第44話 (回想)契約ーーー

 空良が小6の時、不幸な事故が起きた。不運星人だった空良もまた自分が気づか

ない所で不運な出来事が起きていたのだ。それでも空良の性格上 、落ち込んだりはしない。寧ろ そんな時こそポジティブ思考で考えてきた。空良の母、華子が病で倒れ寝たきりになり、長くない母の命と常に向き合ってきた空良だからこそ母の前では

いつも明るい空良でいた。事故で意識不明の重体になった空良はICUで治療していたが、1カ月が過ぎても、3ヵ月が過ぎても目覚めることはなかったーーー。

そして半年が過ぎた頃、事件は起きた。その日は秋風もなく穏やかな日常の延長が

続くかと思われる晴々とした昼下がり、事件は突然にやってきのだ。ほんの数分前

とは一変し慌ただしく動き回る人の流れがザワザワしたのはその5分後の事だった。

都内で大きな火災事故があり現場から5分の距離にある明和総合病院に急患が続々と運ばれてきたのだ。もちろん病院内は大パニックとなり、病床はパンクし、病院内は廊下まで重症患者が溢れ出すほどだった。目前に映る景色に困惑する天野の視線は

焦点が合わず揺らいでいた。そして、耄碌もうろくする天野の頭中は医師という立場を忘れ冷静な判断力を失っていた。

当時、空良の担当医師だった天野は病床を確保する為に幸之助に『脳死』判決を

下した。目覚める見込みのない空良は病院側から切られたのだった。

『……』

幸之助は言葉さえも失っていた。怒りを通り越して心の中心部に小さな溝が出来て

いた。その溝は己自身も気づかないほど、ごくわずかな数ミリ程度のものだった。天野は無言のまま幸之助に背を向け立ち去って行く。幸之助の視線に映る天野の白衣がチラホラと揺れていた。医師も看護婦も急患に追われ、誰一人として幸之助と空良を見送ることはなかった。

幸之助はワゴン車を玄関前に止めると、後部座席を広く倒し敷布団を敷いて空良を

寝かせた後、もう一度、窓越しから慌ただしく走り回る医師や看護婦等に視線を向けた。その先には天野の視線が映っていた。天野は幸之助と目が合うとすぐにまた背を向け救急患者への対応に取り掛かる。幸之助は肩を落としワゴン車へと乗り込んだのだった。

『空良…やっと、うちに帰れるな』

幸之助はエンジンをかけ車を走らせた。

幸之助がルームミラーから見る空良の寝顔には何の反応もない。

『空良…大丈夫だからね。私が空良を治してあげる。きっと、空良はまた…

目覚める…私は決してあきらめない…』

幸之助は密かに心の小さな溝を埋めるように決意を固めていた。


走行音がやけに静かに聞こえる車内の後部に眠る空良をルームミラーでチラホラと

確認しながら幸之助は自宅へと向かっていた。


実は幸之助にはもう一つの顔があった。遠い昔のこと、幸之助は医大に在籍し、

医者にまでなったが、才能がありながらも大学病院を辞め研究者への道へと進んだ

のだった。その頃、華子と出会い結婚し空良が産まれた。その数年後、華子の病が

見つかり、病院へ通っても何の治療方法もなく、やもえず自宅に医療器具を設置し

自宅療養に切り替えたのだ。幸之助には医学に対する多少の知識はあった。

それでも幸之助は最後まで人間の部分を残したいと願っていた。


空良を自宅療養に切り替え1週間が経った頃、幸之助は空良の脳のX線フィルムからあることに気付いた。幸之助はそれに賭けることにした。それこそイチかバチかの

大勝負だ。幸之助は空良の左後頭部にほんの数ミリ程度の人工ミクロチップを埋め

込んでみた。目視では見落とすくらいの細い神経細胞が機能していないことに気づいたからだ。医学の知識と経験、研究者としての細かい作業を続けてきた幸之助だからこそ気づいたことだった。


