第3話 帰宅してみれば

 本日の講習日程が終了し、家に戻ると、浴室はもぬけの殻になっていた。やや速足で帰ってきたため、また朝には点けておいた家内のエアコンが停止していたため、ありとあらゆる部屋を覗いていると、汗が止めどもなく溢れる。

 喋り直立歩行するイルカなどはまるで夢だったかのようだが、浴室の水が残っていた。指を突っ込んで軽くしゃぶってみたら、しょっぱい。

「何だよ、帰ったのか?」

 浴室を出て、謙吾は何か物足りないつまらなさを感じていた。

「まあ、知ったこっちゃないけどさ」

 人目を憚るために浴室に慰留させたのだが、

 “ドッ”

 一高校生の謙吾にとって、闊歩するイルカがどうなろうと、確かにその一言に尽きるのだが、書置き一枚くらい残しておいてもと思うのは、感傷的すぎるだろうか。箸を持てたからと言って筆記具を使いこなせるとは限らないというのに。

 何とはなしに、もう一度玄関を出ると、謙吾は眉をひそませた。謙吾宅の前でじっと立ちつくす人がいたからである。

 謙吾と変わらぬくらいの身長――謙吾は全国平均よりも五、六センチ高い背――で、ロングの金髪はゆるくウェーブがかかっている。ゆったりとしているティシャツなのに豊満さとくびれを如実に表すボディラインが隠れようともしておらず、薄い色のデニム地のショートパンツ、そしてハイカットの白いデッキシューズを履いていた。色白な肌の上に、その整った顔立ちもあって、一見すれば、外国人モデルと言っても差し支えない女性だった。

 そのような知り合いなど謙吾にはおらず、勧誘か何かの類だろうと、断る文言を頭に浮かべていると、気配を取ったのか、彼女は謙吾に近づいて来た。

「おお、ケンゴよ。待ちわびたぞ」

 マリンブルーの瞳が愉快そうに光っていた。

 謙吾は面食らった。彼には初見の外国人に呼び捨てにされるいわれがなく、その陽気で闊達とした声色にすぐに反応ができなかった。

戸惑う彼の表情を見て、

「なんだ、ケンゴよ。挨拶ぐらいできんのか?」

 女子はいかにも不遜な様子で腰に手を当てた。

「俺はあなたみたいな人に心当たりはないんですけど、どなた?」

 ようやくにして訪問者を突き返してやろうという意欲が湧いてくる。

「何を他人行儀な。私を世話したろうが。一宿はしておらんが、一飯の礼くらいするのは当然だろ」

 ゆったりと、開けたままの玄関ドアに近づいてくる女性。彼女の言葉から謙吾と面識があるようだが、記憶を手繰り寄せても該当する女子はいない。

「まったく、これだから人と言うのは」

 謙吾の目の前で止まると、後ろ頭に片手をつけ、嘆くように彼女は続けた。

「私だ。今朝方ケンゴに助けられたではないか。そうだ、朝食は美味かったぞ。馳走になった」

 謙吾は思い出す。今朝、自分が助けて、そして朝食云々と言えば、

「あ~?」

 左右の眉を測定中の上皿天秤にしながら、女子の顔を覗き込む。謙吾は彼女の言葉から計算式の解を導き出した。驚愕の声を上げようとしたそれよりもわずかに早く、

「ケンゴよ、私はお前が助けたイルカだ」

 彼女の断定。

「はァ―――――――――――――――ッ?」

 集落に響き渡るのではないかというくらいに上がった絶叫。

「何をでかい声を出している」

 打ち上げられたイルカだと主張する女子は耳障りそうだ。

「ンな自己紹介されて信じられるか!」

力強い声継続中の謙吾に、彼女は指を立てて静粛を求める。

「まあ、無理は無かろう。人には容易に理解できんだろうが、事実なのだ。論より証拠を見ておれ」

 彼女は右耳のピアスを親指と人差し指で挟んだ。すると、どこから湧いて来たのか、黒い膜が彼女の体を包む。光沢のある全身タイツのようだ。それはみるみるうちに楕円球状に膨らみ始め、地面に伏すとイルカの形状になった。

「な? 私だろ?」

 先の女性とは声質が異なる。聞き間違えることはない。あれだけのインパクトがあったイルカの声を。謙吾絶句。しゃべるイルカと遭遇した以上の、夏の怪奇現象再来である。ハッとして、我が敷地から出て歩道や道路を一瞥する。通行人も行き交う自動車もなく、安堵が大きな吐息になる。

「どうした? 分かったのか、私だと」

「分かったから、元に戻――」

 言いかけて、謙吾は自らの軽卒を叱責しなければならない。今程は無人だったが、イルカ→人への変身中、まさに人が通らないとも限らない。

イルカにそれを思いとどまらせようと、次の言葉を述べようとしたが遅かった。すでにイルカは立ち上がり、瞬く間に彼女の姿になっていた。

 再び他人の有無を確認する。早足で玄関先へ。このイルカ人間よりも謙吾の方が挙動不審である。

「まあ……そのイルカが、何だって人間になって……」

 頭を掻く謙吾に、

「待て、ケンゴよ。私にも名がある。サワと言う。だから、それで呼ぶが良い」

 腕を組んで、背を反らして自己紹介する。不遜が3Dプリンターから出てきたら、きっとこういう姿勢を取るだろう。

「んで、サワ……さん」

「呼び捨てでかまわん」

「サワ。なんでいるのかをもっと分かるように説明してくれんか」

「よかろう。ならば、茶でも飲みながら」

 と言いつつ、さっさと謙吾よりも先に家に入ろうとしていた。

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