6.4


 駅に戻り、案内所で安い民宿を紹介して欲しいと頼むと、係員はすぐ「ここはどうでしょう」と言って海辺の民宿を紹介してくれた。それから近くのドラッグストアで、夕食用のカップ麺と最低限の身繕い品を買った。

 ほとんど日の沈んだ夜のとば口に、民宿のおばさんは駅まで車で迎えに来てくれた。車は黒い海沿いを長く走った。向こうで金星が光っている。


「高校生?まぁ、名古屋の方から鈍行で?あら〜冒険ね〜!素敵!」

 おばさんには、このあてのない逃避行が素敵に見えるらしかった。


 海沿いの民宿は、案内所で垣間見た写真の通り、かなり年季が入っていた。内装もそこかしこで古さが目立つ。昔から知っている家のような温もりがあって、悪くなかった。

 この日は俺達以外に大学生のグループが一組いるようだった。下駄箱に、履き潰されたスニーカーが六人分、並んでいた。


 おばさんの案内で、二階の部屋に入る。部屋は思ったよりも広かった。一番安い部屋で、と頼んだはずだったが、「部屋が空いてたから」と二間続きの和室を用意してくれた。冷房はしっかり効いていて、窓の向こうに海が見える。

 「お夕飯はもう済ませたの?」と問われ、カップ麺なので湯を貸してほしいと伝えると、おばさんは「あんらまぁ〜!」とひときわ大きく言って、眉をひそめた。

「カップ麺だけなの?それならちょっと、こっちにおいでなさい」


 言われるがままついていくと、台所でお湯と蒲鉾かまぼことプチトマトを分けてくれた。

「うちの余り物でごめんなさいね。でも、蒲鉾は沼津のだから。ねぇ、あなたたち、受験生?」

 蒲鉾の皿にわさびを盛りながら、おばさんが尋ねる。

「そうです、」

「それは大変ねえ。遠くに行きたくなっちゃうよねぇ。来たのが沼津でよかったわ。いいところでしょう。ふたりとも、少しは受験のこと忘れて、のんびりしなさいね」


 おばさんはそれ以上詮索はしなかったが、言葉の端には含みがあった。どうやら訳ありの逃避行だということは察したらしい。商売とはいえ、俺たちの個人的で名前のつかない感情を機敏に察した、そのおばさんの勘には恐れ入った。

 台所の隅には、若い女性の写真が一枚飾られていた。それ娘なのよぉ、と言っておばさんが笑った。それが遺影だと知ったのは帰りの車の中だった。


 浴場は共同で、俺たちは二人一緒に風呂に入った。陸上部の合宿でこういうのは慣れているつもりだったが、なんとなく炉火の体からは目をそらしながら入った。湯には緑の入浴剤が溶けていて、柚子のような香りが鼻の奥をつく。炉火は「のぼせる」と言って、先に湯を上がった。広い浴槽に一人残され、俺はぼうっと今日の旅のことを思い返していた。


 そなえつけの浴衣に着替えて自室に戻ると、炉火が窓のそばでノートのようなものを抱えて座っていた。左手に鉛筆を持って、何かを描いているようだった。


「何描いてるんだ、」

「別に。描こうとしたけど、何も描けなかった、」


 顔を上げた炉火は、俺の方を見るなり「お前死人か、」と言う。なんのことが分からずに突っ立っていると、おもむろに立ち上がって俺のそばで止まった。

「浴衣、着たことあるのか。何もかもが間違ってる」

 どうやら俺の着方のことを言っているらしい。たしかに俺は自分で浴衣を着たことなど一度もない。こんなものかと思って着てみたものの、目の前の炉火の着こなしと比べると、同じ浴衣とは思えなかった。彼は不意に腰に手を伸ばし、俺の帯に手をかけた。

「直してやるよ」


 あれよあれよという間に、俺は湯上がりにただ浴衣を羽織っただけの状態に戻された。それから炉火は手際よく、浴衣を着付け直していく。

 胸元で襟を合わせる。腰に腕を回して帯を締める。その姿が、どうしても直視できない。落ち着かない気持ちが顔に出ないように注意しながら、俺は窓の方を見て彼が作業を終えるのを待った。外は時折明るく光り、大学生の歓声が聞こえる。どうやら外で手持ち花火を楽しんでいるらしい。


 炉火は最後に襟元を掴んで整えながら、その手をピタリと止めて言った。


「帰りたくない」


 胸元で呟く炉火の声ははっきりと聞こえたが、俯いていて顔は見えない。



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