そして、決して医学だけでは治せないことでも『絶対にあきらめない』という

幸之助の想いが奇跡を呼び起こしたのだった――――ーーー。


何日も徹夜付けで空良の治療と経過観察を続け、疲れ果てていた幸之助の体力は

もはや限界を超え、呆然と目の前に見える景色が全て夢なら…と、脳内で現実逃避が

始まっていたことにさえ気づかないまま、数秒も経たないうちに幸之助は両手で

顔を覆い隠し、いつの間にか空良が眠るベットに突っ伏したまま寝落ちしていた。


それから空良が奇跡的に目覚めたのは、その手術から3日後のことだった―――。


「……ん…お父さん?」


空良の小さく か弱い声が幸之助の聴覚へと入り込む。思わず、幸之助の瞳孔が

大きく開いた。そう、それは衝撃的な夢を見た直後にハッっと我に返り目覚める

ような、まさに瞬間的反応で幸之助は現実に戻ってきたのだ。


「そ…空良!?」

「お父さん…私…」

薄く開いた空良の目は まだ呆然と天井を眺めていた。

「よかった…目が覚めたんだね。空良は長い長い間、眠っていたんだよ」

幸之助は空良の手を握りしめ、優しい眼差しで空良を見つめていた。


空良は点滴で栄養を取っていた為、かなり体力も低下し、余計な肉つきもなく

骨格に薄皮を付けたみたいに痩せ細っていた。


「お父さん、なんだかお腹空いた」

「そうか…。じゃ…何か作ろうかな」

「うん、ありがとう。ねぇ、お父さん…私、体も軽くなってる感じが

するんだけど……」

「大丈夫だよ、空良…たくさんご飯を食べるとまた元の体形に戻って、きっと元気に

なるさ。すぐに食事を作るから待ってて…」

「うん…」


そう言って、幸之助は部屋を出て行った。



その日から空良はよく食べて、毎日 少しずつ歩行訓練を始めた。もともと天真爛漫だった空良は回復するのにもそんなに時間はかからなかった。

3日もすれば庭で大好きなブーメランを飛ばすようになり、空良の体力は次第に回復し、徐々に以前の体形を取り戻しつつ苦手な勉強にも懸命に励んでいったのだった。




こうして、徐々に普通の暮らしへと戻った空良は、

             平穏な日常から5日目の朝を迎えたのだった――――、




「ピンポーンーーー」


空良と幸之助の些細な幸せの時間を中断するようにインターフォンが鳴った。


「お父さん、誰か来たみたい」

「こんな時間に誰だろうね、心配しなくていい、すぐ戻るから」

と、幸之助はお箸を食器の上に置いて席を立ち、ダイニングキッチンを

出て行った。


ペタペタ…と廊下を歩くスリッパの擦れた音が次第に 玄関に近づいていく。


「はい…」

幸之助が玄関のドアを開けると、スーツを着た見覚えのある顔立ちの男が

目の前に立っていた。


その男は明和総合病院に勤務する天野医師だった―――ーーー。


『猿渡さん…その節は大変申し訳ありませんでした』


天野はいきなり地面に膝をつき土下座をして謝った。


「ご家族の方の気持ちも考えず、空良さんを切り捨てるような言い方をしてしまい

本当にすみませんでした。あの後で冷静に考え、俺はすごく残酷な言い方をして

しまったと……後悔しています」


天野の手の甲にポダポタと涙が落ちる。


「俺は医師として失格です…」


幸之助の目に天野の姿がとても哀れに映っていた。


「天野先生…顔を上げてください。こんな所で ど下座をされても見苦しいだけ

ですよ。男の涙は大半が嘘。その涙は演技なんですよね?」

「……!?」


鋭く見透かしたように幸之助の眼差しが俯く天野の背中に突き刺さり、天野は瞬き

する間もなく瞳孔が開いたまま、丸くなった体は身動きさえもできず、固まっていた。



実は天野が幸之助宅に訪れたのには理由があったのだ。


『まあ、とにかく中へどうぞ』

『……』


天野が顔を上げると幸之助は穏やかな表情で笑っていた。


だが、幸之助の腹の内は穏やかではなかった。


【脳死判決】を下した天野も病院側も、幸之助にとっては憎しみでしか

なかったのだ。


平静を取り繕い幸之助は天野を自宅リビングへと招き入れ、リビングに

向かう中で ずっと二人の間には会話もなく口を閉ざしたままだった。

天野は かける言葉が見つからなかったのだ。どう切り出していいかも

わからず、沈黙の時間ときだけが刻々と静かに流れていたのだった。

決して誤った診断を下した覚えはなかった天野だったが、数日後、院長の

