第伍話

「こ、ここまで来たらもう大丈夫だろ……」


 近くの公園に逃げ込んで、細い手首を離す。息絶え絶えになりながらも背中越しに確認する。追手は一人もいないことに心の底から安堵した駿之介は、背もたれのないベンチにドスンと腰を沈め、酸素欲しさに大きく開いた口で何度も呼吸する。

 そんな彼とは対照的に彼女からは息を整える素振りが全然見えない。彼の運動不足だと決めつけてはそれまでのことだが、第一こちらは健康体の男で相手は女だ。しかも、かなり痩せこけたのそれの。


 骨と皮一枚が繋ぐだけの手首――長期間にわたる栄養不足でしかできないものだ。


(訳アリ、か)


 息切れが回復するまで感触を思い出しながら自身の掌を見下ろし少し開閉させた。少女の現状が垣間見えて、悪寒が背中を走る――だけど助ける義理があるかどうかはまた別の話。


(最低限の接触を済ませた。このまま放置するのも一つの手だ)


 上体を起こして横目で隣のベンチで座っている少女を見る。結局のところ、赤の他人だ。見ず知らずの人に手を差し伸べる程、善良な心を持ち合わせていない。


(一応、事情を聞くべきか)


 無責任な行動を思い留まり、膝の上に両肘を乗せる。どうやら彼の腐った心にもまだ同情の念が残っているようだ。


「お前さ、こんな夜遅くまでそこで何してたんだ」


「別に……どこに行ったってアンタには関係ないでしょ。てか、アンタにも言われたくないけど」


 ごもっともだ。しかしそれを言い出したらお終いなので飲み込んだんだが、却って言葉に詰まった。

 仕方がない。今彼女にできる最低限のことをしよう。


「それよりも女の子一人で帰るのは危ないだろう。家まで送ってやる」


「家なんてない」


「はあ? いや、家なんてないはないだろうが。きっと親御さんだって──」


「……い」


「ん? 今なんて──」


「ッるさい! 好き放題ばっかり言って……。無関係はあっち行ってろ! もううんざりなんだよどいつもこいつも。誰が好きでこんな……ッ。もう、放っておいてよおお!」


 人の好意を突っ撥ねる大喝が無遠慮に深夜の静寂を切り裂き、思わず黙り込んでしまう。剣幕に呑まれたのも勿論あるが、それよりも以上に怒声の中に含まれる悲愴さや自暴自棄を感じ取ったからだ。

 夜風に撫でられて少しばかりの冷静さを取り戻し、改めて状況確認。


 もし現実世界むこうで同じようなことが起きたら、きっと見て見ぬフリをするだろう。鬱憤晴らしに他人を傷つけることを厭わないネット社会出身の彼だ。

 腐敗した社会で培っていた保身本能に従いたくなる気持ちに頷ける。

 それに今の彼はお金の力で解決する社会人ではない。学校初日をすっぽかした一ヤンチャな転校生に過ぎない。訳アリマシマシの家出少女を助けたくてもその力がないのもまた事実。


 とりあえず脳内で計画を立てたものの、果たして上手く行けるのかは分からない。立ち上がり、『お前の事情なんて興味ない』と示すばかりに欠伸を添えるとついでにぐんと背伸び。


「ウチは学生寮だから少々物足りないかもしれないが、まあないよりマシだろう」


 重く聞こえないよう、声音に気を配りながらも空に向かって飛ばし。余裕があると見せ付けるように腰に両手を添える。

 いつしか見たアニメの主人公の真似事ではあるが、誰かのためにピエロを演じるぐらいなら安いものだ。


「一晩。一晩だけ泊めてやる。その後お前がどうなろうが、どこに消えようが気にしないようにする。それでいいだろう?」


「……送り狼になったら承知しないから」


「ははは、まだ警戒する余裕があるとは結構結構。その点に関しては大丈夫だ。何せ、お前のような貧相なガキを狙うつもりなんてないから安心しろ」


 相手のための嘘が虚しく脳内でこだまする。嘘も方便だと皆口々揃って言うけれど、


(平然な顔で、何白々しいことを)


 自己嫌悪に似た黒い渦が胸中で湧き起こり、歩き出す。

 強がりな後ろ姿を眺め、少女は躊躇の気配を見せたものの、最終的に彼に付いて行った。









※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※









 月華荘に帰った時には既に23時25分。幸い、ほとんどの住人が寝ている時間帯だ。けれど予備知識はあっても彼が安心しているわけではない。

 慎重かつ大胆に、時に丁寧に時に素早く行動しなければならない。何せこちとら初対面の少女を他人の家に連れ込む、不良一歩手前の転校生だ。


 バレたら即ゲームオーバー。もしかしたら今この瞬間でもお別れの時が近付いているかもしれない。が、彼女の前で大口を叩いた以上最後まで責任を持たないと。

 まず一階に人がいないかチェック。それから彼女を風呂場に案内する。幸い、物音一つ立てぬようにという頼みに協力してくれたおかげでここまで順調に進んだ。しかし──。


「その、着替えとか持ってない?」


「着替え、か」


 一番肝心なものをオウム返しのように呟き、どうしてそこまで頭が回らなかったのかという自責が追い打ちを掛ける。着替えは駿之介のパジャマで一先ず良しとしても、それでも一番重要なパーツがない。

 女と言えば下着、下着と言えば女であるように、女性にとって下着は必需品である。

 体型を見るに夏目から借りた方が良さそうだが、この時間帯に彼女を起こすのは良心が許すはずもない。それに仮に借りれたとしてもルームメイトの小夜まで起こす可能性だってある。そうなれば少女の存在がバレる可能性もぐんと上がるし、計画がおじゃんだ。


 仕方ない、妹から借りよう。思い立ったら即行動。まさか彼の決断力はここで初めて光るとは。

 少女に待機するように伝え、柚の部屋へ。目的地ターゲットは夏目と小夜の部屋とかなり近いため抜き足差し足で。コンコン、と襖を叩くと程なくして眠たい顔が姿を現す。


「あれ、駿兄。どうしたの? というか、体調大丈夫?」


「あ、ああ。丸一日も休んだからな。すっかり元気になったよ。それよりも柚に頼みがあるんだ」


「ん? なになに? 何でも聞くよ」


「何も聞かずにお前の下着を貸してくれ」


「――――え」

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