8.2


「大丈夫よ。皮膚移植とかは大変だったみたいだけど……ちゃんと腕は動いてる。四谷くん、左腕が利き腕なんですってね。治ってよかった。ただ、どうしても痕は残るみたいでね。他人の腕みたいだって言ってた。悲観的な感じじゃなくてね、新しい腕が生えたみたいだって、少し嬉しそうだった」

「そうですか、」

 嬉しそうな炉火というのが、うまく想像できなかった。ただ、あの白い左腕が――あの日、民宿の窓辺で鉛筆を握っていたあの左腕が、火傷の痕に塗りつぶされているのを想像したとき、炉火はもう筆を取らないのだろうという確かな予感があった。


「それでね。この間会ったとき、四谷くん、あなたに伝えてほしいことがあるって。短い言葉だけど、少しだけ、伝言聞いてきたの。」

 伝言、と繰り返すと、先生は小さく頷いた。

「四谷くんに伝言頼まれたの、初めて。というより、他の生徒の名前が四谷くんの口から出たのが、初めて。大事なことだと思ってね。それでちょっと、ここに呼んだってわけ」

「炉火は、なんて……」

 先生は一呼吸おいて微笑んだ。


「四谷くんね。本当に短いけど、一言、『今まで悪かった』、だって。意味、わかる?私にはよくわからないけど……春岡くんならわかるから、そう言ってた。それからね……『もう会わないでくれ』って。」

 先生はそこまで言うとしばらく黙った。俺の目をずっと見ている。どんな反応をするか、伺っているようだった。それからゆっくりと口を開く。


「ねぇ、春岡くん、覚えてる?二年の終わりの現代文の授業。私、山村暮鳥の詩で、宿題を出したでしょう。〈やめるはひるのつき〉の意味を答える宿題。」


 脳裏に金色の景色が浮かぶ。その中に佇む炉火の背中。


「あれは学年全員に出した宿題だったの。みんな色々な答えを出してくれたけど、似たり寄ったりだった。一番多かったのは、作者自身を表してるって回答。あとは寂しさや虚しさ、やるせなさ……どれも、よくわかるわ。わかるけど、ネットに書いてあることよ。失礼しちゃうわよね。みんな、自分で考えてないのね。」

 先生はいたずらっぽく笑ってみせた。だが、どこか探るような雰囲気があった。


「でも、その中で二人だけ、〈昼の月〉を〈秘められた思い〉の比喩だと書いた生徒がいた。誰だと思う?――あなたと、四谷くんよ。あれは示し合わせたの?」

 俺はどう答えていいかわからなかった。戸惑いながら首を横に振る。

「もし示し合わせていないのなら、」

 空気が少し静かになる。先生の顔から、ふっと、無理やり作ったようなあの笑みが消えた。変わりに、喪失感に似た何かがにじむ。


「気づかないうちに同じ思いを共有していたのね。それを読んで……本当のところは知らないけど、きっと特別なつながりがあると思ったのよ。これは私の拡大解釈かな」

「……そうですね。」


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