葛西和朗かさいかずあきが学会から戻ったて来た時に報告したことを天野は思い起こしていた。


『なぜ、植物状態の患者を退院させたのですか?』

葛西の口から意外な言葉が返ってきた。

『申し訳ありません…。事故で緊急患者が多数 運ばれてきまして、病床に空きも

なく、やもえず……』

『それで…君は脳死だとご家族に告げられたんですね』

『はい…』

『その後、確認はしましたか?』

『え?』

『……その患者が亡くなったという確認ですよ。つまり、葬儀には行きましたか?』

『……いえ』

『もしも、その患者が目を覚ましていたらどうしますか?』

『え…そんなはずはないと思います。3ヵ月間、眠ったままだったんですから…』

『私がこの間、訪れたアメリカの学会でエルドット教授が発表した論文に

このような事例が報告されていました。2年間、眠り続けていた少女が突然、

目を覚ました……と』

『え?』

『まだ…半年ですか…。脳死と判断するには早すぎますね』

『…院長… 』

『植物状態の患者をいきなり切り捨て、退院させられた家族は納得いかない

かもしれませんね。ご家族に訴えられでもしたら…困ったことになりますね』

『……』

淡々としゃべる葛西の声色を遠くに感じ、天野は青ざめた顔で一点を見つめていた。天野の額から頬にかけてヒンヤリとした汗が一本筋に流れていた。

『天野先生…少し、様子を伺ってきてくれますか? とりあえず、和解金500万円でいいでしょう』

『はい…』

有無も言わせない葛西の目強い視線に天野はまともに葛西の顔を見ることもできず、

お金よりも名誉を守る葛西の方針に従う他なかったのだ。

ご家族にとって和解金500万円は安すぎる金額だったが、まだ新聞にもニュースにも取り上げられてはいなかった為、病院側が最低金額を提示してきたのだ。

天野の脳裏に幸之助と最後に会った時の突き刺さるような視線が蘇る。

もしも、天野が下した診断が間違いなら天野の医師免許取り消しも十分にありえる。それどころか病院側も責任を取らされ、これとない失態を追うこととなるだろう。

葛西は最悪な事態をまぬがれる為、先手を打つことにしたのだ。



幸之助の自宅リビングに入った天野は不信な態度で辺りを見渡す。葬式を行った形跡もなく、そこは、ごく平凡な一般家庭のシンプルなリビングだった。

唖然としながらも天野はソファーに腰を下ろし、幸之助は天野の前に座った。


「あの、その…空良さんはその後、どうでしょうか? もう、葬儀は済ませたので

しょうか?」

天野が幸之助の顔色を伺うように口を開いた。

「葬儀? なぜですか?」

幸之助の言葉に天野の視線は左右を行ったり来たりして泳いでいた。

幸之助の返答があまりにも予測していない言葉だったからだ。

しかも幸之助の顔色はあの日 天野が見た絶望の顔とはあきらかに

違って見えていた。

「え…」

幸之助は口角を上げ笑みを浮べる。

「空良は生きているのに、なぜ葬式をする必要があるのですか?」

「え? 生きている?」

天野は確認するように聞き返す。

(…まさか…そんなはずは……)

天野は内心 不安もあったが、幸之助が嘘を発しているとも取れる言葉に

違う方向から探りを入れてみることに話を切り替えた。

「お父様のショックな気持ちはわかりますが…今日は…その…

これを持ってきたんです」


天野は和解金500万円と契約書をテーブルに置く。


「これは何でしょうか? もしかして和解金ですか? 私がメディアに天野先生が

誤診されたことを訴えるとでも思いましたか?」

幸之助がズバっと直球で言い放った。


あきらかに誤診だと決めつけている幸之助の態度に天野はムカッと腹が立ち、

「誤診ですと!? 俺は間違った診断を下した覚えはないですけど…」


その時だった―――、


ドアの向こうから「コンコンーーー」と、ノックする音がリビングに響く。

二人の会話は一旦中断し、天野の視線がドアの方へと向いた。


「はい、どうぞ」


幸之助の声に反応し、ドアがゆっくりと開いた。


「コーヒーをお持ちしました」


天野の視線に少女の姿が映る。リビングに入ってきた少女の年は12歳くらいで

ニット帽を被っていた。ニット帽から見える髪の毛は一本もなかった。

頭部の手術をした時、少女の髪は全て断髪していたのだ。


少女はゆっくりとテーブルに近づき、天野と幸之助の前にそっとコーヒーを置く。


「ありがとう、空良…」

幸之助はにっこりと空良に微笑む。


(…え? ーーー空良!?)

