第5話 村に帰りたいなんて言わないで



 ※※※



 二週間ほどがたった。

 ここまでくればさすがに慣れがくるというもので、仕事にも慣れたフキは手が空いたときに海面を見上げるようになった。ゆらゆらと光を透かす水面は今日も穏やかだ。


「っあー、やり切った……!」


 フキは飾り棚の掃除でずっとかがめていた腰を思いっきり伸ばす。背骨が歓喜の音を上げ、凝り固まった筋肉が解放に喜んでいる。


 ワタツミは貢ぎ物を要求するくせに、自分の好み以外のものはまったく興味がないのか、適当な飾りの中に放置されていたり部屋の隅に転がっていたりするので、なかなかに大変だった。


 それにしても本当に色々なものを持っている神様だ、とフキは思う。

 美しい透明な石に、美しい金細工を施した小箱、海を模した石がはめ込まれた髪留めに、波模様が細かく彫られた漆塗りの櫛。


 部屋で埃をかぶっていたのは、どれもフキが一生かかってもお目にかかれないような高価な品ばかりだった。


 あからさまにワタツミが使うことを見越しての髪留めや櫛が埃をかぶっているのを見るとさすがにしのびなくなって、フキはもう少し管理をちゃんとしたらどうだ、と一度だけ言ったことがある。

 だが、それも「俺は別に必要としていない」というワタツミのひと言で一蹴されてしまった。欲しいならやる、と言われて慌てて断ったのも記憶に新しい。


「私は別に、留める髪もありませんので」

「ふーん。ま、俺はフキの物語の方が好きだからな」


 しかもそんな不意打ちをくらって、フキは思わず赤面してしまった。ワタツミは珍しい顔だと実に楽しそうだったが、言われる方は恥ずかしくてたまったものではない。

 その後もワタツミはしつこくからかってきたので、あの日は寝物語抜きの刑にした。ささやかなフキなりの仕返しである。


「……やだな、思い出しちゃった」


 海の中なのになんだか身体が熱くなった気がして、フキは着物の衿を掴んでパタパタと空気を送り込む。あの神ときたら普段はわがまま放題で子供っぽいくせに、こういうところは大人のようなことを言うのだからどぎまぎしてしまう。


 黙っていれば男前なのに、その上あんなことを言われたら意識しない女などいないだろうと、そこまで考えてフキは駄目だ駄目だと首を振った。相手は神なのだ。そんなこと考えるなんてバチが当たる。


 だというのに髪留めや櫛を見たばかりなせいか、めかしこんで、その美しい顔で女にせまるワタツミの姿をフキの頭は簡単に想像して――


「おう、帰ったぞ」

「おっ、おっ、おっ、お帰りなひゃいませっ!」

「……? どうしたフキ。いつにも増して妙だぞ?」

「い、いつにもは余計です!」


 危なかった。もう少しで顔にでるところだった。

 フキは頭に漂う妄想をばさばさと振り払い、海の見回りから魚を引き連れて戻って来たワタツミに頭を下げた。視界の端に入ってくる絹糸のような青緑の髪が赤みを帯びていて、もう夕方なのかと気づく。


「今日はずいぶんと長い見回りでしたね」

「ああ、魚たちがな、妙な女を最近見るって騒ぐもんだからな」

「女、ですか? 海の中なのに?」


 妙な話だった。ワダツミの御殿があるのは海の底で、そんなところに生身を女が来られるわけがない。

 だがワダツミは心当たりがあるのか難しい顔をして、


「まあ噂程度だがな。フキも、しっかり戸締りしろよ」

「は、はあ」


 ぱっと顔を戻すと、フキの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

 その表情の変化に、何故かずきりと心が痛む。


「あの」

「ん、なんだ?」

「あ、――いえ」


 その女に心当たりがあるんですか。

 そう言いかけた瞬間、水面に映った月のような金と目が合って、フキは思わず言葉を飲み込んだ。


 頭の中でもうひとりのフキが彼女自身を叱咤する。

 今、お前は何を聞くつもりだったんだ? 人間のくせに、神に向かって。少し特別扱いを受けているからって、調子にのっちゃいないよな?


 顔が熱くなる。

 そんなつもりが少しもなかった、とは言い切れない。とてもじゃないが言い逃れができない。

 認めなければならなかった。女と言う言葉に子供の顔を消した神に、面白くないという気持ちを抱いてしまったことを。


「……フキ? どうかしたか?」

「あ、いえ! 本当に、何でも」

「いや、やっぱりお前変だぞ」


 訝し気な視線に心の内の何もかもを見透かされてしまいそうな気がして、フキは顔を伏せる。だが、それがかえって神の好奇心を刺激したらしかった。

 隠そうとすればするほど、ワタツミはフキの顔をのぞき込もうとする。


「なんだよ、どうした、フキ」

「――っ、村のことをっ、考えていまして」


 逃げ場などなく、だから視線をずらした状態でそんなことを言うのが精いっぱいだった。


「――村のこと」

「は、はい。皆なにをしてるかなーって、考えちゃって」


 視線を逸らしたフキは気がつかない。ワタツミが顔をわかりやすく歪めたことにも、返答の声が低いことにも。


「帰りたいのか」

「えっ?」

「フキ、お前は村に帰りたいのか」


 腕を掴まれて、そこでようやくフキはワタツミの顔が怖いほどに顰められていることに気がつく。ハッとなって手から逃れようとしても、ワタツミの大きな手はフキの手首をしっかりと握って離さない。


「わ、ワタツミ様? 何を――」

「帰さない。絶対、絶対にだ」


 いつもどこか楽し気な声は低く、フキはいつもと違う様子に肩を震わせる。すると怯えているとわかったのか、ワタツミはそろりと手を離した。


「ワタツミ、様」

「……悪かった。お前を、怖がらせるような真似をして。だが――」


 緊迫した空気の中、空気を読まない魚が一匹、ふたりの間をゆっくりと泳いでいく。しかしそんなことにも構わずに、ワタツミの両目がフキをとらえた。

 ドクドクと心臓の音がフキの身の内で暴れている。

 期待している。してしまっている。


「フキを虐げる連中のところに、帰すわけにはいかない」


 そしてそれはいっぺんに消えていった。

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