15話 四章 そして、運命が回り出す(4)

 風紀委員会室を出たサードは、『悪魔の血丸薬』を噛み砕きながら、一番近くのトイレへと向かった。


 胃に溜まった血を吐き出すのであれば、後で服用した方が良かっただろうか、と遅れて気付かされた。しかし、もう飲んでしまったものは仕方ないと、楽観的に考え直して廊下を進む。


 トイレの看板が前方に見え始めた時、白い廊下の中央に、ぷりぷりと苛立ったように歩く小さな生き物が目に留まり、思わず足を止めた。


「……なんだ、あれ」


 その奇妙な生き物は、一見して柔らかいと分かるダーク・ブラウンの艶やかな毛に覆われていた。サイズは仔猫よりも小さく、小振りな頭から生える長い耳は、エミルがよく連れ歩いている人形に似ている。


 まるで丸い毛の塊のようなその生き物は、丈の短く、底の長い足を持っていた。二本の足で器用に、ぺったんぺったん、と廊下の中央を歩いている。


 時々、ソレは「ぷぴゅッ」と可愛らしい鼻息を上げた。苛立っているかのように、ぷりぷりしながら長い耳を上下に動かせていた。


 胃の不快感は強くなっていたが、サードは好奇心に負けて、コンマ二秒でその生き物の前に回り込んだ。両手で包み込むように持ち上げてみると、両手の掌に収まるそれは、仔猫とは比べ物にならないほどふかふかとした触り心地だった。


「うっわ、何これ、すげぇ柔らかい!」


 思わず感激の声をもらすと、珍妙な生き物が驚いたように両耳を立てた。ダーク・ブラウンの毛並みの中に埋もれる、小さな桃色の鼻の上にあった丸いアイス・ブルーの瞳と目が合った。


「わぁ。お前可愛いし、綺麗な眼の色してるなー。なんて名前の生き物なの?」

「キュィッ?!」

「俺、サードって言うんだ。『三番目』の『サード』――あ、言葉は分からないか」


 えへへ、と思わず表情を緩めたサードは、胃の辺りからせりあがってくる感覚に我に返った。


「やばッ。ごめん、ちょっと走るけど怒るなよ」

「ピ?!」


 奇妙な生き物を片腕に抱え、サードは口を押さえてトイレに駆け込んだ。小さな生物を鏡台へ置き、手早く洗面所の水道を開ける。


 洗面所に両手をついたタイミングで、口の中へと逆流してきた血液が、咳と共に吐き出された。発作の衝撃で別の臓器が潰れたのか、予想よりも長く焼けるような咳が続き、反射的に口許を押さえた右手が血に染まった。


 やがて発作が治まったところで、サードは手と唇についた血液を洗い流した。少し体温の上がった吐息をこぼしながら、血が他にも付着していないか確認するために顔を上げる。


 不意に、正面にあった鏡の中に、疲労感を滲ませる自分の顔が目に留まった。同じ表情をしていた最後の仲間のことが思い出されて、しばし、らしくなくじっと見つめてしまう。


 最後の仲間が死んだのは、サードの地上行きが決定する直前だった。


 彼は身体の寿命が尽きたことで血を吐き続け、四人の研究者がベッドに寝かせて介抱にあたっていた。


 処分してくれた方が楽だろうに、と思いながらサードが見守っていると、少年がこちらを向いて、疲れ切った顔に穏やかな微笑みを浮かべた。


 ようやく終われる。ごめん、先に逝くね。


 既に声帯の機能も失った少年の唇が、そう動くのが見えた。その少年は、溢れる血を拭い続ける研究者たちが見守る中、そうして静かに息を引き取っていった。


 死期というものは、きっとこういうことなのだろう。


 漠然とそんなことを思いながら、サードは自分の顔が映る鏡へと手を伸ばした。ロイや一部の生徒に指摘されたように、この銀髪も、まるで生気を失った白髪のようだと思った。


 仲間たちと違い、サードは十四歳まで身体に『ガタ』が来なかった。その反動で、遅くに始まった肉体の崩壊スピードは、あまりにも早いのではないだろうかと研究者たちは憶測を口にしていた。


