第6話 雨が滴らない良い下女

 翌日の夜。

 寝所の窓辺にりかかりながら、朱亞シュアは窓の外をぼーっと眺める。

 

 今日の天気は雨だ。

 洗濯仕事を早々に終わらせた朱亞は、日没からずっと自室の外を眺めていた。



「しゅ~あ~。もうっ、どうしちゃったのさ~」


 そう言いながら朱亞のほっぺたを引っ張って来るのは、友人の明明メイメイだ。


「なんだか恋する乙女って顔してるよ。もしかして、皇帝陛下のお妃さまになるのが楽しみでしかたないの?」


「それはないわ」と明明の頬を引っ張り返す。

 

 こんなふうに友人とたわむれるのは、朱亞にとって人生初のことだ。

 だからだろう、落ち込んでいた気持ちが、ちょっと楽になった。


「まったく~。そんなどんよりしている朱亞に、朗報です。良いこと教えてあげるから、元気出しなよ~」


「良いこと?」


「そうっ! 前に朱亞から頼まれてた、池の幽鬼についての情報だよ。今ならお安くしちゃうんだから!」


 そういえばそんなことを明明に頼んでいたんだった。

 憂炎ユーエンになぜ嫌われたのかが気になりすぎて、すっかり忘れてしまっていた。


(でも、嫌われたにしては、形見の指輪を渡して来るのはおかしいわよね)


 理由がまったくわからない。

 だけど、意外なことに明明の情報がその道しるべヒントになったのだ。


「去年池で亡くなって、幽鬼騒ぎの原因となった妃の名前は、杜太妃。現皇帝の実の母親なの!」


 ──杜。


 朱亞は咄嗟とっさに、右手の薬指にはめられた指輪に視線を向けた。

 その名前には、聞き覚えがある。

 たしか、憂炎の姓が「杜」だったはずだ。


「でもね、この噂はこれで終わりじゃないの。その杜太妃は事故死ってことになってるけど、実は他殺なんじゃないかって話があったみたい」


 明明は朱亞の耳元に近付くと、誰にも聞こえないくらいの小さな声でささやく。


「杜太妃様が亡くなったことで、董太妃様は事実上の後宮の女王様になったみたいなの。皇帝も董太妃様には頭が上がらなくなって傀儡かいらいになってるとか。だから──」


 みなまで言わずともわかる。

 皇帝の母である杜太妃様が死んで、一番得をしたのは董太妃様なのだ。

 目的は、自分の息子である皇弟を即位させることだろう。

 

 でも、そうなると──


 朱亞は指輪を渡してくれた友人の顔を思い浮かべた。


「しかもね、皇帝の母君である杜太妃様が亡くなったのは、ちょうど一年前の今日なんだって」


 指輪を触りながら、あることを思いつく。

 朱亞の直感が告げていた。

 昨日、憂炎があんなことを言ったのと、今日が憂炎のお母さんの命日なのは、きっと偶然なんかじゃない。


「ごめん明明、ちょっと行ってくる」


 何も考えずに、朱亞は走り出した。

 

「ちょっと朱亞、傘くらいもって行かないと風邪ひいちゃうよー!」


 傘も持たずに、朱亞は闇夜へと体を沈めた。

 ドシャ降りの雨だが、寒くはない。

 まるで雨水が鱗に弾かれるように、朱亞の体に触れずに飛び跳ねていたからだ。


「え、水が反射してる? いや、見間違いかな……」という明明の声が聞こえた気がした。


 でも、きっと大丈夫、

 普通の人間は、雨水に濡れるのは当たり前。

 だから水から身を守ることができる人間がいるなんて、夢にも思わないはずだから。 

 

「ありがとう明明」


 明明が後宮に来たのは、朱亞と同じで先月のこと。

 だから去年に起きたこの事件のことは、きっと先輩のお姉様方に聞いて来てくれたに違いない。

 あまり言いにくいような繊細な事件の話を、先輩から教えてもらうのは大変だっただろう。

 

(明日の洗濯はいっぱい手伝ってあげないとね)


 雨水を弾きながら、朱亞は進みなれた池へと向かう。


 もう来るなとは言われたけど、別に守る義理はない。

 だって朱亞と憂炎は共犯者。

 一緒に後宮の魚を密漁して、焼き魚にする仲なのだから。

 

 他人が見たら、朱亞たちのことを何と称するだろうか。


 その答えは、知らなくてもいい。

 だけど、このまま憂炎と二度と会えないと思うと、なぜか胸が苦しくなった。


(どうして……あの男は敵国の要人。恨むことはあっても、それ以外の感情を持つことなんてありえないはずなのに)


 ここまで情報がそろえば、頭の巡りが遅い朱亞にでもわかる。



 憂炎の正体が、何者なのか。

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