第36話 パープルグリズリー

「ヴァシジは森に入ってきた者を高確率で襲います。ただし、水が苦手なのか雨の日は姿を現すことはありません。


 おそらく臭いや気配で森に立ち入るものを判断していると考えれます。私と蛍が距離と風を気にしながら進みます。ある程度離れていれば声で気付かれることはありませんが、声は控えめでお願いします」


「了解しました。しかし視界があまりよくありません。コテツさんを信用してないわけではないですが不意打ちとかは大丈夫なんですか?」


「それはご安心ください。蛍の感知能力はヴァシジをも超えています。蛍に油断がなければ危険にさらされることはありません」


 少し誇らしげな蛍に頷くと出された指示に従い声を潜ませながら森を進む。水辺が近くなっているのか、先ほどから激しい水の流れの音がする。


 蛍が崖の先から見下ろすと口に人差し指を立てる。蛍は掌で誘導し、アルフレドが腹ばいなり崖下を覗き込む。


(あれがヴァシジか!)


 黒いたてがみはヤマアラシの針のように反りたち、手には鋭い爪、多生歯性たせいしせいにより何度でも生え変わる歯はギザギザとしており、肌理の粗いノコギリのようである。


 元神獣のヴァシジは滝壺に現れる巨大な魚を手づかみで器用に手に取ると、ノコギリのような歯を使い一噛みで食いちぎる。そんなヴァシジの視線の先をたどると、茂みの中より大きな音を立て獣が現れる。蛍が目を細めると顔を近づけアルフレドに耳打ちする。


「パープルグリズリーです」


 お互いがお互いの間合いに入ったようで二匹は歯をむき出しにして唸り始める。


「危険に満ち溢れた猿に、凶悪な……熊? あの場に出くわさなくて本当に良かった。コテツさん、一触即発ですがどちらが強いんですか?」


「おそらくヴァシジです。パープルグリズリーも油断できない魔物で、ギルドの討伐依頼にもなる人食い熊です。しかも、あの腹にあるまだらの模様、縄張りを広げようとしている主かもしれません。冒険者でもパーティーを組まなくては倒すことのできないレベルの魔物です」


「そ、そんなに強いのですか? しかも主であれば元神獣のヴァシジといえど――」


 アルフレドが最後まで言葉を言い終える前に二匹の均衡が崩れる。先に仕掛けたのは腹にまだら模様があるパープルグリズリーである。


 後ろ足で地面を蹴り上げると、目の前にある木をなぎ倒しながらヴァシジに向けて一直線に走る。後ろ足が蹴り上げる石や土の量が半端ない、その中にはアルフレドの顔程の岩も含まれている。


(はやっ!)


 あまりの迫力に反射的にアルフレドは体を反ろうとしてしまう。当然こちらまで被害がくるような事はないのでだが、鬼気迫る勢いは見る者に恐怖を与える。コテツと蛍は戦闘を生業としているだけあって動じることはない。ファーに至っては恐怖という感情があるのか怪しいほど無反応である。


 凄まじ勢いで迫るパープルグリズリーに対し、ヴァシジはパープルグリズリーに身体を向けるだけでゆったりとした体勢を保ち続ける。そんなヴァシジに構うことなくパープルグリズリーの勢いは最高潮に達する。アルフレドが住む神殿程度であればあの質量が当たった瞬間に木っ端みじんに砕け散るであろう。


「グォォォォォォォォォォ!!」


 雄たけびと共にパープルグリズリーの巨体がヴァシジに衝突する。ヴァシジは両手を大きく開くと、動じることなく真正面からヴァシジを受け止める。


 巨大な大木同士の衝突を想起するような音が響き渡る。両手を広げ、受け止めたヴァシジの顔色に変化はない。


 その一方、パープルグリズリーは今まで感じたことのない感覚と相手が吹き飛ばない事実に驚いているようで、妙なうねり声を上げている。


「ゴワッ!」


 ヴァシジが両腕を鋭く差し込む。パープルグリズリーの肋骨辺りに自分の太い指が突き刺さり、ヴァシジはその勢いのままその巨体を持ち上げる。数トンはあるであろうパープルグリズリーが宙に浮く。


 ヴァシジはそのまま背負い投げの要領で自身の背中を滑り込前せると、パープルグリズリーの巨体を頭から叩きつける。


 グフッ! というなんとも間抜けな声を上げると、気を失うパープルグリズリー。人間の決闘であればここで勝負がついたといっても過言ではない。しかし、獣同士の戦いに決着がつくときは相手が死んだときだけである。


 ヴァシジはそのままパープルグリズリーにマウントをとるとやたらめたらに相手の顔面にその無骨な拳を叩きつける。


 ゴッ! ゴッ! ゴッ! ゴッ!


 硬い物を叩きつけるような音はすぐに水気を含むような音に変化し、そのままパープルグリズリーはヴァシジの食事へと変化してゆく。


「と、とんでもない強さじゃないですか……。コテツさんヴァシジは本当にこちらに気付いてないでよね?」


「大丈夫ですよ。気付いていれば間違いなくこちらに向かってきますので」


「そ、そうですか」


 経験したことのない凶悪な姿に辟易しながらも、ヴァシジの恐ろしい食事風景からアルフレドは目を逸らすことはできなかった。

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