第4話


         ※


 それから俺は、しばらく廊下をふらついた。うちのクラスでのことだったら、摩耶に任せてもいいだろう。この学校では、クラスという、いわば生徒の括りのようなものの存在がほとんど認知されていない。

 転校から約一週間で致命的なヘマをしなければ、残り三年間はほぼ安泰だ。


 授業そのものについて考えてみると、特に男女の隔たりはないし、授業によっては先輩・後輩の区別も無くなる。

 最初は教室移動やグループメンバーの切り替わりに戸惑うかもしれないが、そのあたりは新入生や転校生自身に頑張って追いついてもらうしかない。


 まあ、特別行くところがあるでもなし、ここは素直に教室に帰るとするか。

 我らが高等部・一年五組。ドアをスライドさせて足を踏み入れようとすると、なにやら怪しげな声が聞こえてきた。


「大丈夫だよ、美耶さん! 俺っちたちも覚えられたんだ、君ならあっという間さ!」


 っておいおい、あの馬鹿が……! 寛の野郎、そんなぐいぐい美耶に迫ったら、彼女には大きなプレッシャーとなってしまう。そんことも分からないのか!


 俺は美耶の机を取り囲む連中をかき分けた。何故赤の他人に過ぎない俺が、こんなに必死になっているのか。知るか、そんなこと。

 単に俺は、美耶のことを助けたかったのだ。


「悪い! 皆、どいてくれ! おい寛! 寛!」


 喚き散らしながら、前のめりになる俺。そんな俺の背中に突然、衝撃が走った。ぐへっ、と間抜けな音が俺の喉から飛び出てくる。

 何があったんだ? 俺が振り返ろうとすると、俺を踏み台にした人物が美耶の眼前に立っていた。

 俺が前傾姿勢を取った瞬間を狙って美耶に飛びかかったのだ。すげえ身体能力。

 俺の知り得るクラスメイトでこんな真似ができるのは、あいつしかいない。


「てめえら離れろ! あたいの妹に手出しするんじゃねえ!」


 やっぱり摩耶か。美耶の身を案じて馳せ参じたわけだな。

 って、納得している場合ではない。


「おい待てよ、摩耶! こいつらは美耶をいじめてたわけじゃない! 俺からもちゃんと皆に知らせておくから、お前はこれ以上暴れるな!」

「放せっ、放せよ畜生! てめえもこいつらの仲間なのか、柊翔!」

「俺は誰の味方もしねえよ! とにかく、お前は席に戻れ! これじゃ、お前が悪者にされて――」


 と言いかけて、俺ははっとした。するすると教室の前方のドアがスライドする音が聞こえたのだ。

 昼休み終了の時刻。そして、すたすたと入って来る教諭。ああ、五限目は社会だったか。


「よーし、皆、席に就いてくれ。午後一で大変だが頑張って――で、ど、どうしたんだ? 誰か、何があったか教えてもらえるか?」


 いつもは極めて温厚な社会科の教諭。だが、生徒の成績よりも授業態度を優先する状況も少なくない。まるで、勉強は生徒の責任、態度は教諭の責任と割り切っているようだ。


「席に就けないノロマは顔を覚えたぞ! 後で学年主任の先生に伝えておく! ご家庭の方にも知らせておくから、覚悟するように! 分かったら席に戻りなさい!」


 そう、これだ。いわゆる学校から家庭への『ご叱咤』である。

 どの教科のどの教諭も、何らかのトラブルを起こした生徒の顔と名前は決して忘れない。

 もちろん、この学校の生徒人数が少ないということもあるだろう。が、一〇〇パーセントの精確な暗記というのは、常人にできることではないだろう。


「おい、戻るぞ摩耶。寛もさっさと美耶から離れろ! ああ、ったく……」


 次の休み時間に、美耶にしっかり言い聞かせておくしかあるまい。

 ここにはお前を傷つける輩はいないということ。

 何かが不快なら堂々と言ってしまえばいいということ。


 少なくともこの二点は、美耶が覚えるべき処世術の筆頭だろう。

 俺はふっと息をついて、自分の机に戻った。


 俺が謝罪する筋合いではない。それは分かっている。だからこそ、美耶を守ってやりたいと思うのだろう。余計な善意を押しつけるようだが、それだけ俺が美耶のことを想っていると伝わればいいと思う。


