第14話 忘れ物

 生徒のにぎわいのない坂道を上る。

 夕食後、謙吾は頭を抱えた。鞄の中に宿題のプリントがなかったからである。恐らく学校に忘れたという、小学生以来の失態の惨状が広がっていたのだ。翌朝、早めに登校して学校でやろうにも一限目にある教科なので間に合わない。となれば、この日の内に手を付けておかなければならない。

 用務員さんが勤務終了する二十二時までにはまだ二時間半ほどもあった。理由を話して入れてもらうしかない。本来なら制服での登下校をすべきだが、そうしないことの許可も。

 生徒用玄関はすでに施錠されている。職員用出入り口に向かう。ドアを開けてすぐの小窓の向こうにいる用務員さんから懐中電灯を借りた。忘れ物を取りに来たたった一人のために、校内を明るくするのは、節電と言わないまでももったいない。

「何だ、君もか」

 などと言われ釈然としなかったが、自教室に近づくにつれ物音がすれば、クラスメートの誰かが同じように忘れ物でも取りに来ただろうなんて容易に想像できた。

 蛍光灯は点けてない。黒い部屋の中で球状の灯りがぼんやりと浮かび、不規則に揺らめいていた。

 先陣は急なドアの開放に驚いて様子で、懐中電灯を謙吾に向けた。

「龍宮くん?」

 すっとんきょうな声色の雪花が自席に立っていた。

「波野、今まで部活やってたのか?」

「ううん、夕方には終わったんだけど、帰ってから鞄にないのに気付いて」

「忘れ物か。俺もだ」

 机の中からプリントを拾い出し、軽い鞄に入れる謙吾。

 他方、鞄の持ち手をギシギシと握りしめて、突然のサプライズイベント発生に

「何ですか、この状況は!」

 思わず言葉がこぼれ出していた。昼の様相とは異なる夜の教室は、さすがに雪花のささやき音声も不鮮明ながら謙吾に届く。

「何か言ったか?」

「ううん、何でもない。じゃ。私先行くね」

 誤魔化すようにそそくさと鞄を閉じる。

「何だったら、送ろうか」

「エ? オクロウカ?」

 雪花にとって予想外第二弾。突然の登場、さらに謙吾からのお誘い。返答が片言になったとしても、恋する乙女としては何の不思議もない。

「いや、俺ももう持ったから、帰るし。女子一人ってのもな」

「私、自転車だけど」

 ――て、何言ってんのよ、このチャンスを!

 瞬時、帰宅方法を正直に答えてしまう自分の迂闊さを嘆く。

「じゃあ……」

「自転車だけど、押すんで途中までお願いしようかな……なんて」

 この機会を逃すまい。挽回のペダルを急発進で回す。さすがに言い訳がましくなったのではないかと、ちらりと謙吾の顔色を窺う。こんなことから自分の気持ちが漏れ出てしまわないかとの心配もあった。

「そうか。なら、行こうか」

「ときめきなさるな! クールダウンよ、クールダウン」

 深呼吸をして、内心のガッツポーズと波打つ動悸を、小声で落ち着かせる。どうやら謙吾は雪花の取り繕いに何も気づいていないようである。

静謐の廊下に二つの足音だけが響く。

 口数の多い方ではない謙吾が何も言わないのは、常日頃からのことであるが、雪花にしてみれば、どうにも平常に戻らない鼓動が口を開いてしまったら、何事を話してしまうか分からなかったので、理性的にあれを言おう、これを言ってみようなどと頭の中が渦巻いていると、押し黙ったままになってしまったのだ。

 そうこうしていれば、あっという間に用務員室の前まで。小窓から懐中電灯を返す。

「気ィつけて帰れよ。おい男子、女子頼んだぞ」

 二人から順に受け取りつつ、用務員さんが単に別れの挨拶だけでなく、ワンフレーズを添えてくれたことに、

「グッジョブ、用務員さん」

 雪花はサムアップをするが、白髪の方には意味を解釈してもらえてはいなかった。

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