拳が思い切り私の頬を強打した。

「ぷふぁあ!」

 マサゴさんの口から、大きな泡のような吐息が吐き出される。そしてマサゴさんは咳込みながら私の首を両手で掴み、押し倒すと力を込めて締め上げた。

 マサゴさんは何度も何度も咳込みながら、私の首を賢明に掴み締め上げる。力はだんだんと強くなり、喉をならすのは私の番になった。頭に血が貯まっていく感覚。目が飛び出るのではないかと言うほどの不快感。そして呼吸が出来ないという、恐怖。

 私はマサゴさんの腕にとりすがりはずそうとするが、うまく力が入らない。

 もう限界だと、示すために、私は何度も何度も、マサゴさんの腕を叩く。

 ギブ、ギブ、ギブ、ギブアップ!

 しかしマサゴさんは決して、力を緩めない。

 もしかすると殺される。死にたくない。

 怖い。

 怖い!

 気がつくと私はマサゴさんが私にしたのと同じように、渾身の力を込めてマサゴさんの頬を打っていた。

 マサゴさんが飛び退き、私はせき込みながら呼吸をする。心臓が早鐘を打つ。

 怖い。

 私はまだおびえている。

 私は暗闇の中にまた仰向けに倒れ込み、大きく行きを吸い込んだ。

 隣でもマサゴさんが深呼吸する音が聞こえる。

「この世には、二種類の人間がいる」

「生きている人間と、死にたくない人間」

「本当だったでしょ?」

「三種類はいなさそうです」

 私たちは潮風を幾度も、幾度も吸いながら、さっきまで殺し合いかけていたことなど、忘れてしまったように笑った。それはもう腹の底から笑ったのである。

「僕ね、ナゴ君にされたのと同じこと、田浦の君にされたんだよ。実は二種類のっていうのも、田浦の君の受け売り」

 ひとしきり笑い終えたマサゴさんは、しみじみとした口調で言った。

「そこでね、僕、おもしろいこと、聞かされたんだ。実はね、田浦の君はクラゲを人間に変えられるんだって。そうして生まれたのが、僕だって、そう言うんだ」

 私はその秘密を知っている。知ってはいたが、私は何も言わなかった。ただ黙ってうなずいていただけである。

「おまえはもとはクラゲだから、気骨がないのはしかたない。だから、諦めて、気骨が無いなりに死なないように頑張りなって、ね」

「なんだか、前向きなんだか、後ろ向きなんだか」

 私は肩をすくめて、すこし気がかりだったことを尋ねた。

「ところで、ここの葬式代はいったい何で支払ったんですか」

 私の問いかけに、マサゴさんはしばらく何も答えなかった。洞窟の中に風が吹き込んで、行き場を無くして、低く鳴いたときである。

「ごめんね」

 頼りない声でマサゴさんが謝るのが聞こえた。

 私はどうして謝られたのかわからない。起きあがって、マサゴさんを見下ろす。

 マサゴさんの表情は、夜目が利かずよく見えない。ただ、私はマサゴさんが鼻を啜る音だけを利いたのである。

「僕はナゴ君を代金に換えた」

 私はぎょっとした。まさか私はあの田浦の君に生け贄にでも捧げられるのであろうか。

 マサゴさんは私の考えを察したらしい。ゆっくりと首を振ったのが、砂利が擦れる音でわかった。

「僕ね、ナゴ君とこれから過ごす時間を代金に換えたんだ。だから、僕は、夜が明けたら、もう二度と、君と会うことはないんだ」

 私はきょとんとしながら、暗闇の中のマサゴさんを見つめた。しかし、その輪郭は、闇の中に溶けるように、だんだんと実体を無くし、遠ざかっていく。

「僕だって辛いけどね。でも、まあいいじゃない。だってこれ、僕の葬式だもの。さらぬ別れってやつだ。仕方ない。だけどわかってるだろう。死にたい僕らが死んで、死ぬのが怖い僕らはどこかで生きている。きっと無様なクラゲ人間のままだけど、きっと、この世界のどこかで気ままに漂い続けてる。何も心配いらないよ」