天野の視線がマジマジと少女の顔を見る。髪の毛はなくニット帽を被っているが、

骨格、顔立ち、目、鼻、口元が空良の顔を語っていた。

「……どうして…こんなことが…」

天野はかなり動揺していた。


「…いったい…これは…」

天野の目は左右に揺れ行き場を無くすほどに狼狽うろたえていた。


「空良…お父さん、少し彼と話があるから庭で遊んでいなさい」

「はーい。わかった。じゃ、ごゆっくりどうぞ」

空良はニッコリと微笑むと素直にリビングを出て行った。


パタパタ…と、小走りに走る空良の足音が次第に小さくなっていた。


空良の足音が聞こえなくなると、呆然とする天野の目を覚ますように

幸之助が口を開いた―――ーーー。


「空良は…突然、目覚めたんですよ。空良の心はちゃんと生きていた。

だから、半年が過ぎても、ある日、突然、空良は覚醒したんですよ……」

こんな奇跡のようなことが本当にあるのかと私も驚きましてね」

「……そんな、バカな…」

「なぜ、天野先生はそう思うんですか? 貴方は医者でしょ?

ああ、そうでしたね。貴方は目覚める見込みのない空良よりも

目の前にある大勢の患者を優先したんでしたね」


天野は何も言い返せなかった。


「それであの日、急患で運ばれて来た患者さん達は全員救えましたか?」

「……全員は助けられなかった。20パーセントの方は亡くなりました」

「……そうですか。でも、8割の方は助けられたんですね。外科医としては

さすがですね」

「もしかして…こういう結果になること、ご存じだったんですか?」

「……なぜ、私が…? ハッハッ…私は神様じゃありませんよ」


幸之助はテーブルの契約書を手にする。


「この場合、この契約書はどうなるのでしょうか?」

「え?」

「私が今の状況をマスコミに流し、病院を訴えることだってできるんですよね。

そうすれば天野先生は間違いなく医師免許取り消しになるでしょうね。

世間からしてみれば、あきらかに医療ミスと取られても仕方ありませんから…」

「え…?」

「でも…私もそれほどまで鬼ではございませんよ。そりゃ、あの時は病院を訴えようかと思ったくらい腹が立ちましたけどね」

「何を考えているんですか?」

「…空良の執刀医は本当に天野先生だったんですか?」

「……え?、それは…」

「貴方のような医者が空良の細い神経細胞の異変に気付かないわけない

でしょうから…。それとも、あんな大きな病院なのに手術をできる医者が

いなかったんですか?」

「なぜ…その事に…。猿渡さんはいったい…」

「私はただの研究者ですよ(笑)」

幸之助はニッコリと微笑んでいた。ジッと天野を見つめる幸之助の

異様な空気感に天野は威圧され真実を語り始めた。

「実は…空良さんの執刀医は院長の葛西先生で、俺は助手をしていました。

空良さんの脳には細い血管細胞が幾つもに分かれており、その奥にある神経細胞に

触れると他の神経を傷つける恐れがあったため…何も手を加えないでそのまま閉じ

ました。放置すると脳神経が全て機能しなくなり……」

「脳死―――するーーー」

「はい…。だから、空良さんが目覚めることは不可能だったんです。

なのに、どうして―――? まさか…貴方が空良さんを手術したんですか?

もしかして、貴方は医者だったんですか? それも特別な腕を持つ名医ですか?」

「はっはっ…。天野先生は本当に面白い人だ。もしも、仮に貴方が言った通り

私が医者だったらどうしますか?」

「え?」

「はっはっ…冗談ですよ。私はただの研究者ですよ。医者ではありません。

空良は自分の力で覚醒したんですよ。でも…私はね、天野先生…病院も貴方も…

訴える気はありませんから安心してください」

「え…」

「私は空良が元気になったことが何よりも嬉しいですから」

そう言うと、幸之助は天野に視線を向けて微笑んでいた。


その笑みの裏に隠された秘密を天野はまだ知らずにいたのだった。


「…でも、貴方もこのまま手ぶらでは帰れないでしょう」

「え…?」

「わかりました…。この契約書にサインをしましょう。ただし、貴方は

ここで見たことは誰にも言わないで下さいね。それが条件です。

決して空良のことは誰にも言わないでください。空良の情報は全て

削除してください。最初から空良はあの病院には入院してはいなかった…」

「…いったい…貴方は何を考えているんですか?」

「決まっているでしょ。私は空良の幸せを願っているだけですよ。

空良の父親ですから……」



そして、幸之助は和解金500万円を受け取り契約書にサインをしたのだった―――。



「約束ですよ―ーーここで見たことは私と貴方の秘密ですよ……」

























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