「チェーホフの銃」を見る人

詩人

Joke bullets

 演劇における構成論の一つに「チェーホフの銃」という言葉がある。戯曲家のアントン・チェーホフが提唱した論で、「舞台上に銃が置いてあるならば、必ず発砲されなければならない」というたとえで「ストーリーに不要な設定・仕掛けは盛り込んではならない」ルールを示すための言葉である。

 街の広場──子連れやカップルで賑わう中、「男」は「黒ずくめ」の人物に追われている。「黒ずくめ」の手には回転式小銃リボルバーが握られており、「男」はそんなリボルバーを使ったとある遊戯から逃れるために駆けている。

「……ッ! やめ、離せよっ!」

 いよいよ「男」は追いつかれてリボルバーを無理やり手渡しされる。通常よりも軽いそのリボルバーは、偶発的に発砲する代物である。

「お前がまず引け」

 低い声で「黒ずくめ」が促すが、この場は人集ひとだかりが多すぎて遊戯を執り行うにはあまりに不向きである。しばらくして、ふと思い立ったように「黒ずくめ」はリボルバーを押し付けて彼方へ駆け出して行った。不審に思った「男」が振り返ると、彼がいる通路に「青年」が走り出してきている。急いで「男」はその場にあったベンチの下にリボルバーを隠し、その身を翻し自らも物陰に隠れた。

 ランニングと呼ぶにはやや無理があるほど「青年」の走りは不均等であった。不整脈のように不正確で、ランニングにしては心配になるほど息を切らしている。

「ふぅ、はぁ……ここまでくれば大丈夫だろ……」

 しばしの休息のため「青年」はベンチに座る。その際、足を何かにぶつけたような気がした。

「なんだこれ? ……いや。まさか、な」

 リボルバーを手に取る。「青年」にとってそれの重さが果たして重いのか軽いのかは分からない。しかしそれがたとえ玩具おもちゃの銃であろうが、ロマンに胸が躍るか否かは関係なかった。撃鉄を下げて足元を狙って引き金を引く。

 カチャ。

 刑事ごっこは昔からよくやっていた。それを思い出して少し感傷に浸っていた。ただ、思い出に浸っている間もなく「青年」は青ざめた顔で走ってきた方向を見た。自らも追われていることを思い出し、再び銃を元ある場所に戻して駆け出した。

 かの「青年」が青ざめた視線の先からやってきたのは女だった。

「ねぇ、あっくんどこぉ? これ、あっくんの座ったベンチだ……!」

 女はベンチを舐めた。やや「メンヘラ」の気概があった。

 公共のベンチを舐める行為が法に抵触するかは分からないが、ともかくこの「メンヘラ」は奇行にはしる過程でベンチの下に隠れた物に気づいてしまった。

「なに、これ。あっくん……どうしてこんなもの」

 見つけてしまったが、それを手に取ったのは偶然だ。なぜか銃に手が吸い込まれてしまった。「メンヘラ」の情緒は既に崩壊しており、彼女はその銃を自らのこめかみに当てた。何を血迷ったか、と問いたくもなるが彼女に常識は最初から通用しない。

 カチャ。

「なにも〜! 玩具の銃じゃん!」

 こんな大勢の人がいる白昼堂々、銃で自らの頭を撃ち抜く事件が発生したならどうだっただろう。連日のニュース・新聞のヘッドラインを務めていただろうか。しかし銃弾は発砲されることなくセーフティが再びかかった。

 彼女はしばらく銃を見つめ、憎しみを込めてその場に棄てた。こんな紛い物の銃では「青年」に対する愛は測れない。「メンヘラ」は「青年」を探しに、広場を後にした。

「せんせ〜? どこ行ったのー」

 やはり「青年」や「メンヘラ」と同じ方向から「少女」が走ってきた。「少女」は制服に身を包んだ女子高生のようにも見える。「少女」が探している先生とは恐らく彼女の通う学校の教師を指しているのだろう。平日の昼間に街の広場でなぜ女子高生が教師を探しているのだろうか。本来ならばこの時間は授業時間のはずである。

「もー、遠足の途中で元カレ見つけたからって生徒放ったらかすなんて教師失格だよ」

 まさかあの「メンヘラ」が教師だとは誰も思うまい。普段は至って真面目な教師をしている。彼女とは別の女と不貞をはたらいていたから別れざるをえなくなったが、本当は「メンヘラ」も「青年」と別れたくなかったのである。不貞を赦す心の広さがあれば事は別の方向に傾いていたのであろうが、それも所詮は希望的観測である。

