第三章

第20話 模擬試験の結果を受け取った波野雪花

 先日行われた数学の小テストが返却された。一人机に額を伏す状態の雪花を謙吾、洋介、真澄が取り囲む。

「ほら、ユキ行くよ」

 真澄が雪花に起立を促す。小テストばかりではないのだ。和泉から七月の模擬試験の結果を取りに来るよう言われていた。出席番号は関係なく気が向いて時間がある  生徒が担任の元へ。

 夏休みに入る前に行われたそれは、雪花にはあまり自信がない模試だった。さらなるボディブローが待っているのは必至だが、雪花は重い身を揺らしながら、真澄とともに地学準備室へ向かった。引き伸ばすよりも、くらうなら連発で短時間のうちに。そうすれば、回復への道も近くなるというもの。

 和泉から真澄の次に渡された模試結果。そこに印字された数字。ため息を呑み込んだ。

「良くはやっているがな」

 評価は、和泉のあっさりとした一言に尽きた。

 雪花はもともと県内の私立大学を志望していた。健康スポーツに関連する学科で、推薦入学を考えていた。もしそれで不合格だったとしても、受験科目は英語と国語と理科から二科目を選択する一般試験に切り替えればよく、学校の授業でもその三科目はそれなりであったから、なんとかなりそうだった。

 雪花がその大学を選んだのは、それは数学が壊滅的に苦手で、一次試験に五教科そろい踏みの国公立大学には不利だという理由もあった。県内の国立津潟大学の教育学部を最初に考えていたのだが、それは洋介と同じ体育専攻で、数学は数学ⅠAとⅡBの二種類を受けなければならなかった。それは彼女にとって負担以上にあきらめざるを得ない条件であった。

 そんな彼女が私立大学から津潟大学へ志望を変更した決め手は一つしかなかった。龍宮謙吾である。

 彼が国立津潟大学の志望だとはゴールデンウィーク前に行われた模試の結果が返って来た時、洋介の介入によって、雪花や真澄にも知られることになり、その判定はA、つまり合格確実であった。話しを聞けば、高二の時からずっとA判定だと言う。その時点ですでに謙吾に傾きつつあった雪花にとっては、進学先が同じ県内になり、連絡先を知っていたとしても、同じ大学でなければ、会う機会などほとんど無いに等しくなってしまう不安にさいなまれた。雪花の狙っていた私立大学と謙吾の狙っていた国立大学は直線距離で二五キロがある。メールやラインがあっても遠く感じる物理的距離。かと言って、自分は国立大学を受けられるような数学の実力もないしと、迷いに身を置くことになった。その頃はまだインターハイにつながる北信越大会も控えていたため、ただ受験のことだけを考えている場合でもなかった。

 ある日、進路指導室で郵送されて来たたばかりの真新しい津潟大学のパンフレットを何気なく読んでいると、来年度に新規に学部を開設するとあった。私立大学の学科と似た専攻が含まれており、一次試験の数学はⅠAまたはⅡBで一種類を選ぶことができるとあった。それは、なおのこと雪花の心を大きく揺らした。

 ――数ⅠAくらいなら、夏頑張れば……

 そんな思いが、

 ――やっぱり、同じ大学へ行きたい!

 という願望を後押しし、衣替えを契機とばかりに、志望校を変更、懸命に数学の勉強を始めていたのである。

 ――学部が違っていても、同じ大学なら、違う大学へ行くよりも会う理由はいくらでもつけられるし

 それが打算でしかないのは、雪花自身がつくづく分かっていることだった。彼女のその不器用さを真澄は、

「大学云々ではなくて、龍宮君に飛び込んで行けばいいのに」

と辛口に批評した。が、それができないから、雪花はせめてもの果敢に挑んだのだ。

「波野。おい、聞いてるか?」

「え、ハイ……」

「国立、どうすんだ?」

 ――龍宮くん

 雪花はまぶたをギュッと閉じる。模試結果を握った手に力が入る。

「以前の志望校なら推薦で行けるぞ、恐らくな。それならそこまで数学の点数にへこまんでも、この高校最後の夏ももっと楽しくエンジョイできるんだぞ」

 担任の言うことは一理あるどころかもっともだった。しかし、その高校最後の夏。謙吾との距離を遠くしてしまうような選択をすれば、楽しくも、エンジョイもありはしない。夏休みだが平日は学校に来て講習を受けて、昼食をたまに一緒に食べ、下校が一緒になることもある。ストリーミングが昨今だと言うのにCDの貸し借りもある。忘れ物をして夜の校舎で鉢合うこともあった。ただそれだけだったとしても、雪花にとってはそんな日々に居心地の良さを感じていた。ここであきらめてしまったら、それもなくなってしまう。それは彼女にとって勉強の大変さよりも道さえ見えない真っ黒な未来を歩むことを意味していた。

だから、

「もう国立はやめるか?」

 和泉の決定的な問いかけに彼女は、

「私は頑張りたいんです!」

 力強く断定をした。暗い未来にしないために。

それを聞いて、担任は満足そうな表情に変わった。

「そうか。どうだ? 宣言しちまった感想は?」

「……?」

 雪花は和泉の真意を探りかねる。

「北信越に行くまで努力してきたんだろ、部活。何度もぶつかって、失敗して、でも一センチでも高く跳ぼうとやってきたんだろ。高跳びも勉強も同じだ。お前ならやれるよ」

「はいッ」

 和泉の言葉の数々が雪花を励ますものであると、ようやくにして解され、この部屋に入ってようやく彼女らしい清明な返答となった。雪花の隣にいた真澄も、心なしか頬の筋肉が緩んだ。

「他の科目、手抜くなよ。数学は龍宮にでも教えてもらったらどうだ?」

「いや、それは何というか……」

「大丈夫だな?」

 妄想少女のスタートを阻止する。さすがは担任。自分の生徒のことはよく知ったものである。

「はい、大丈夫です」

 それを聞いて、雪花の肩にポンと手を置く真澄。

 二人は一礼をして、地学準備室を軽やかに出た。

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