 暗闇の中で泡がはじける音が聞こえた。

 それを合図に私は、深い眠りに落ちていく。

 水に抱かれる背中に生まれる。

 目を瞑った先にあるのは、暗闇ではない。

 暖かな海の青。たゆとう半透明。

 海の中に泡が生まれて、ゆらぎ、惑い、上っては消えてゆく。

 漂うことはもう怖くない。

 だけど一人では、寂しい。


 第十二章


 どれほどの長い時間、眠っていたのだろう。

 目を覚ました私は洞窟ではなく、かつて大砲が据えられていたコンクリートの土台の真ん中に横たわっていた。

 草木に覆われた、砲台に木漏れ日が差し込んでくる。見上げれば日は相当に高いところにあった。

 すでに遊覧船が運行を始めているらしく、私の傍らを、老若男女さまざまな人々が、奇異のまなざしを向けながら通り過ぎていく。

 私は立ち上がりマサゴさんの姿を探したが、その姿はどこにも見えない。

「もう二度と、君と会うことはないんだよ」

 寂しそうなマサゴさんの声が、蘇り私はあてどもなく島を駆けめぐった。

 トンネルの向こうにも、兵舎にも、洞窟にも、マサゴさんの姿は無い。

 昨晩、私たちが上陸した浜からスワンボートもなくなっており、まるですべてが夢であったかのように、私はこの古い要塞島に取り残されていたのである。

「あれ……私はどうやってこの島から出るんだろう……」

 私は突然現実に引き戻されて、砂浜の上に呆然と立ち尽くした。

 スワンボートはない。遊覧船の切符もない。ポケットを探ると、どこで落としたか財布も持っていない。

 島から出る方途もなく、私は砂浜に座り込む。

 どうしようもなく、寄せては返す波を見つめていると、一匹の水クラゲが浜に打ち上げられていた。

 生きているのか死んでいるのかわからないクラゲであったが、私はどうにもその姿を放っておくことが出来なかった。

 ようやっと乾いた靴が波にぬらされないように、靴を脱いでから、クラゲのもとに

 駆け寄ると、両手で掬って海に返してやった。

「クラゲは海に、人は浜に帰ります」

 私が独り言をつぶやきながら、砂を払いつつ、脱いだ靴を履き直そうとしたとき、靴の底に何かの紙片が張り付いているのが見えた。

 それは遊覧船の乗船切符であった。

「汝お足が無くば靴の中を探すべし。足は靴の中にこそあるべし」

 私はようやく田浦の君の言葉を思い出した。

「なるほど、案外、親切だ」

 私は切符を手にすると、ようやく靴を履き直し、夢から現実に戻るように、浜から遊覧船の桟橋へと歩き出した。

 島から生還を果たした私は、ヴェルニー公園の秋薔薇を背に、未だクラゲの姿を探していた。

 マサゴさんは永遠に私の前から消え去り、深まりゆく秋だけがそこにある。

 ため息をついた私の傍らを、風が吹き抜けていく。風は潮と一緒に、薔薇の香を纏っていた。

「ほんとうにクラゲが人間になるなんてことがあるんですかね」

 私は去っていく風の向こうに語りかけた。

「本当のことなんてどうでもいいのよ。想像はときに人を救う。嘘も方便って言うでしょう」

 田浦の君が欄干の上に立って答える。

 高下駄の歯を乗せてバランスを保ちながら、海と陸との間側を歩いていく。

「あるがままが辛いなら、クラゲってことにしてやるの。どう?私、優しいだろう?」

 田浦の君は私に背を向けたまま、半透明のビニール傘を広げる。

 バサッという音とともに私の首から、花札の絵が落ちた。花札の絵柄は、いつの間にか変わっている。

 小野道風は半透明の傘を差した姫君に。蛙は海月に。

 安っぽいビニール傘をさした姫は、クラゲを愛おしむでもなく、見下すでもなく、つかず離れず寄り添っている。

 田浦の君は欄干の上で、開いた傘を振りかぶりながら、大きく踏み切ると、高く飛んだ。

「浮くも沈まず、ゆたにたゆたに」

 田浦の君が飛んだ先に、彼女の姿はどこにもない。

 あるのは、雲一つない秋の青空に残された、半透明のビニール傘が風に乗って、どこへともなく流されていく。そればかりなのである。

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ゆたにたゆたに半透明 雨下雫 @s_ameshita

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