「あれぇ、なんでこんなものが落ちてるわけ~? ウケる~」

 それは「少女」にとって現実離れしたものであったが故の発言だ。傍から見てもそれは玩具の銃であり、まさかそれを本物だと勘違いして発砲するような真似はしない。経験値が大人よりも足りていないとはいえ、女子高生は案外大人よりも冷静なのである。まさか「少女」も、自分よりも前に二人の大人が阿保らしく発砲しようと試みたなど想像もしなかっただろう。

「ちょっとあなた! なんて物騒なもの持ってるの! 早く下ろしなさい!」

 ここにも馬鹿な大人が一人。それが玩具の銃である可能性を考慮せずに、たまたま広場を通りかかった「婦警」が「少女」に銃を向けた。年端もゆかぬ女子高生でさえそれが玩具の銃だと考えたのに、どうしてこうも大人は先入観だけで物事を見るのだろうか。

 ただ──「少女」も唐突に銃を向けられて気が動転してしまったのだろう。

 「婦警」にその銃を向けていた。

 お互いに銃を向け合うその光景は、昼間の平和な広場に全くそぐわない。逆にそれがそぐう場面とは一体どこの場面だろうか。ハリウッド映画のラストシーン、犯人と刑事が張り詰めた緊張感の中で銃口を向け合う……。

 ここは家族連れやカップルで賑わう街の広場である。まして銃を向けて相対しているのは「婦警」と女子高生。その異様な光景は周りの風景から浮き彫りになり、行楽客を恐怖の渦に巻き込む。

 これから銃撃戦が起こるのか、と身構えた周囲の人間はそこから一歩も動くことができずにうずくまった。悲鳴を上げる、母親らしき女性もいた。子どもはそこで何が起こっているのか分からないが、空気の重さを人一倍感知する。

 そして「少女」は撃鉄を下げ──

 カチャ。

 引き金は確かに引かれた。当然分かっていたことだが、銃弾は発砲されなかった。

 もし発砲されていたらそれこそハリウッド映画だ。いや、事実が映画よりも奇なるところだった。これで「少女」は身の潔白を「婦警」に証明することができた。「婦警」の方が先に発砲していたなら惨事になっていた。

 すると──全身「黒ずくめ」の男が「少女」に近づいて言った。

「お嬢さん、その銃をこちらへ渡してくれるかな。息子が探していた玩具なんだよ」

 無論、「少女」は「黒ずくめ」にすぐさま銃身を渡した。自分が容疑をかけられている原因になるものなど今すぐ手放したかった。「婦警」は勘違いを正して謝罪してくるか怪しかったが、不貞腐ふてくされたようにどこか別の場所へ消え去った。

 銃を渡した「少女」は、「婦警」に銃を向けられたショックで泣き出しながら広場を出て行ってしまった。「黒ずくめ」は何事もなかったように、周囲の行楽客に向けて安全を証明するために銃を自らのこめかみに当てて引き金を引いた。その手際はまるでマジックをするピエロのようで、衣服の黒さからは到底想像もつかないほどコミカルな動きをしていた。

 バン。

 引き金を引くと同時に、銃弾が発砲した。

 耳をつんざくような突然の轟音が鳴り響く。開けた場所だったからか、反響することはなく音は放散し、やがて人々の聴覚も戻る。思わず目をつむった人々も、ようやく目の前の現実を直視することになる。

 頭が爆ぜ散った死体が転がっているだけ。「黒ずくめだった者」辺りには赤黒い血の海が広がっている。途端に辺りは騒然とする。平和だった広場が一瞬にして阿鼻地獄へと変容する。

「あっはははは! てっきり6分の1かと思いきや? 実は2分の1でしたってか! 事の顛末を知らないからこんなことになるんだよバーカ!」

 広場の様子を物陰からずっと見ていた「男」は、「黒ずくめだった者」を見て腹を抱えて笑った。ロシアンルーレットの拷問を仕掛けられていた「男」は、勝手に銃弾が発砲される確率が高まっていくのをじっと見ていた。

「拷問だって大したことねーな」

 そう吐き捨てて、「男」は広場を後にする。

 同じ方向から、あの「青年」がまた現れた。投げ捨てられている銃を見つめ、次に不気味な「男」を見つめる。すぐ傍には死体が転がっている。だというのにあの不気味な「男」は、驚きもせずにその場を離れようとしている。なぜ思い立ったのかは分からない。しかし、「青年」の中のお節介な正義が動いたのだ。

 それは──「『銃を見つめる男』を見つめていた我々」の想いを代行するかのように。

 セーフティを外し、引き金を引く。

 バン。

 ロシアンルーレットだからと言って、シリンダーに一発しか銃弾が入っていないという保証もない。たとえ二発も入っていたとして、ルール破りだと誰かに叱られる必要もないだろう。

 最後の一発が、鋭く「男」に突き刺さる。

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「チェーホフの銃」を見る人 詩人 @oro37

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