第7話 誘い水に追い詰められる皇帝

 朱亞シュアが池の中に身を潜めてから、どれくらい経っただろうか。

 常人であれば、池に体を沈めて、さらに雨水に身を濡らしていれば、風邪を引いて調子を悪くしていたかもしれない。

 

 けれども朱亞は こと水に関してだけは、常人ではない。

 だから、冷たい水の中で数刻待とうが、苦ではなかった。

 逃亡生活の間も、こうやって何度も追っ手の兵士をいた。だから朱亞には慣れたものだった。


(きっと憂炎はここに来る)


 確信はないけど、きっと憂炎は、今日この池に現れる。

 そんな予感が、朱亞にはしていた。


(やっと来た……)


 朱亞が水蛇のように池で息を殺して早二刻。

 草木も眠る夜の時間というやつである。

 こんな時間に後宮の外れにあるこの池にやって来る人物は、限られている。


憂炎ユーエンだ!)


 後宮へと繋がる竹林の道から、憂炎が現れた。

 傘もささずに、びしょ濡れのままこちらに近付いてくる。

 普段なら持っているはずの手燭てしょくすら持っていない。

 

 気のせいか、いつもより下向きな表情をしている気がする。

 正直、雨のせいで月も出ていないせいで、まったく見えはしない。

 でも、朱亞にはそんな気がした。


 ほどなくして、後宮の方角から足音が聞こえてくる。


「やっと来たようだな」

 これは憂炎の声。


 それに反応して、黒い影が手を上げる。


「足元の悪いなか、わざわざお待ちいただき大変恐縮に存じます」

 

 うやうやしくそう返事をしたのは、男とも女とも取れない声だった。

 女にしては低すぎるけど、男にしてはやけに高い。

 きっと宦官だ。

 それに、どこかで聞いたことがある声な気がする。


「約束通り来てやったぞ。さあ、長居は無用だ。早く話してくれ」


「ええ、もちろんでございますとも。あなたの御母堂である杜太妃の死の真相をお話いたせばよろしいのですよね?」


「そうお前が俺に手紙をよこしたのだろう。しかもわざわざ司馬貴妃の侍女を通したということは、お前の飼い主は董太妃だな」


 董太妃──そうか、あの時の!


 秀女選抜試験の帰り道に董太妃を見たけたときに、明明にぶつかってきたあの横柄おうへい大柄おおがらな宦官。

 それが、この宦官だったのだ。

 

「いえいえ、わたくしのあるじ主上しゅじょうただ一人にございますれば」


「真の俺の部下は、すべて死んだ。それでも俺のことを主だと思うのなら、正直に申してみろ」


「それでは申し上げます……陛下のご母堂である杜太妃が亡くなったとき、わたくしは見ていしまったのです」


「…………なにを?」


「あちらをご覧ください」


 宦官と思わしき男が、池のほうへと指さす。

 それにつられて憂炎が目を離した瞬間だった。


「ぐあぁっ!」


 鈍い殴打音と共に、憂炎の叫び声が耳に入る。

 宦官が棒のような武器を取り出して、憂炎の頭を殴ったのだ。

 

 倒れ込む憂炎に、宦官が乗りかかる。

 そこからは、乱闘になった。


 ただではやられないという憂炎の気迫を感じたけど、それでも先手を打たれたのが効いたのだろう。

 次第に動きが鈍くなり、ついには動かなくなった。

 相手の宦官もただ者ではない。

 おそらくは武人。

 それも、かなりの達人だ。


「……うっ、おまえっ……なにをする、つもりだ?」


「お母上と同じ景色を見せてあげようとしているのですよ。なにせ一年前の今日、わたくしはこうやって杜太妃を池に沈めたのですから」


 つまり、憂炎のお母さんはこの宦官に殺されたと言うこと。

 やっぱり噂通り、事故ではなかったんだ。


「ちょっと四肢を縛らせていただきますが、ご安心くださいませ。明朝みょうちょう、縄を回収いたしますので、この池にはただの溺死体だけが残ります」


 宦官は動かない憂炎をかつぐと、池の中腹まで足を踏み入れる。

 

「もちろん検死をするのは我々の手の者です。ですからあなたは家族を守れなかったことを悔やんで精神を病んでしまった結果、その母親の命日に同じように心中をする哀れな男として美談として語られるように情報操作させていただきます」


 宦官が、憂炎の体を池に投げ捨てる。

 ボチャンという大きな音は、雨音にかき消されて後宮の中心部までは届くことはない。


「それでは皇帝陛下、さようならでございます」

 

 宦官が池から上がるのに比例して、憂炎の体が池の底へと沈んでいく。

 

(やっぱり、憂炎は皇帝陛下だったんだ……)


 わかっていた。

 だけど、こうやって第三者が憂炎を皇帝と呼ぶと、やはりと実感せざるを得ない。


 憂炎が池に沈んでいくのを、朱亞は池の中から静かに眺める。


(私は元々、敵国である金鸞国の人間と同じくらい、祖国である銀龍国の王族を恨んでいた。銀の髪で生まれた私のことを、先祖返りの化け物だとみんなが私を迫害したから)


 そうして銀公主は下女として、銀龍国の宮殿の洗濯係をすることになった。

 王族であるにもかかわらずにだ。

 そのおかげで王都陥落のおりには命が助かったのだから、皮肉なものである。


 だけど、そんな扱いをされても、家族は家族。


 一族を皆殺しにされたせいで、金鸞国の人間に恨みを抱いた。


(そのはずだったのに、どうして…………)


 金鸞国の皇帝は、家族のかたき

 それなのに、どうしても憂炎のことを恨むことはできなかった。


 子供のように無邪気な表情をしながら焼き魚を食べる憂炎の顔が忘れられない。

 あれだけ憂炎が感動していたのは、温かい食事を食べることのできない、高貴な身分の人だったからだ。

 遠い厨房で料理された物が、毒味役を通してやっと運ばれてくる。

 そのころには、どれだけ温かかった食事でも、一人きりの寝室のように冷え切ってしまうのだ。


(私に対してあんなに喜んで焼き魚を食べる憂炎が、銀龍国を滅ぼした悪逆非道の皇帝とは思えない)


 そう思うのなら、憂炎から直接聞けばいい。

 銀龍国のを亡ぼすように、指示をしたのか。


 前皇帝がすでに亡くなっているのなら、朱亞の仇はもしかしたら目の前で今にも溺死しようとしているあの皇帝かもしれないのだから。


(これは憂炎を助けるわけじゃない。命を救ったあとに、銀龍国をなぜ亡ぼすように指示したのかを問いただすだけだから)


 朱亞はゆっくりと体を起こす。

 金鸞国の後宮の下女『朱朱亞』としてではなく、銀龍国最後の王族、『銀公主』として。

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