第6話 神様は人の心に疎く

「は、え? なんで、そんなこと言うんですか?」

「……俺が気づかないとでも思ったか」

「そんなこと、ないです。村の人たちは本当に良くしてくれて」


 やめろ、やめろ。頭の中でもうひとりのフキが喚き散らす。

 そんなこと言うな、言わないで。


 熱がさっと引き、冷たい汗が全身を濡らす。さっきまであんなに暑かったはずなのに、今は凍えるほど寒かった。別の意味で心臓が痛い。

 だというのに、フキはもうここまで追い詰められているというのに、ワタツミはさらに追い打ちをかける。


「良くしてくれた? 土間で寝かせるような連中が?」

「それは、当然です。だって、私は拾い子なんですから」


 こんなことを言わせないでほしいとフキはワタツミを見上げるが、満月が並んだかのような金の目は、フキが逃げることを許さない。


「食事をまともに食べようとしないのは、今までがそうだったからじゃないのか」

「――」

「指先が黒ずむほど、爪が割れるほど働かせて、飯も与えないのが愛なのか?」


  何もかもが遠い。

 一枚膜を隔てた向こう側から聞こえてくるようなワタツミの声に、フキは呆然とその場に立ち尽くす。

 否定も訂正も忘れていた。

 ただわんわんと頭の中を言われた内容が反響する。


「反吐が出る。まるで道具扱いじゃないか」

「――どうして?」


 何も言えなくなって、言うことも忘れて、絞り出した言葉がそれだった。

 たった一時、フキは相手が神だということを忘れた。


「どうして、そんな酷いこというの?」

「――フキ、俺は」

「村の人は私に優しくしてくれた。私を信用してくれた。私を、信じてくれた!」


 なのに、その言い方ではまるで必要とされていなかったみたいじゃないか。邪魔者みたいじゃないか。村の人間にとって、いない方が良かった存在みたいじゃないか。


 しかし、口から出ようとした言葉は舌の上で止まり、代わりに熱い息が肺を通ってやってくる。

 涙声だった。


「――申し訳ありませんワタツミ様。少し、頭を冷やしてきます」

「……フキ」


 目から流れ落ちるそれを見せたくなくて、フキはワタツミに背を向けるとそのまま逃げるように走った。残されたワタツミは戸惑ったような顔で、しかし相手を自身が傷つけたのだということを理解すると、伸ばそうとしていた手をおろしてしまう。


 のんびりとした魚たちだけが、男が立ち止まった場所でゆっくりと泳いでいた。




「……何してんだ、私」


 背の高いサンゴに囲まれたところでフキは立ち止まり、袖で乱暴に顔を拭おうとしたところで泡を紡いで織った布の高価さを思い出し、腕を下ろす。


 ワタツミに連れてこられるまで、フキは着飾るということに頓着がなかった。それは自分には関係のないことだと思っていたのだ。

 女として着飾って愛でてもらえるのは実子であって、自分は一生この野良着で過ごしていくのだと、そう思っていた。


 だから貢ぎ物と決まった際に着飾れたことが今生で最高の贅沢だと思っていたし、ワタツミから高価な泡織の着物を渡されて驚いた。


「い、いただけません。こんな高価なもの」

「何でだ、フキに似合うのに」

「だって、私が着るなんてもったいなくて」

「俺が、フキに着てほしいと思ったんだ。それじゃ駄目か?」


 神にそこまで言わせてしまっては受け取らざるを得ない、そんな顔をつくっていたが、嬉しかった。いつも遠くから眺めていたことを、自分も許されたような気がしたのだ。


 ワタツミに新たなことを教わるたびに、できなかったことに触れるたびに嬉しくて、けれどその分だけ気づいてしまう。元の生活がどれだけ苦しかったのかを。きれいなものに囲まれて、汚いものがより際立つように。


 温かい布団で寝る喜びを知った。洗い立ての着物に袖を通す心地よさを知った。お腹いっぱい食べることの幸せを知った。失敗しても叩かれないことへの安堵を知った。


 気づかないふりをしていたことが、どんどん浮き彫りになって、フキへと迫ってくる。理解させられる。今まで過ごしてきた場所がどれだけ酷いところだったかを、ワタツミに気づかされる。


私って、こんなに臆病だったかな。

 がくがくと足が震えていることに気づき、フキは自虐的に笑う。身体が一層冷えた気がして、腕をこすって温めた。


 理解することがここまで怖いだなんて、知らなかった。


「……戻らないと」


 そして謝らないと、と思う。ワタツミは純粋にこちらのことを心配していたというのに、その手を振り払ってしまったのだ。


「謝んなきゃ、ワタツミ様に」

「誰に、謝るって?」


 そのときだった。するり、とフキのすぐそばを何かが通り抜ける。驚いてフキが顔を上げると、そこには紫の髪を真珠の飾りで留めた女がくすくすと笑っていた。


「え、あ、あなた、誰?」

「おやあ、人間は礼儀も知らないのかい。名前を名乗るならまず自分から、だろう?」

「人間って、あなたもそうじゃ――」


 そっちだって人間じゃないかと言おうとして、フキは気づく。

 足がない。

 女の腰から下は魚の尾のようになっていて、そこにフキのような二本に別れた足はなかった。鱗が日を受けて、艶やかに光っている。


「にん、ぎょ?」

「おや、あたしのことはさすがに知ってたかい」


 上は人間、下は魚。答えはなんだ。

 その謎かけを聞いていたから名前は知っている。だけど、この目で見ることになるとは思わなかった。


 フキは一瞬ぼうっと海に揺れる髪の美しさに見惚れていたが、すぐにハッとなって「フキと申します」と慌てて頭を下げた。

 人魚の女はそれを見て楽しげに笑う。

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