 俺は美耶のことが好きなのか。まさかな。恋愛感情はないだろう。

 自分の感情ほど掴みづらいものはないそうだが、これで美耶に好意を抱いてしまったら、俺はロリコンの誹りを免れまい。ぶっちゃけどうでもいいが。


 この五限目の社会が終わるまで、摩耶も美耶も大人しくしていた。

 まだまだ二人の性格や、自分がどう関与するのかは分からない。関与しない方が無難なのかもしれない。


 しかしなあ……。なんとも言えないが、月野姉妹からは何らかの『闇』というか『重苦しさ』というか、そんな『オーラ』を感じる。

 初対面だったら気にしない。だが、俺と摩耶、美耶の記憶が正しく一致するならば、確かに俺たちは幼馴染なのだ。無下にはできまい。


「……!」

「……」

「風見柊翔くん!」

「ほぇ? は、はいっ!?」

「本校に通う生徒でありながら、ぼーっとしているとはいい度胸だな! よろしい! さっきの騒ぎに参加していた生徒たちに特別講義を施すつもりだったが……。風見くん! 君にだけは、さらに三十分追加で講義をしてあげよう!」

「はぁ」


 中途半端な吐息が、俺の声帯を震わせた。

 ……マジかよ。


         ※


「ほへー、進学校ってすげえんだな! 柊翔、お前は合計百二十分の特別講義だろ? やーいやーい!」


 机に突っ伏する俺の周りで、摩耶が踊り狂っている。ふざけやがって、こいつめ。

 人に気力がないのをいいことに……。


「ごめんなさい、風見さん……。理由は分からないんですが、姉が急に盛り上がってしまって……」

「ん、ああ……。君に責任はないだろう、美耶? 騒いだり授業に集中できなかったりしたのは、全部美耶以外の、俺たちのせいだ。気負うなよ」

「そう、ですか」

「そうそう、そういうもんだ。あ、もしよかったら、なんだけど」

「はい」

「美耶も俺を先輩、って呼んでみてくれないか?」


 俺はそう提案した。生徒同士なのに『~さん』ってのは堅苦しい気がするんでな。

 すると美耶は、えっ? だか、はい? だが、意味のない音を発信し始めた。


「もし嫌だったら言ってくれ。美耶の趣味趣向に口出しするほど、俺は偉くもないからな」

「はひ……」


 俺が顔を上げて頷いて見せると、妙なことが起こり始めた。美耶の顔が、赤くなり始めたのだ。目線はだんだん下がっていって、どこを注視しているのか定かでない。

 いったいどうしたんだろう。俺が何かマズいことを言ってしまったのだろうか?


「あ、あのさ、美耶。だいじょう――」

「でぇ~い!」

「うわ!?」


 俺は再び背中に衝撃を受けた。


「おい、摩耶! 俺に絡むなよ!」

「え~? 柊翔ってば、そんなに素っ気ない子だったの~?」

「クネクネ動くな、気持ち悪い!」


 っていうか、お前は俺の何なんだよ。お袋だなんて言い出すんじゃねえだろうな?


「おーい、摩耶ちゃん!」


 再び振り返ると、机の合間から金髪頭が伸びてきた。

 摩耶一人でも騒がしいのに、寛まで参戦か。厄介だな。


「俺はお前らのことなんて知らん! じゃあな!」


 肩で風を切るようにして、俺は席を立った。そのまま教室前方のドアの方へ。


「どこ行くんだよ、柊翔ぉ!」

「馬鹿だなお前ら、次の講義は理科だろ? 教室移動があるじゃねえか!」


 すると寛と摩耶は、ぽん、と掌と拳を打ち合わせて、あ~、と一言。気の抜けた声でぼんやりしている。


「今度こそ俺は行くからな! 遅刻するんじゃねえぞ!」


 教科書やノート、ペンケースを小脇に挟み、今度こそ俺は教室を後にした。


「ん……でもあれは……」


 あと五分。理科実験室には余裕で間に合う時間だ。

 だからこそ、なのかもしれないが、俺は余計なことを考えてしまった。


 背後から攻撃を受けた時。それは、摩耶が抱き着くようにタックルを仕掛けてきた時のことだが。


「何か柔らかいものがぶつかって来たような気がするんだよな……」


 その『柔らかいもの』が何なのか。想像を巡らせて、俺はたちまち顔が熱くなった。きっと、さっきの美耶同様に赤面していることだろう。


 俺はごくりと唾を飲み、空いている片手を額に当てた。そのままがっくりとこうべを垂れる。

 おいおい、正気か、俺は? それこそロリコンじゃねえか。


 あんまり好ましい言葉じゃないが……。

 どうして年下の異性に欲情しているんだ?


「あーったく、もう!」


 俺は手にした教材をぶん投げそうになって、辛うじて自分を引き留めた。

 がっくりとその場で膝をついたが、はっとして振り返った。こんな無様な格好、摩耶や美耶に見せたくはない。寛に見られてしまうなどもっての外だ。


 俺はさっさと立ち上がり、小走りで理科実験室へと駆け出した。


「理科まで特別講義だなんて勘弁だからな!」

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