第弐話

 その夜、共和国総督府にて。

 白と臙脂の壁紙が重厚な総督の執務室。アンティークデスクに背を向け窓の方を見つめる総督のハートマンに、軍服を纏うクラリスは丁寧に一礼。


「お帰りなさい、お父様」


 うむ、とだけ返答し彼女の顔にすら見向きもしない。

 窓ガラスに映った濁った眼の奥。それが微かに恐怖で震えている。亡き妻にそっくりな娘の外見に怯えたわけではない。何年経っても人形のような表情かおに固められた石膏模型な微笑に恐れているのだ。一つの生命体として。

 けれど自身のの目を見て話せぬのであれば、かつて『冷徹非情な総督』という異名も廃れる。矜持を守るために彼は今まであの手この手を駆使して彼女との接触を避けていた。しかしその反面、白銀の双眸に対して何ら耐性も付いていないのは実に困りものだ。


「最近はどんな様子だ」


「はい。相変わらず何かが起こりそうな日々が続いておりますよ――桜も満開のようですし、総督ご自身も偶に散策されてはいかがですか」


 うむ、と今度は伏し目がちになりながら返答した。

 一見こちらの心情を慮った言葉ではあるが、桜も咲かない夏にも秋にも冬にも同様の台詞が返ってこりゃあ警戒せざるを得ない。何せ彼女の言う『何かが起こりそう』は常に厄介事が付き纏うからだ。

 あの参年前の弥生伍日事件を経てから特にその単語をよく口にするようになったという報告が上がった程だ。


「もう良い。下がれ」


「はい」


 もう一度深く会釈して退室するクラリス。彼女の見送りなどせず門が完全に閉まるのを待つと、椅子に深く腰掛けて今日一長い溜息を吐き出す。

 他国との交渉と比べられない程の疲れが初老の躰に一気に押し寄せてきた。彫りの深い顔が顰めている間に、


「総督の帰還を一日千秋の思いで待ち侘びていました」


 ずっと部屋の一角に潜んでいた者に声を掛けられた。慣れ親しんだ声を耳にしたからか、総督は背凭れに体重を預ける。


「あのの監視強化を頼む。それと――例の件、実行しろ」


「はい、総督の仰せのままに」


 仰々しく頭を下げた男は暗闇に紛れて姿を消した。

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