8.3


 俺は動揺していた。これ以上ここにいられない。目を泳がせながら、席を立つ。「春岡くん」と言いながら先生も立ち、手首をつかんで俺を制止した。

「おねがい。四谷くんに会ってあげて。先生だから言ってるんじゃないの。個人的なお願いよ。特別な人ってね、そう何度も出会えるものじゃないの。失ってから気づく時すらある。そうなってからでは遅いのよ、」

 先生の目は真摯だった。


「そういう人と、二度と会えないってわかったときに、どんな気持ちになるか。四谷くんにも、春岡くんにも、まだ知ってほしくない」


 俺はなぜかその時、沼津の民宿で見た遺影を思い出していた。

 返事をせずに、そのまま部屋を出る。


 廊下の影の中に足を踏み入れた。外は日が落ち、山の端が燃えるように赤かった。その夕焼けの赤さが、炎に包まれた作品を静かに見上げる、あの日の炉火の姿に重なった。


 帰り道、俺は炉火の家の前で自転車を止めた。大きな家は、夜の中で黒くのっぺりと佇んでいた。そこにポツリ、ポツリと明かりが灯っている。そのどれかが炉火であるような気がした。カーテンが揺れる。人影がうつる。――彼だ。


 もう会わないでくれ。


 炉火の伝言が、強がりなのだとほんの僅かに期待した。

 彼がもし俺に会いたいのなら、きっと俺に気づくはずだ。

 炉火は窓の向こうを見ていた。ずっとずっと遠くを見つめていた。

 俺に気づくことはなかった。


 俺は結局、そのまま自転車を出した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る