 鏡に触れると、ギシリ、と身体の筋組織が軋む音がした。


「……肉体活性化、解放十パーセント」


 呟くと同時に、幼い頃から制御を覚え込まされた悪魔細胞が、定められた数値分の活性解放を始めるのが分かった。疲労感が瞬く間に消え失せ、鏡の中の赤い目が、鈍い光を灯した瞬間――手で触れていた鏡が、破壊音を上げて割れた。


 少し加減は難しいが、ガタがきたままの身体でいるより、十パーセントほど解放している方が肉体の都合もいいだろう。『サード・サイファン』の振りをするのも、あと少しで終わるのだから。


 その時、小さな鳴き声が聞こえて、ふっと我に返った。自分が、ここに可愛らしい小さな生き物を連れて来ていたことを思い出す。


 そちらに目を向けてみると、見開かれたアイス・ブルーの目と合った。珍妙な小動物の長い耳が、中途半端な位置で固まった様子は可笑しくもあり、サードは知らず微笑んでしまった。


「さてと。どこから来たのかは分からないけど、お前をここから連れ出さなきゃいけないな。おいで、外まで連れていってやるから」

「キュ……ッ」

「乗り気じゃない? でも、ここにいたら危ないんだよ」


 サードは加減に気をつけながら、嫌がるような仕草を見せた珍妙な小動物を胸に抱えた。先程の様子からすると、迷子になって怒っていた可能性が考えられて、ひとまず外に連れ出すべく歩き出した。


 生徒のいる授業棟を避けて階下を目指していると、唐突に非常警告音が廊下に響き渡って、サードは目を丸くした。


「あれ? まだ一時間以上はあるよな? 念のために退出時間が早まったのか?」


 もしくは、今期では見事な日食になるという『例の月食』が、想定時刻よりも早まったのだろうか。


 どちらにしろ、ロイが交渉に納得してくれない場合、こちらが『皇帝の首飾り』を奪取する予定であるので、それまでには正門辺りに隠れ潜んでいなければない。


 サードは、実に奇妙で可愛らしい生き物を抱えたまま、数秒ほど考えた。これまでの経験と結果からすると、全校生徒の避難は三十分以内では完了するだろう。


 避難経路は、授業棟の非常階段口となっており、特別行動をとる生徒は風紀委員長のみとなっていた。他の生徒は、役職に関係なく所属するクラスへ合流するか、定められた避難経路を辿る。


「これから三十分以内に、正門あたりに行かなきゃならないが……。さて、どうしたもんか」


 出来るだけ他の生徒に姿を見られないよう、正門近くまで移動する経路を思案しつつ、サードは腕の中の奇妙な小型生物を見下ろした。


「よし。ついでだから正門まで連れて行こう。それで万事解決だ」

「キュ?! キキュゥ、キュッ」

「こらこら、暴れるなって」


 突然、腕の中の小動物が暴れ出した。サードは、全く手ごたえのないその生物の柔らかいパンチを手で受けとめると、抱え直してから小走りに廊下を駆け抜けた。


 一階の回廊口あたりまで降りた時、回廊を渡った先にある非常口から、一学年生の生徒たちが外に出るため、列をなして進んでいるのが見えた。その中には、見知った顔の風紀部員の姿もあった。


 こちらの姿が視認されないよう、サードは廊下の影へと身を潜めた。腕の中の可愛らしい生物が途端に静かになり、もしや潰してしまったのではないかと心配になり視線を落とすと、奇妙な長い耳がピクピクと反応しているのが見えた。


 どうやら、この小さな珍妙で可愛らしい生物は、集団でいる人間にでも興味があるのだろうか。生徒たちのいる方角へ小さな鼻先を向けて、匂いを嗅ぐような仕草をしていて、そのたびに小さな髭が動いている。


「うわぁ、鼻と耳がピクピクしてる。お前それ、すごく可愛いな」


 思わず呟くと、途端に奇妙な小動物が上目に睨んできた。


「そんなに怒っても、可愛いまんまだぞ」


 言いながら、つい、腕の中に収まった生き物の柔らかい頬をつつく。そうしたら腕の下に力なく下がっていた足が、調子に乗るな、と言わんばかりにこちらの腹を数回打ってきた。


 サードは触れ合いを諦め、奇妙な形をした可愛い動物を片腕に抱え直すと、足早にそこを走り抜けた。進んだ先には、校舎内警備室の控え部屋もあったが、そこは既に無人だった。


 そのまま直進して警備室前を通り過ぎ、西棟の非常口を目指した。しかし、またしても廊下の中央に小さな生物を見付け、サードは立ち止まってしまった。


 それは校舎裏で見掛けた、あの灰色の仔猫だった。仔猫は慌てているのか、困り果てているのか、廊下の中央で小さな円を描き続けるように走っている。


「何これ。すげぇ遭遇率なんだけど?」


 これはもしや勘の鋭い動物が、悪魔が来る異変でも察して、パニックを起こしているのだろうか。


 それならば校舎外に出て欲しいものだと思いながら、仔猫のそばにしゃがみ込んで「ちっちっち」とやった。すると気付いた仔猫が振り返り、こちらの腕の中にいる珍妙な生物を見て、ギョッとしたように固まった。


 やはり、コレは珍しい生き物なのだろうか。サードは不思議に思いながら、「警戒しないでも大丈夫だぞ」と仔猫に声を掛けた。


「変な生き物だけど、爪も牙もないみたいだから害はないっぽい。ところで、なんでお前は校舎内にいんの? 入ってきたら駄目だろ?」

「に、にょー……」

「ほら、こいつと一緒に出してやるから、こっちにおいで」

「にょ!? にゃぁあああああああ!」


 灰色の仔猫が、明るい鳶色の目を見開き、全力拒否するように首を激しく左右に振った。


 サードは、滑り落ちそうになった、毛と肉の塊のような腕の中の生き物を抱え直して首を傾げた。


「抱っこされるのが苦手なのか? でも、出てくれないと困るんだよ」

「にょ、にょにょにょ、にゃーんッ」

「ん~。何を言っているのか、さっぱり分からん」


 そう首を捻った時、腕の中の生物が仔猫に応えるように「キュィ」と小さく鳴いた。目を向けてみると、仔猫と奇妙な動物が見つめ合っている。


「……もしかして、お前ら会話出来んのか?」

「キュッ」

「つか、お前も人間みたいな変な動物だなぁ」


 サードは、こちらを振り返って頷き返してきた、奇妙で愛らしい生物に感心した。仔猫が腕を控えめにつついてきたので、もしやと思って珍妙生物を床に降ろしてやると、二匹はあの非常口に向かってゆっくりと歩き出してくれた。


 なんと賢い生き物なのだろうか。仔猫が責任を持って誘導してくれるらしい、と解釈して感動した。


 二本脚でどこかふてぶてしく、ペッタンペッタン、と歩く奇妙で可愛い動物を、仔猫が呆れたように横目に見ていた。サードも、初めて見る小さく丸い珍妙な小動物を眺めつつ、仔猫たちの歩みに速度を合わせて裏口へと向かった。


「じゃあ俺は急ぐから、ちゃんと二匹で仲良く外に出るんだぞ」

「に、にゃーん……」


 仔猫がぎこちなく声で鳴いたそばで、珍妙生物がジロリとこちらを見上げて、小さく鼻を動かせた。


「チゥ」

「お前、もしかして鼠の変異体か何かなのか?」


 どこか苛立ちを隠せない様子の、可愛い奇妙な生物の鳴き声に疑問を覚えたが、サードは名残惜しくもその場を離れた。


 正門に並び立つ青葉をたっぷり茂らせた桜の木を目指し、気配を殺しつつ風を切るように走った。途中、向かう先からやってきた黄色い小鳥が、彼のそばを舞うように飛び去っていった。


 今日は、随分と小さい動物に遭遇する日だなぁ。


 サードはそう思いながら、飛んでいく子鳥の後ろ姿を目で追った。この島では初めて見るその黄色い小鳥は、本校舎へと向かって旋回し、数秒もしないうちに校舎の影に隠れて見えなくなった。

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